120 十二番焼山寺 [Nov 1, 2015]


の図表はカシミール3Dにより作成しています。

さて、四国遍路遠征も三回目。今回は八十八札所中屈指の難所、「遍路ころがし」と呼ばれる十二番焼山寺の登り下りである。

こうして四国札所巡礼の連載記事を書いているが、WEB等に書かれていることを鵜呑みにして書いてもあまり意味がない。八十八札所は空海ゆかりとされているので、空海の開山とか本尊は空海作とかいう伝説があるのは仕方ないけれども、例えば阿波(徳島県)の多くの寺は戦国時代に焼けてしまっていて、江戸時代に蜂須賀の殿様が再興したのは違う場所だったりするのである。

公式ホームページに載っている由来は由来として、少なくとも、 文献が残されている江戸時代初期の資料くらいは目を通す必要がある。私が参考としているのは、真念「四国遍路道指南」、寂本「四国遍礼霊場記」、澄禅「四国辺路日記」の3つである。他にも古典とされる賢明「空性法親王四国礼場御巡幸記」があるものの、書籍・WEBでの入手のしやすさからこの3つを重視している。

真念「四国遍路道指南(みちしるべ)」はお遍路界のバイブルとされる古典で、生涯に20度以上の遍路巡礼をした僧侶・真念が1687年に大阪で出版したものである。八十八札所を初めて確定したのがこの「道指南」であるとされる。お遍路さんが携行することを想定していたようで、情報としては簡潔である(現代語訳は地図を入れても文庫本1冊である)。ちなみに、私はこの「道指南」を読んで、初めて各札所でいただく「お姿」の意味が分かった。

2番目の寂本「四国遍礼霊場記」は1689年の刊行。各札所の境内略図を載せていることで有名である。この本は、「道指南」で真念が巡拝中まとめた記録と、真念に同行した僧・洪卓の画いた略図をもとにして、2人にとっては本社のお偉いさんにあたる高野山の僧・寂本が編集しており、「道指南」の兄弟本ともいえるものである。全7巻で、「道指南」よりもかなり分量があり、詳しい記事が書かれている。

3番目の澄禅「四国辺路日記」は「道指南」の約30年前、1653年に京都智積院(ちじゃくいん)の僧・澄禅によりまとめられた遍路日記である。近年になって発見された文献で、公刊されていない点で上の2つに比べて資料としての価値はやや割り引かれるものの、内容を見る限り「道指南」よりも古い札所の姿を表しているとみることができる。

これらの参考文献で札所の歴史を勉強しつつ三回目のお遍路に向かったのは2015年の10月31日、前回のお遍路から約2ヵ月後のことであった。今回のスケジュールは、初日はゆっくり出発して鴨島泊、2日目の早朝に十一番藤井寺を経て十二番焼山寺、そのまま神山温泉まで歩いて宿泊。3日目は十三番大日寺から十七番井戸寺まで打って、そのまま徳島駅まで歩くという計画である。

午後1時徳島空港着の便なので、1時50分徳島発の列車に乗れるかと思ったのだが、惜しくも2、3分遅れでJR徳島駅に到着した。例によってセルフうどん「やま」に入って、冷やしぶっかけうどんでお昼にする。そのまま隣のドラッグストアで日焼け止めを買う。今回は天気予報が微妙で翌日の夕方から雨が降りそうなのだが、その時点ではいい天気であった。山の上に行くので、やはり日焼け止めは必要である。

徳島駅ホームの待合室で時間をつぶし、2時46分発阿波池田行の列車で鴨島に向かう。出発直前に走りこんできた老夫婦が、「これは鳴門には行かないですか」と言ってあわてて降りる。しかし、そんなにあわてなくても、すれ違い列車が来ないので5分ほど遅れたのだった。

3時半前に鴨島着。2ヵ月前に工事中だった駅舎はきれいになっており、ホームに隣接してセブンイレブンができていた。前回は大雨の中を急いだ駅前通りをのんびり歩く。今回はいい天気で風もないので、余計にのんびりする。ただし、ひと気がないのは前回と変わらない。

今回予約した宿は「アクセス鴨島」である。藤井寺のすぐ近くにある「旅館吉野」とどちらにするか迷ったのだが、朝早く出発したいと思っていたので早く起きて支度できるビジネスホテルにした。

WEBでは位置が分かりにくいと書いてあったので少し心配だったが、駅からまっすぐ進んで国道と交差するところに看板があった。ファミリーマートの奥にあるので入口が分かりづらいものの、一度見つけてしまえば問題はない。

部屋は少し狭いようだが、清潔で静かなのはいい。カードキーが使い捨てで、ホテル自体も3階建てと低層。廊下の雰囲気や築年数も含めて、前回泊まった七番十楽寺の宿坊とよく似ていた。もしかすると、同じ設計事務所なのかもしれない。

夕飯は宿から右手に約5分のスシローまで歩いたのだが、待ち行列ができていたので通りの向い側、丸亀製麺へ。昼夜続けてうどんになってしまった。


国道192号前から、これから越える焼山寺への稜線を望む。ファミリーマートの後ろがアクセス鴨島。


焼山寺道の前日に泊まったビジネスホテル、アクセス鴨島。感じが十楽寺宿坊と似ている。

翌2015年11月1日、前の日にあまり動いていないせいか、3時半に目が覚めた。

カップヌードルカレー味とポテトサラダ、牛乳で朝ごはん。身支度は山歩きの時と同じで、オーロンのアンダーシャツと冬ズボン、下にCW-X。登山用のシャツの上から新規に調達した「いっぽ一歩堂」の袖なし軽装白衣を羽織る。寒くはなかったので防寒兼用のレインウェアは着なかったが、まだ外は真っ暗なのでヘッデン(登山用ヘッドランプ)を用意して4時半に出発した。

国道に沿ってローソンまで歩き、そこから山に向かって南に進む。前回、雨の中を歩いた道である。進行方向に見える鉄筋4階建ての建物は、公営住宅のようである。階段のところに常夜灯が点けられていてとても明るい。

ふと、幸せってなんだろうと考える。わざわざ騒々しい都会に来なくたって、好きな女の子とささやかに暮らせるならば十分幸せだと思った。なぜそんなことを急に思ったのだろう。

空を見上げると、中空に浮かんだ月が雲に隠れたりまた出てきたりしている。月が明るいので星が降るようにという訳にはいかないけれども、冬の星座であるオリオン座がちょうど南中している。オリオン座を中心としてひし型に明るい星が見えるが、いまひとつ同定できない。

そして東の空に、ひときわ鮮やかに光る二つの星が見える。この時期に見えて明るいのはシリウスだが、それならば二つ連なって見えるのはおかしい。あるいは惑星だろうかと思うけれど、そこまで調べてはいなかった。(後から調べたところ、金星と木星と分かった。明るいはずで、両方ともマイナス等級である)

旅館吉野の前を通ったのは5時少し前。もうすでに、厨房と思われる一角で灯りが点いていた。朝食とお弁当の用意もするので、このくらいの時間から支度するのだろう。ただ、この時間にここを通過できれば、泊まり客に対して1時間以上のアドバンテージがある。ビジネスホテルにして早起きしたメリットである。

旅館吉野を過ぎると灯りの点いている家はなく、街灯の間隔も広がっているので足下が見えない。ここで用意したヘッデンを点灯する。普段はキャンプや山小屋で夜中のトイレに使うくらいだが、今回は本格的な夜の道である。藤井寺への分岐を見逃さないように注意していたけれども、ほぼ道なりに歩いていたらそのまま駐車場に到着した。

駐車場にはもちろん誰もいないし、トイレの建物もシャッターが下りていて真っ暗である(この時間には使えないということだ)。山門の電球が一つだけ明るい。しかし奥の方を見ると、庫裏と思われるあたりの建物に灯りが点いている。まだ5時を過ぎたばかりなのに、もうお勤めをしているのだろうか。

境内に入ると、ちょうど本堂の方から歩いてくるご住職とすれ違った。すでに袈裟を付けた正装である。私の方を見て、「おっ」とか「おお」という声を上げたので、「おはようございます」とご挨拶する。石段の上の本堂・大師堂の中にはすでに灯りが入り、すでに朝のお勤めをすまされたようである。あたりが真っ暗で本堂だけに灯りが入っているので、ご本尊のお姿をはっきり見ることができた。

そういえば、多くの札所では本堂に入れないし、たいてい蔀戸(しとみど)が下ろされているのでご本尊のお姿を直接見られるところは少ない(だから、納経所でお姿をいただくのである)。せっかくなので、前まで進んで中を見させていただく。天井には、水墨画風に竜の絵が描かれている。ご本尊の前に座布団が置いてあるのは、先ほどまでご住職がお勤めしていたのだろう。

もう一度手を合わせて、本堂の左に向かう。時計を見ると5時15分である。真っ暗で何も見えないが、道の左右に、「焼山寺道」「この先トイレはありません」と書いてあるのでここから遍路道が始まるものと思われた。写真を撮ろうと試してみたけれども、携帯のカメラでは暗すぎて何も写らなかった。ヘッデンなしではとても歩けなかっただろう。

歩き始めると、いきなりの登り坂である。小さい祠に石造りの仏像が入っており、横には「一番霊山寺」「二番極楽寺」などと書いてある。八十八札所のミニチュアである。ただ、枝分かれした先に置いてあるものもあるし、そもそも暗いし、道端には「まむし注意」などと書いてあるしで、あまりゆっくり見ることはできなかった。坂は急坂が続いたりなだらかになったりしてしばらく続いた。

時折、木々の間から鴨島市街の夜景が見える。きれいである。20分ほどでトタン屋根の建物が見えてきて、その先に東屋がある。遍路地図にある端山休憩所である。少しずつ東の空が明るくなってきて、6時ちょうどに藤井寺からと思われる低い鐘の音が麓から山の中へと響いた。その頃になってようやく、ヘッデンなしでも足もとが見えるくらいの明るさとなった。


藤井寺の山門はまだ真っ暗。でも庫裏には明かりが点いていて、ご住職が朝のお勤めをしていました。


長戸庵を過ぎてすぐ、風景発心の地という展望地があって、休憩できるベンチがある。

第一チェックポイントの長戸庵に着いたのは、焼山寺道に入って1時間20分ほど歩いた午前6時半過ぎ。リュックを下ろしてひと息つく。

WEBでは休むのにちょうどいいから長戸(ちょうど)庵、などと書かれているが、私の参考としている廃村ブログによると、この庵から少し下ったところに、かつて長戸(ちょうど)という集落があり(いまは廃村)、そこから付けられた名前ということである。このあたりに「石鎚神社鎖場」があるらしく、そのように方向表示があったが、その行場が廃集落のあたりだという。

長戸庵の周囲はそこそこきれいにしてあるので、定期的にひとの手が入っていることは間違いないようだったが、長戸廃村への道がどれなのかは分からなかった。驚いたのは、これだけ山の中を歩いたのに携帯のアンテナが3本立っていたことで、奥さんにメールを打ったりして20分ほど休む。

20分も休んでしまったので先を急ごうと歩き出したところ、長戸庵から5分ほど登ったところで風景が開けていて、狭いながら屋根のある東屋様の休憩所ができていた。すぐ横には、「風景発心の地」と書いた柱が立てられている。こんな近くにこんな場所があるのなら、ここまで来て休んだのだが(水場もトイレもないが)。

さて、遍路地図の表示によれば、長戸庵から次のチェックポイントである柳水庵までの経路は登山道のようなのだが、実際には「風景発心の地」からしばらく進むと車も通れる幅の道と合流し、ここから先は整備された砂利道となる。なんとか幹線と書いてあったので、電力用か林業用か不明ながら巡視道として整備されているものと思われた。

このなんとか幹線ではかなり楽ができたのだけれど、再び右に道が分かれて傾斜のきつい登山道になる。ピークのあたりまで登ってそこから逆落としに急坂を下りてくると、20mくらい下に屋根が見えた。このあたりで人工物があるのは、柳水庵しかない。8時10分頃に柳水庵着。長戸庵から1時間15分、思ったよりも早く着くことができた。

山よりにお大師様ゆかりの水場があり、祭壇のようなものが置かれている。そこから石段を何段か下がって開けた平地にお大師堂と水場があり、さらに木造2階建ての住宅がある。この住宅には数年前まで老夫婦が住んでいて、数部屋ながら宿坊を経営されていたということである。

年齢的に続けていくことが難しくなり、現在では住居内立入禁止と書いてある。しかしながらたびたびいらっしゃって掃除や手入れをされていることは間違いなく、また、水場に流れて来ている水は、宿坊をしている時に使われていたであろう湧き水の集配水施設を使っているようであった。

水場の水源となっているのは、小高いところにある土管のあたりだと思うのだが、それはちょうど尾根が合わさった鞍部にある。水場は鞍部(コル)の近くにあるというのは今でもよく言われることで、おそらく空海はそういうことを知っていて、水の出そうなところを探すノウハウがあったのではないだろうか。庶民はそこまで知らないので、弘法大師様が杖で突いたら水が出た、ということになったのだろう。

実際に見るまでは、水場の水をそのまま飲んで大丈夫だろうかと思っていたのだが、かつて飲み水として利用していた施設から出ていることが推測されたので、顔を洗ってごくごくと飲まさせていただく。冷たくて混ざりもののない、透明な味がした。

住宅から少し下ったところにトイレがあるのだが、このトイレもきれいに掃除されていた。うっかりすると、山の上にある札所のトイレはかなり汚れている(コケとか水垢も含めて)のだが、これだけ山の中にあるにもかかわらずきれいだったのにはすごく驚いた。

トイレから50mほど坂を下ると林道が走っていて、軽トラが一台止まっていた。そして、林道に沿ってWEBでよく見る遍路小屋が建てられている。街中の遍路小屋はたいてい宿泊禁止だが、こちらは宿泊可で布団も置いてあるらしい。中を覗こうかと思ったのだけれど、小屋の前の物干しに洗濯物が干してあったので遠慮した。


長戸庵と柳水庵の間で登山道は車も通れる林道と合流し、傾斜も心持ち緩やかになって、思ったより時間がかからなかった。


柳水庵は数年前まで宿坊として使われていたという。下にあるトイレもきれいに掃除してありました。


柳水庵の水場は、宿泊施設があった頃の水道からとっているようで、水量も多く安心して飲めそう。

柳水庵を下りてすぐの林道は自動車も走っていて、道路の上には「吉野川市」と表示がある。へんろ道は林道をまたいで南側に伸びていて、かなりの急坂である。しかし次第に傾斜が楽になり、ほとんど遊歩道のような道になった。

まさかこのままでは済むまいと思っていたら案の定、「浄蓮庵まで残り1km」の表示が出たとたん、手のひらを返したように急傾斜の登山道となった。ここの登りは、藤井寺からの取り付きの急坂、最後のこりとり川から焼山寺までの登りと並んで、今回の焼山寺道でのベスト3といえる厳しさであった。

ここで役立ったのは、丁石である。丁石とは昔の道しるべかつ距離表示で、50cmほどの大きさの石造りのお地蔵さんの光背部に「あと何丁」と書いてある。この区間には現代風の距離表示がほとんどないのに対し、丁石は頻繁にある。ここまでの間、お地蔵さんが涎掛けをしていたりして見えづらくあえて深追いしなかったのだが、他に手段がなければ使うしかない。

最初に気付いたのは五十二丁だかそのくらいで、次に見つけたのが四十九丁、毎度見つかるとは限らないが、だんだんと減っていく。「山ゟ四十六丁」とか書いてある。山とは焼山寺のことだろう。数字の「5」にも見える「ゟ」(機種依存。表示されるとは限りません)は江戸時代の略字で、「四国遍路道指南」にもよく出てくる。

「より」というのが正式の読みで、ひらがなの「よ」と「り」の合成らしい。とてもそうは見えないが。いずれにしても丁は町のことで、江戸時代の距離の単位。1町はおよそ100mのことである。焼山寺まであと4kmか5kmということである。

息を切らせて急坂を登り切ったところから、石段が始まっていた。見上げると、お大師様の銅像である。石段を一番上まで登ると、お大師様は大きな杉の木の前に建てられている。そしてお大師様と杉の木を、石の柱で丸く囲んで結界としているのであった。9時20分着。柳水庵からは1時間かからなかった。

これが、「左右内(そうち)の一本杉」であり、この庵を浄蓮庵とも一本杉庵ともいう。一本杉は弘法大師のお手植えという伝説があるが、確かに樹齢千年に及ぶ大木である。根元あたりからすでに枝分かれしていて、高さはそれほどでもないものの太さが尋常ではない。おそらく、かなり古くからご神木としてお祀りされていたものと思われた。

杉の木の先に、お堂とそれに付属する住居がある。住居は社(寺)務所か集会所として使われていたものであろうか。まだ荒廃はしていないものの、柳水庵とは違ってあまり人の手が入っていないようである。住居の前に、広告の入ったベンチが2つほど置いてある。

WEBによるとこの先焼山寺まで休めるところはないらしいので、まだ10時前であるがお昼休憩にする。朝早く出発したので途中でHPが足りなくなるのではないかと少し心配だったけれど、気候も涼しいためそれほど汗もかかないしスタミナ切れになることもない。それでも、食べられる時に食べておかないとバテしてしまうので、ここが最後の休憩と思ってゆっくりする。

お昼はヤマザキランチパックとスポーツドリンク。他にチョコレートロールと元気一発ゼリーも用意してあったが、ランチパックで十分だったので翌日のために取っておくことにした。山歩きでもそうなのだが、私の場合、空腹よりも心配しなければならないのは水である。今回はミネラルウォーターとスポーツドリンクを500mlずつ、それに柳水庵で水分補給したのでいまのところ心配はない。

20分ちょっと休んで時刻は9時45分、そろそろ出発の時間である。あるいはこのあたりで後続組に追いつかれるかと思ったのだけれど、いまのところ後ろから歩いてくる気配はない。いよいよここから、標高差で300m下りて300m登る遍路ころがしの本番である。


柳水庵から浄蓮庵までの道は、前半はこんな感じでゆるやか、後半1kmは急坂の登山道となる。


浄蓮庵、別名一本杉庵。もともと樹齢千年近いと思われる杉のご神木を祀ってあったところに、大正末年に大師の銅像が建てられたということである。

浄蓮庵を過ぎて、いよいよ遍路ころがしの本番である。まずは左右内(そうち)集落まで標高差300mの下りであるが、これがなかなか着かない。

遍路地図に出てくる林道との交差まで15分くらいで着くだろうと思っていたのだけれど、スイッチバックの急坂が続いて、とてもそんな時間では着かない。右へ左へと急傾斜を下るのだが、なかなか広い道が見えてこない。焼山寺まで下りで30分、登り1時間とみていたのに、とんでもない見込み違いである。

もしかしたら道を間違えたかと思う頃になって、ようやく林道との交差点に達した。このあたりは企業とのタイアップで森林整備をしているようで、「△△会社の森」などとそこらじゅうに書かれている。こういうのは、あまり好きではないなあ。

浄蓮庵から左右内村への下りで、この日初めてお遍路さんとすれ違った。挨拶して通り過ぎる。すれ違うということは逆打ちであるが、10時を過ぎていたので焼山寺宿坊ではなく「なべいわ荘」あたりに泊まったのだろう。7時頃に歩き始めたとすれば、このあたりですれ違う計算になる。

林道を横切って再び登山道に入り、しばらく行くとようやく下に左右内集落の屋根が見えて安心した。最後の方では、登山道が民家の裏庭みたいなところを通っているのだが、他に通れるところもない。そして集落内の太い生活道路に出る。

この生活道路は焼山寺までの車道になっているようで、「焼山寺まで6km」と書いてある。6kmといえば、あと1時間半くらいである。胸突き八丁の登山道を行っても1時間半かかりそうなので、どちらを進むかちょっと迷う。だがお大師様が水垢離をとったという、こり(垢離)とり川を確認しなければならない。道案内にしたがって再び民家の庭先、細い道に入る。

このあたり、WEBでは迷ったという記事をよく見かけるのだけれども、いったん川の流れているレベルまで下りると分かっていれば、それほど迷うところではない。ただ、こりとり川を渡る橋のあたりはいかにも民家の裏庭という感じで、通っていいのかどうか気になることは確かである。

こりとり川まで下ったのは10時30分、浄蓮庵からここまで45分もかかった。30分くらいと思っていたので、予定よりも5割増しである。橋の下を流れる川は1mくらいの川幅しかなく、ちょっと向こうには一枚岩の平らな場所があって、なるほど水垢離を取れそうなところである。そしてここまでは下りだったけれど、ここからは登る一方となる。

標高差300mくらいなら大したことはないと高をくくっていたが、さすがにここはきつかった。朝早くから登り下りして、直前では浄蓮庵から標高差300mを下ったばかりである。息は切れるし膝は上がらないし、途端にスピードが落ちた。それでも、手を使わないと登れないような場所はなかったから、きついと感じたのは朝からの疲労とあとは精神的なものが大きかったようである。

下りでは気にしなかった丁石を再び目安に登る。十一丁から十丁、九丁とだんだん少なくなるけれども、登りがきついので丁石の間隔が広く感じる。そして「まだこの10倍も登るのか」と思うと先の長さに落ち込む。

ところが、七丁あたりだっただろうか、登山道が突然に太い林道と合流し、ここからは林道を登れば着くような様子である。引き続き傾斜はきついし、砂利は敷いてあるのに地盤はごつごつして歩きにくいけれども、スイッチバックをくり返す細い道よりもましである。そして、合流した林道を500mほど進んだあたりになると、向こうの方から人の声が聞こえてきた。

やっと着いた、と思ったら、細かな砂利道の参道には、右方向にも左方向にも「本堂まで500m」と表示がある。ということは、いま歩いている参道は円周を描いていて、本堂は現在の場所の反対側にあるらしい。よく見ると、石垣は弧を描いているようである。

右でも左でも行けそうなので、左に進んでみる。傾斜は引き続き登りで、参道のあちこちには最近寄進されたらしい石造りの不動明王やら観音菩薩やらが置かれている。弧を描く参道は結構長い道のりで、永遠に回り続ける無限ループではないかと心配になり出した頃に、向こう側からの参道と合体して石段の下に達した。見上げると焼山寺の山門である。ようやく着いた。

石碑に「四国十二番 焼山寺」と書いてある。時刻は11時25分。こりとり川から約1時間、藤井寺から休み時間を入れて約6時間だから、まずまずのペースで歩けたと言っていいと思う。


浄蓮庵から左右内集落までの下りは傾斜がきつく、なかなか着かない。40分ほどかかって、ようやく集落の屋根が見えてくる。


弘法大師が水垢離したとされるこり(垢離)とり川。川底が岩盤になり、流れもゆるやかになっている。


こりとり川を越えると再び登り。さきほどまでの下りで膝がきしんでいるので、想像以上にきつい。

十二番札所、摩廬山(まろさん)焼山寺(しょうさんじ)。山号も寺号も、弘法大師がこの地を訪れた際、山を火の海にしている大蛇を摩廬の印(まろのいん、水輪を意味する)で封じ込めたとされる伝説に基づいている。伝説は伝説として、八十八札所のうち空海が実際に修行した可能性が大きいとされる寺のひとつである。

というのは、空海自身の著作「三教指帰」に、阿波の山と土佐の海で修行したという記載があるからである。また、「四国遍路道指南」等にも禅定、つまり修行された跡があると記載されていることに加え、他でもない虚空蔵菩薩が本尊となっていることがあげられる。

「三教指帰」には、空海が虚空蔵求聞持法という修行をしたと書かれている。この修行は虚空蔵菩薩の無限の知恵にあやかろうとするもので、虚空蔵菩薩の真言を百万回唱え、捨身や滝行、護摩焚きなどの修行をすることにより、あらゆる経典を理解し記憶することができるという。

虚空蔵菩薩を本尊とする札所は八十八ヶ所の内、ここ焼山寺と、太龍寺、最御崎寺の3寺だけであり、いずれも空海言うところの「阿波の山、土佐の海」である。このことから、空海が実際に修行したと考えられている。

そういう予備知識を持ってここまで来たので、焼山寺は山の中の階段を登り詰めたところにある小さな寺だと思っていたのだが、全くそんなことはない。直前の藤井寺に比べてもかなり境内は広い。なにしろ、山門までの参道外周が半周で500m、山門から石段を上がって納経所があり、さらに石段を上がった本堂レベルに、食堂・売店があるのだ。

納経所にお寺の直営売店が開かれている札所は特に珍しくないが、納経所より本堂寄りに、別棟の食堂・売店があるのを見たのは、焼山寺が初めてである。

そして、山門前で箒をかけていたお坊さんも、納経所でご朱印を押していたお坊さんも、「今日は売店でお茶のご接待をしていますので、お立ち寄りください」とさりげなく言ってくださるのである。WEB情報では、焼山寺は時間にルーズで朝晩は時間通り来ないと評判なのだが、それは多分たまたまであろう。

手水場で手を洗い、本堂・大師堂の順にお参りする。この日最初で最後の読経である。さすがに山の上なので混んではいなかったが、何組かは参拝に訪れていた。ご本尊の虚空蔵菩薩を何とか拝めないものか本堂の蔀戸から中を窺ってみたけれども、暗くてよく見えなかった。朝の藤井寺のようなケースの方が珍しく、またそのためにお姿がいただけるのである。

せっかくなのでお勧めの食堂に行ってみると、驚くことに「田舎うどん 200円」と書いてある。これはすでにご接待価格である。お茶をお持ちいただいたので、すぐにうどんをお願いする。確かに素朴なうどんで、具は薄切りのなるとだけであるが、朝早くから歩いてきたところに出汁と醤油の味、それにうどんの温かさはなんともいいようがなくありがたいものであった。

WEBでは、この後の下りが結構きついので、ここでゆっくり休みましょうと書いてある。ところが、登山の服装をした7、8人のグループが入ってきて、うどんだの飲み物だのを騒がしく頼んでいる。できれば食堂のおばさんから少し話が聞きたかったのだが、あまりにも騒々しいので引き上げた。

さて、焼山寺の関係する施設で杖杉庵(じょうしんあん、と読む。)について書いておきたい。関係するというのは、杖杉庵は無人で、納経(ご朱印)を焼山寺で行っているのである。

右衛門三郎は、田畑も使用人も多く召し抱える物持ちにもかかわらずドケチであった。ある日、托鉢に訪れた弘法大師を追い払った上、大師の鉄鉢を叩き割るという無作法を働いた。その後、息子八人が次々と亡くなるという不幸に見舞われ、これは何としても大師に直接お会いしてお詫びしなければと、家財を整理し四国遍路の旅に出た。

八十八札所を巡ること数十度、体力の限界に達した右衛門三郎は、すがる思いで逆打ち(八十八番から逆回りすること)したところ、虫の息の状態でようやく大師にお会いすることができたのが、ここ焼山寺麓の杖杉庵なのであった。

切々と大師にお詫びした右衛門三郎は、「次は国司の家に生まれたい」と大師に願い、大師は小石を握らせ、「そのとおりにしてあげよう」と約束して右衛門三郎は息を引き取る。そして、遠く伊予国司の家で石を握った子供が生まれ、その子が成長して建てたのが五十一番石手寺だという。このことから右衛門三郎は、四国遍路の元祖と呼ばれている。

ひととおり聞いただけで、うさんくさい話である。なぜ、業突く張りのドケチで弘法大師に無礼を働いた右衛門三郎が、お詫びしただけで国司の家に生まれるのだろう。衛門三郎がしたことは、10桁くらいのマイナスを0に戻したというのがせいぜいであって、プラスになった訳ではない。それなら最初から信心深い一生を送った人はどうするのかということである。

この話は後々また触れる機会があるだろう(「四国遍路道指南」でも、詳しくは石手寺でと後に振っている)。

[ 行程 ] アクセス鴨島 4:35 →( 2.4km) 5:10 藤井寺 5:15 → (3.2km) 6:35 長戸庵 6:55 → (3.4km) 8:10 柳水庵 8:30→ (2.2km) 9:20 浄蓮庵 9:45 → (1.4km) 10:30 こりとり川 10:30 → (1.4km) 11:25 十二番焼山寺 11:55 → (1.8km) 12:45 杖杉庵


焼山寺本堂。山の中を歩いてきた割には、広々とした境内です。


階段を下りて納経所前から本堂方向。階段の左に見える建物が食堂兼売店で、田舎うどんが200円!


1時間ほど下ったところにある杖杉(じょうしん)庵。弘法大師につらく当たった物持ちが、巡礼の末に大師に巡り会いお詫びをするというなんだかなぁ・・・なお話。

[Mar 29, 2016]