160 十六番観音寺 [Nov 2, 2015]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

十五番阿波国分寺を出ると、周囲は建て込んだ住宅地である。十三番大日寺から鮎喰川を渡ってから、方向がよく分からない状態がずっと続いていて、国分寺を出たところでもちょっと迷った。遍路シールを頼りに住宅街を右左と進むと、一ノ宮の先、国府町延命からJR徳島線に向けて南北に通っている太い幹線道路に出た。

ここでようやく、方向感覚がしっくりきた。遠くに見える山も、どのあたりの稜線なのかようやく見当が付く。幹線道路だけあって信号待ちが長かったが、もう大丈夫である。十六番観音寺へは、幹線道路から斜めに北へ向かう遍路道に入って、2km弱歩くと右手に見えてくるはずである。

この時歩きながら考えていたのは、なぜこんなに切羽詰まった時間になったのだろうということであった。すでに2時を回ってあと札所が2つ。距離が4kmだから、どうがんばっても3時半よりは遅く、4時に井戸寺を出られれば御の字である。当初の計画では、4時には徳島駅に着いてびざんの湯で汗を流し、その後どこかで夕飯を食べて6時25分の空港バスという予定であった。

それどころか、2時前に井戸寺を出られれば、次の十八番札所への近道となる地蔵越に行けるかもしれないという楽天的な計画を立てていたのである。2時に井戸寺だと逆算すると11時には大日寺を出なくてはならないことになるが、15kmを3時間半で歩くのは可能と考えたのである(ちなみに、WEB「歩き遍路情報」のプランでは、神山温泉発7:30で大日寺着は11:10である)。

それが2時を過ぎて、井戸寺どころか2つ前の国分寺を出発したばかりである。なぜこうなったのか。第一には、朝方の雨で支度に時間がかかって出発が遅れたこと、第二に、意外とアップダウンがあって歩くスピードも出なかったということが原因である。そして第三に、そもそも15kmくらいが午前中に歩ける限度だったので、見通しが甘かったということであろう。

計画段階では、平地で札所での参拝時間を考慮に入れなければ午前中20km、午後20kmの1日40kmは可能だろうと思っていた。ところが実際に歩いてみると、山道でなくても結構なアップダウンがあって時速4km以上をコンスタントに維持することは難しい。休憩だってちゃんととらないとペースが落ちる。いろいろ考えると、もともと午前中に歩けるのは15kmくらいだったということである。

そんなことを考えながら歩いていると、進行方向左側は畑であったのにいつの間にか住宅が立ち並んでいる。畑越しに見えていた幹線道路も住宅に遮られて見えなくなってしまった。右側は学校か何かの施設で、ずっとフェンスで囲まれている。観音寺を通り過ぎてはいないはずと思いつつも、なぜかこのあたりには遍路シールも案内板もないので、不安は増すばかりである。

次に十字路が見えたら現在地を確認しようと思って進むと、それらしき角が少し先に見える。そこまで行ってみると、交差点の右手に、山門と本堂らしき建物が見えた。住宅街の中にあるので、直前になるまで分からなかったのである。2時半前に十六番観音寺に到着した。


幹線道路から斜めに入るこの道が、「遍路地図」で示しているへんろ道のはずである。


右に折れるはずなのだが、右側には延々と施設のフェンスが続く。右折する場所を見逃したかと不安になるほどまっすぐである。

十六番札所、光耀山観音寺(こうようさん・かんおんじ)。「かんのんじ」ではなく「かんおんじ」と読む。このあたりの地名は「かんのんじ」で、寺の名前が「かんおんじ」なのでまぎらわしい(ちなみに、讃岐の観音寺は地名が「かんおんじ」で、寺の名前が「かんのんじ」)。

観音とは観世音菩薩のことで、唐の時代に「世」の字が使えなかったことから観音菩薩と呼ばれるようになったけれども、経典にはそんな制限はないから当時も現在も観世音と書かれている。したがって寺の名前が観音様に由来しているならば、本来「観世音寺」ないし「観自在寺」とするのが正式である(観自在菩薩は観世音菩薩の別名。般若心経の冒頭にも出てくる)。

私が昔聞いたところでは、「観音」とは経典の別の個所に書かれている言葉で、観世音菩薩を直接指すものではないということだった。そうであれば本来「かんおんじ」と読むのが正しいということになる。まあ、檀家の人にとって経典のどの部分から採ったかにはあまり関心がなく、観音様と同じ字だから「かんのんじ」で数百年やってきたということであれば、どちらが本当かというような議論は野暮というものであろう。

阿波国分寺から1.8kmと距離的に近い。もともと国分寺を作る際に、聖武天皇が行基に命じて作らせたという寺伝がある。また、五来重氏の「四国遍路の寺」では、境内に寺とは別管理である八幡神社があることから、もともと村の鎮守だったのではないかと推測している。

村の鎮守が札所として霊場に数えられたという推測は、私にはあまりしっくりこない。むしろ、観音寺から次の井戸寺に向かう途中にある大御和(おおみわ)神社との関連を重視すべきではないかと思われる。

大御和神社はその読みが共通であるように、奈良の大神(おおみわ)神社と同じ神様である。そして記紀の崇神天皇伝に記載されているように、そもそも大神神社とは、大和朝廷に滅ぼされた畿内の旧勢力なのである。(全国にある三輪神社も同じ神様である。三輪そうめんの名前もここから採られている。)

畿内に勢力圏を持つ豪族が他の地域に勢力を伸ばそうとする場合、山を越えて行くよりも、海沿いに行く方が多くの人や物資を輸送することができる。まして阿波は、大阪湾の対岸であり肉眼で確認できる。畿内の勢力が出先機関を持つのはある意味当然ともいえる地域なのである。(淡路島は、阿波に行く途中にあることから「あわ路」となったという。)

奈良時代に国府が置かれた場所であることからして、このあたりが四国でもっとも早くから開けた地域なのだろう。その阿波に置かれている神社で、「おおみわ」という名前が付けられているということは、大和朝廷以前の勢力が祀られた神社である可能性が大きい。少なくとも無関係ではないだろう。

その大御和神社の目と鼻の先に、八幡神社(応神天皇、つまり大和朝廷の神である)があって、かつ観音寺が置かれている。それが大御和神社と無関係と考えるのはむしろ不自然である。井沢元彦氏の逆説の日本史的に言えば、大御和神社は前時代の支配者の祭祀(三井寺でいえば大友皇子陵)であり、八幡社と観音寺は新支配者の祭祀(三井寺と新羅善神堂)ということになる。

記紀の伝えるところでは、わが国に仏教が伝わったのは蘇我・物部の崇仏戦争の頃とされるが、釈迦が生きていたのは紀元前6世紀、中国に伝わったのは1世紀であるから、少なくとも4~5世紀には非公式ルートで日本にも伝わっていたと考えるのが自然である。大和朝廷が成立したであろう5~6世紀に、阿波での祭祀に仏教(寺)が使われていたとしてもおかしくはない。

(個人的には、大和朝廷の全国制覇は天武天皇の時代、7~8世紀と考えているので、時代的にも矛盾しない。詳しくは日本史の連載記事「常識で考える日本古代史」にて)

それはそれとして、観音寺を見てまず思ったのは、直前の札所である国分寺と比べて、敷地は小さいもののあるべきものがきちんとあるまとまった寺ということである。敷地を囲っている石の柱も檀家から寄進されたもので、氏名と金額が彫られている。その金額も三十円とか五十円、百円であるから、おそらく第二次大戦前のものであろう。

隣家の住宅がすぐ裏にあるコンパクトな敷地内に、本堂と大師堂、庫裏やその他の建物が軒を接するばかりに建てられている。大師の像もあるし仏足石も置かれている。過去の歴史には不明な点もあるが、いまなお信心を集めている札所だということは確かである。

[行程]国分寺 14:00 →(1.8km) 14:25 十六番観音寺 14:45


長い直線の道を進むと、突然という感じで十六番観音寺に至る。国分寺よりコンパクトだが、施設はむしろこちらの方が整っている。境内に鳥居が見えるのは八幡社。


観音寺本堂。階段脇にある仏足石が珍しい。そして小坊主像はどこの札所でも壊れかけている。補修しないのかな?

[Jun 4, 2016]