100 十番切幡寺 [Sep 6, 2015]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

急な腹痛から解放され、ようやく落ち着いて歩くことができるようになった。十番切幡寺までは3.8km、距離だけみると1時間かからないくらいだが、最後に長い登り坂と階段があるという難所である。

道の両脇は水田が目立つようになって、農家の庭先にはトラクターが置いてある。まさに田園地帯という雰囲気である。しばらく歩くと、右手に大きな駐車場のあるお寺さんがあった。看板を見ると浄土真宗なので、札所ではない。札所ではなくても、これだけ大きなお寺さんがあるのだなあと思って見ていると、道を挟んだ向かいにある小さなお堂が小豆洗い大師であった。

この小豆洗い大師、四国地区のあちこちにある弘法大師の水利伝説の一つである。これまでも三番金泉寺など大師が杖で突いて出したという井戸があったが、ここもそうである。

四国はあちらこちらにあるため池が示すように、水の便の得にくいところであった。また、ここ二十年くらいでも何回か渇水という事態があり、降らない時には全く雨が降らない。阿波地域は吉野川があるので瀬戸内より恵まれているものの、こうした伝説が多く残されているということは、水利にはかなり苦心があったようだ。

弘法大師は建築や地学にも造詣が深かったようで、讃岐・満濃池の整備では政府から現場監督として派遣されている。だからダウジングくらいはできたかもしれないが、これだけ水利伝説の数が多いとちょっと疑わしい。何しろ空海は遣唐使以降は有名になってきわめて多忙となり、四国にそうたびたびは来られなかったからだ。

小豆洗い大師を過ぎてしばらくは住宅街だが、しだいに家はまばらになり右側は斜面になる。林の中に看板が立てられている。細かい字で読みにくいので少し近づいて見てみると、「秋月城跡」と書いてあった。

説明書きを読むと、ここに室町時代勢力のあった秋月氏の居城があったとのことである。戦国時代に長宗我部氏との戦いで敗れ、四国全域が長宗我部の勢力圏となった。そういえば、このあたりの札所の多くは戦国時代に一度焼かれているのだけれど、それは秋月氏をはじめとする阿波の勢力と長宗我部氏の戦いによるものだったのである。

秋月城跡を過ぎてしばらく歩くと、山の方向、北に向きを変えるよう道案内がある。これまでの片側一車線の道路から、車一台ようやく通れるくらいの狭い路地で、ここから十番切幡寺まで長い登り坂となる。

この道路、道幅は車一台ようやく通れるくらいの狭さなのだが、よく見ると左右に民宿がある。ただ、「本日6000円」の看板も裏返っているし、玄関口には 「本日お休みさせていただきます」と書いた紙がセロテープで貼ってあったりする。本日だけではなく、ここしばらく営業していないように見える。あるいはシーズンのみの営業なの だろうか。

さらにお土産屋さんと思しき間口の広い家には、シャッターが下りている。この日は日曜日で、もうすぐお昼である。この時間にやっていないということは、多分朝からやっていないのであり、平日もやっていないと思われる。

家並みの最後に、1軒だけシャッターを開けているお店があった。WEBでよく見るところの「スモトリ屋」である。看板にお相撲さんの絵が描いてある。店の 人はいるのだけれど、店番をしながら、子供なのか孫なのか小さな女の子と遊んでいる。私以外に通る人もいないが、いずれにしても店の外に注意を 払っている様子はなかった。

察するところ、ここが切幡寺の門前町なのである。WEBで事前に調べたところでは、この門前町で時々お接待もあるらしいのだが、とてもそんな雰囲気ではなかった。とにかく人通りがないし、店も開いていないのである。


浄土真宗の大きなお寺さんの前、通りを挟んで反対側に地味に建っている小豆洗い大師。弘法大師が祈願して水が出たという逸話がある場所は、阿波には結構たくさんある。


ここで大通りから北に方向を変え、切幡寺の門前町に入る。車のすれ違いはできない細い道で、左右の店や民宿もやっていないところが多い。

話は変わるが、四国遍路が盛んになったのはここ2、30年だという記事を見ることがある(例えばこちら)。もちろん、現地の人には現地なりの感じ方や考え方があると思うけれども、個人的にはこの主張にはあまり賛成できない。その大きな根拠が、こうした門前町の衰退なのである。

私の住んでいる千葉県でも、以前は繁栄していた門前町がここ何十年で急激にさびれてきている。成田山だって、50年くらい前は京成の駅から新勝寺までずっと商店や食堂、土産物店が続いていたが、いまは新勝寺の石段下にかたまってあるくらいだ。

露店も年末年始でもないと店を畳んだままである。名前はあげないが他にも地図に名前の出ているお寺や神社で、昔営業していたと思われる店が廃墟になっているところは多い。

戦後まもなくから高度成長期まで、庶民の数少ないレジャーが寺社詣でだった。いまならテーマパークやイベントやさまざまなグルメがあるけれども、当時は映画とかデパートめぐりがレジャーの中心だった。そのうちの一つが江戸時代から伝統のある寺社詣でである。そして、1970年代以降これらの産業はずっと右肩下がりで、今日では斜陽産業化している。

まだ自家用車もあまり普及していない時代、みんな国鉄や路線バスを利用してお寺さんお宮さんにお参りした。みんな歩きなので必然的に門前町を通るし、時間がかかるから食事もしなければならない。主要駅では必ず駅弁とお茶を売っていたし、食堂のニーズも今とは比べものにならないくらい大きかった。

さかのぼって明治時代の状況を、宮本常一の名著「忘れられた日本人」から引用してみる。
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女の組はわしらばかりでなく、ずいぶんよけいまいておりました。まいているのは豊後の国の者が多うて、わしら道々何ぼ組も豊後の女衆にあいました。お互いに名乗りおうて、それからは二、三日いっしょにあるく、そのうちに何かの都合ではなれて、ほかの組といっしょになるというように・・・。

わしら金も持っておらんので、阿波の国と土佐の国の境まで歩いて、また戻って来ました。歩く分には宿には困ることはありませだった。どこにも気安うにとめてくれる善根宿があって、それに春であったから方々からお接待が出て、食うものも十分にありました。
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これは、昭和初期に宮本常一の郷里である周防大島で老女から聞き取り調査したもので、明治時代初めのことである。その当時、世の中のことを知らないで家の中ばかりにいたのでは嫁のもらい手もなかったということで、新聞もラジオもない時代だから他の土地に行くことが推奨されたようである。

江戸時代に高野山の僧・真念が「四国遍路道指南(みちしるべ)」を上梓した頃、すでに八十八札所は成立していた。江戸の人々は成田山や丹沢大山、伊勢神宮、善光寺、出羽三山などにお参りしたが、京都大坂からは高野山や熊野三山、四国札所にお参りする例が多かった。

ちなみに、八十八札所をバスで順繰りに回ろうという「遍路ツアー」は近年になって出てきたものではなく、戦前からあった。もちろん、その頃の札所を実際に見たことはないのだけれど、昔よりも現在の方が札所回りが盛んであって、人が多くなったとはどうしても思えないのである。

最近でも、札所周辺の民宿が次々と廃業している(一番霊山寺の民宿阿波や、二十一番太龍寺の坂口屋も)。車遍路の増加も一つの要因ではあるけれども、札所にお参りする人の絶対数も減少しているのではないだろうか。

十番切幡寺に話を戻すと、遍路道はスモトリ屋の前を通って、再び徳島自動車道の高架下をくぐる。すでにかなりの傾斜があるので、歩くのに骨が折れる。寂しい門前町の後は、舗装はしてあるものの草むらの間を通るひと気のない道である。女性に人気の札所というのでもっと華やかなところ予想していたけれど、ちょっとそういう雰囲気ではない。

坂道の先に、ようやく山門が見えてきた。山門の先には川が流れていて、小広い境内になっており、その脇から急な階段が立ち上がっている。全部で三百三十段と書いてある。息をきらせて、最初のシリーズを登り切る。降ったり止んだりしている雨が、このあたりで勢いを増してきた。折り畳み傘を開く。第二シリーズが始まる。胸を突くような急勾配の登りである。


門前町から高速をくぐり、さらに坂道を上がってようやく切幡寺の山門が見えてくる。


山門からさらに坂を上がって、ようやく噂の石段にたどり着く。これは三百三十三段のうち百段くらい登った後の二つ目のシリーズ。さらに上に「女やくよけ坂」「男やくよけ坂」が続いてようやく本堂。

得度山切幡寺(とくどさん・きりはたじ)、この寺も弘法大師空海の開山と伝えられる。この地で修行していた弘法大師が、ほころびた僧衣を繕うために機織りの娘に布きれを所望したことが由来とされる。

たいへん感謝した弘法大師が娘に何か望みはないかと尋ねたところ、実はこの娘は薬子の変(平安時代初期の政変)で罰せられた貴族の子供で、父母に代わって観音様をお祀りしたいという希望であったので娘を得度(出家)させたところ、娘はたちまちのうちに千手観音に変身したという。このため、女人成仏の寺とされる。

一方で、たびたび引き合いに出す参考文献、五来重「四国遍路の寺」によると、切幡寺の「幡」は機(はた)ではなく幣(ぬさ)のことであり、この寺で長く流水灌頂会(るすいかんじょうえ)があったことと合わせて考えると、水神信仰から発展した霊場ではないかと考察している。流水灌頂会は水難やお産による死者を供養するものであり、いずれにしても女性との関わりが深い。

さて、門前町の入口あたりからずっと続く登り坂はその傾斜のまま山門を過ぎ、境内を流れる川にかかっている橋を渡り、ようやく噂の長い石段にたどり着いた。

三百三十三段あるらしい。いずれにせよ、登らなければ仕方がない。最初の1シリーズを登るとお堂がある。手を合わせて次の石段に向かう。あと二百三十段。息を切らせつつ登ると、やや左に角度を変えて「女やくよけ坂」、続いて「男やくよけ坂」と登って、ようやく本堂エリアに到着した。

山の上なので、それほど広くないスペースに本堂、大師堂がある。奥の上の方に塔が見えるが、さらに石段を上がらなければならない上に時間が気になるので断念する。読経を終えて、階段脇の納経所へ向かう。ここでご朱印をいただけるのはかなりご年配の女性というWEB情報だったが、果たしてそのとおりだった。

このおばあさん、WEB情報によると、TVを見ながら納経するとか、挨拶の代わりにげっぷをするとか大変な評判だったのだが、幸い私の時にはそんなことはなかった。筆を握るとすらすらと三行の文字を書き、ご朱印を押してくれた。

時刻はまだ11時20分、前日に「うどん萌月」のご主人から聞いたタイムリミットである12時には余裕がある。とりあえずトイレへ。ここのトイレに行くには納経所の横、お寺さんの庫裏の横を抜けていく。庫裏は宿坊でもできそうなくらい大きかった。トイレの横からみると、庫裏のすぐ隣が駐車場となっている。お寺の関係者であれば、三百何十段の石段を上がらなくても車で来れるようだ。

ここから十一番藤井寺まで、10km弱の長丁場である。雨がぽつぽつ来ているのでレインウェアを着ける頃合いなのだが、残念ながらトイレも屋外だし、着替える場所がなかった。自動販売機とベンチがあったので、座って水分補給をしながら作戦を練る。

先ほどから雨が降ったり止んだりしているものの、速乾上下の遍路白衣は裏がメッシュなので全然べとつかず、湿った感もない。八番までレインウェアで歩いた際にウェアの内側が蒸気で湿ってしまったことを思うと、このまま行ってしまった方がいいのではないかという気もする。いよいよ本降りになってしまったら、そのときはそのときである。

いずれにせよ、本降りになる前にできるだけ前に進んでおかなければならない。11時25分に切幡寺の石段を下り始めた。

[行程]九番法輪寺 9:50 →(3.8km) 10:50 十番切幡寺 11:25


切幡寺本堂。左が納経所。納経所の奥(さらに左)に、宿坊ができそうなほど大きな庫裏、というかお寺さんの住居がある。


切幡寺大師堂。女人成仏の寺というので、もう少しにぎやかなお寺を予想していました。まあ、読経するにはひと気が少ない方が望ましいのですが。

[Feb 6, 2016]