140 十四番常楽寺 [Nov 2, 2015]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

大日寺までの長丁場をクリアして、十三番から十七番まで5つの札所は比較的近い距離にある。このあたり、「国府」(こう)というJRの駅があり、国府町(こくふちょう)という地名がある。つまり、律令時代にはここに阿波国府があったということである。一ノ宮や国分寺もこの一帯にあることから、人も多く、寺も多かったことから札所も集中しているのだろう。

さて、道草を食っていた訳でもないのに、予定よりも1時間近く遅れてしまっている。神山温泉から大日寺まで思ったより距離が長かったのと、雨の中を登り下りして歩く速度があまり速くなかったためである。徳島に戻るのが遅れると、風呂に入って着替える時間がなくなってしまう。着替えるだけなら空港でもできるが、できれば風呂に入りたい。

十四番常楽寺へは大日寺の先を左に折れ、かどや旅館と名西旅館の前を、大日寺の建物を裏手から見ながら鮎喰(あくい)川に向かって進む。じきに石造りの道案内やお地蔵さんが現れ、この日はじめての遍路道らしい遍路道になった。

これまで歩いた県道とは違って、車もほとんど通らないしすれ違う人もいない。安心して、歩きながら元気一発ゼリーで栄養補給する。まだ空腹は感じないけれども、補給できるときに補給しておくことは山歩きにしてもお遍路にしても大切である。

一番霊山寺から十二番焼山寺まで、遍路道シールや次の札所までの道案内・距離表示の他に、「四国のみち」という道案内がずっと続いていた。おそらく関東自然歩道と同じように、環境省や都道府県の予算が付いた環境整備で、案内板も要所に分かりやすく置かれていたのだが、この「四国のみち」標識を焼山寺以来ほとんど見かけなくなったことに気がついた。

帰ってから調べてみると、「四国のみち」は焼山寺を過ぎて遍路道とは分かれ、さらに尾根を2つ3つ越えるのであった。どうりで「四国のみち」標識を見かけなくなったはずである。そのこともあってここから先、市街地の中、分かりにくい道となるのであった。

遍路道の両側は田んぼや草むらが広がる田舎の風景であったが、くねくね曲がった突き当りを左に折れると、何やら工場か倉庫のような建物、雑草の生い茂る傾斜地の近くへと進んでいく。もう鮎喰川は目と鼻の先である。まるでゴルフ場で使われているような鋼矢板の橋を渡ると、鮎喰川を渡る大きな橋と合流した。この橋が一の宮橋である。

もちろん、「阿波一ノ宮」がもとになっているのだろう。車通りは多いがここからは歩道がある。そのまま鮎喰川を対岸に渡り、突き当たりに車用の大きな「→常楽寺」の標識があるので、そこを右折する。さて、遍路地図では常楽寺までは平地のようなのだが、家並みのすぐ後ろに山が迫っている。曇っているのでお日様は見えないし、方向感覚が分からなくなってきた。

道案内はないけれども、電柱に矢印の遍路シールが貼られている。この矢印にしたがい、坂を登って行く。登り切ったところで今度は下りである。平らな道を通っても行けたのではないかと思う。方向感覚さえきちんとつかめていれば、多少遠回りになったとしても登り下りは避けるのだが。そんなことを思っていると、えらく寂しい谷底のような一角に出た。

左側にかつて池であったような湿地帯があり、「不法投棄禁止」の立札があるのにたくさんゴミが捨てられている。右側は暗い草むらが続いている。そしてその草むらには、なんと「大便禁止」の立札が立てられているのである。そんなことをするお遍路がいるのか、あるいはそれ以外の人なのか、ちょっと背筋が寒くなった。

一番霊山寺からここまで何人か女ひとりの歩き遍路の人を見かけたが、あまりお薦めしたくない道である。ちなみに「四国遍路道指南」によると、「是(一宮)より常楽寺まで十五町、此間(鮎喰)川有 ゑんめい村」とあるから、昔の遍路道は県道に沿って国府町延命から常楽寺に向かったと思われる。

うら寂しい一角を抜けてしばらく行くと、今度は水が満杯になっている池に出る。先ほどの湿地帯とは違ってこちらには鴨が何羽か泳いでいるが、水の色はこげ茶色でなんとも言いようのない寂しげな池であった。池の脇が高台になっていて、上に建物が見える。一枚岩を削って作ったような石段が伸び、その上が十四番善楽寺になる。

12時50分着。十三番大日寺から30分ちょっとで着いた。


大日寺の横から田舎道に入る。この日はじめてののどかなへんろ道。


ところが田畑は次第になくなって、工場・倉庫・荒れ地の前を抜けていく。鮎喰川の前で県道と合流する。

十四番札所、盛寿山常楽寺(せいじゅさん・じょうらくじ)。阿波にある古寺のほとんどは戦国時代に長宗我部軍によって焼かれてしまった。十四番から十七番についても同様で、江戸初期の「四国遍礼霊場記」「四国辺路日記」等には、草堂のみ、礎のみ、無住(住職はいない)など、荒廃した様子が記録されている。

したがって、WEBなどには弘法大師創建、本尊は空海御製などという由来が判で押したように出てくるが、これには首をひねらざるを得ない。それでも歴史ある寺院であろうと推定されるのは、この4ヵ寺が阿波国府の中心地にあるからである。

もし札所が江戸時代になって初めて成立したものならば、これらの寺社は含まれていないだろう(なにしろ、江戸初期には住職さえいないのだ)。それが八十八の中に入っているというのは、それ以前に栄えていた霊場であるという伝承が残っていたからに違いない。

中でもこの常楽寺は、本尊が弥勒菩薩ということからみても古い歴史を持つことが推察される。ちなみに、八十八札所の中で弥勒菩薩を本尊とするのはここだけである。

弥勒信仰はわが国における仏教信仰の中でもかなり古い形のものであり、弥勒菩薩が盛んに作られたのは飛鳥時代や奈良時代である(中宮寺や広隆寺の半跏思惟像など)。戦国時代に焼かれてしまってからしばらくは無人のようだったので、現在のご本尊が創建当時からのものであるかどうかは定かでないけれども、古くから弥勒菩薩がご本尊だったという由来は確かであろう。

弥勒菩薩は仏陀入滅後56億7千万年の後に現われて衆生を救済するとされ、それまでは菩薩として修行中であるとされる仏様である。弥勒信仰は飛鳥時代にはすでに成立しており、平安初期に日本に入った真言密教の大日如来よりも、平安後期から鎌倉時代に盛んになった極楽浄土の阿弥陀如来よりも、古い時代の信仰を伝えていると考えられるのである。

ということは、この常楽寺は空海以前からの信仰を伝えてきた可能性がある。国府や国分寺の制度は奈良時代、すなわち空海以前の時代である。現在は平安仏教(天台宗・真言宗)・鎌倉仏教(禅宗・念仏宗など)が古くからの仏教と認識されているが、それ以前の時代というのももちろんあったのである。

階段を登り切ると常楽寺境内である。高台の上だが思っていたよりも広い。境内には自然石の地形がそのまま残っており、山門までの石段も自然石を削って作ってあるし、山門から奥、本堂・大師堂へも自然石の傾斜を登っていかなければならない。それほど高さはないが足場が不安定なので、滑りそうになる。

ご本尊の弥勒菩薩を拝見できるかと思って本堂の中を窺ってみたけれども、例によって蔀戸が下りていてよく分からなかった。境内には供養塔のような施設が置かれている。せっかくだから拝ませていただく。

ここまで来るとすっかり雨は上がって、少しではあるが薄日が差すくらいに天気は回復してきた。納経所の前が広場になっていて、ベンチが置かれている。十三番大日寺よりもかなり広くて休みやすいので、追加のお昼にしようとリュックからチョコクロワッサンを取り出した。

ところが、寺で飼っているのか居ついているのか分からないが、ネコがにゃあにゃあいいながらベンチの下から出てきて、やたらと私の足にまとわりつくのである。他にも人がいるのに私のところに来るというのは、クロワッサンを寄越せというのか、あるいはここでは物は食べるなというのか、ともかく私にメッセージを送っていると思われた。

ネコがクロワッサンを食べるかどうかよく分からないし、肉付きのいいネコなので食べ物に不自由はしていないようだ。ということは後者と考えて、せっかく出したクロワッサンを山野袋に仕舞ったのであった。

[行程]大日寺 12:15 →(2.3km) 12:50 十四番常楽寺 13:20


寂しい窪地を抜けると大きな池があり、常楽寺への石段が現れる。


常楽寺の境内は自然の岩が階段のようになっていて、本堂・大師堂へはその岩を登って行く。

[May 6, 2016]