210 二十一番太龍寺 [Feb 26, 2016]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

鶴林寺から太龍寺まで、下ってまた登る難所である。遍路地図によると距離は6.7kmしか離れていないのだが、標高では450m下って470m登る。つまり千葉県の山を一つ登って下るくらいの累積標高差がある。遍路地図の標準タイムは3時間。

時刻は9時10分過ぎ、山門と庫裏を結ぶまっすぐな道の途中から、南に下る道が太龍寺方向である。下りきった谷のところが大井集落で、ここに休憩所とトイレがある。遍路地図によるとそこまでの距離は2.5km、下り坂でもあり、ここを30分くらいでクリアしないことには、とても太龍寺を12時に通過することはできない。

東から登ってきた阿波遍路道は途中から傾斜が緩やかになったが、こちらの下りは擬木の階段状で傾斜はかなりきつい。下りなので息は切れないし、この日最初の下りなので、ヒザも大丈夫。とはいえスイッチバックで行ったり来たりするので距離は見た目より長く感じられる。

最初は走るように下って来たのだが、もうかなり下っただろうというところで「鶴林寺まで四丁」の丁石を見てしまい、まだ400mしか来ていないのかと思ったら途端にペースが落ちた。30分で大井集落まで着く計画だったのに、実際には大井までのほぼ中間点にあたる林道との交差地点までしか下りることができなかった。

とはいえ、ここから下はようやく傾斜が緩やかになり、しばらくすると民家も見えてきた。下ること約50分、ようやく大井集落の中心部に出た。登山道から舗装道路になり、道案内も頻繁に出てくる。やがて「←トイレ →太龍寺」という道案内があるので、トイレの方向に折れると大きな鉄筋の建物の裏手に出た。ここが大井小学校跡である。

廃校というから木造の古びた建物を想像していたのだが、校舎や体育館は鉄筋で、「ふれあいの里さかもと」ほど新しくはないがそれほど古いものではない。おそらく昭和40~50年代に建てられたものであろう。とはいえ昭和20~30年代のものと思われる木造の部分も残されていて、トイレはその木造の部分にある。

昇降口は施錠されており、入口に貼り紙がしてある。「水道施設やトイレは、地元住民が維持管理につとめ、気持ちよく利用しています。歩き遍路の方が露しのぎに当小学校を利用される場合は、マナーを守り、ゴミは持ち帰ってください。校舎への立ち入り、火器の使用は禁止です。」ということである。今朝ほど見た鶴林寺道の休憩小屋へのゴミ放置を思い出し、地元の方々も言いたくはないけど言うのだろうなと思った。

大井小学校跡でトイレを借りて、民家の間の道を県道まで下って行くと大井休憩所である。県道の川側がタイル張りに整備されていて、東屋やベンチが置かれている。時計を見ると10時10分、鶴林寺から1時間だから、見込んでいた時間の倍かかったことになる。

リュックを下ろして一息つく。太龍寺まで残り4km強、標高差400mとなると、距離で1時間、高さで1時間、計2時間はみなくてはならない。第一目標であった太龍寺12時発はとても無理である。一方、最終目標の太龍寺1時発なら余裕がありそうだ。朝ごはんが朝粥だったので少しお腹も空いてきた。少し早いけれどここでお昼にすることにした。

「さかもと」でお願いしたおにぎりは3つ。ひとつ70円というお接待価格で、3つ作ってもらって210円である。これまで歩いて来た鶴林寺方向と、これから向かう太龍寺への山々を見ながらゆっくりおにぎりをいただく。3つ食べられるかなと思ったけれども楽勝だった。食べ終わる頃になって、急に風が強くなってきた。

あとから考えると、ここでお昼を食べなかったら、あと食べられる場所といえば約30分後の若杉鉱山跡の休憩所しかなかった。若杉鉱山跡の休憩所は谷間にあって日当たりがあまりよくなかったので、結果的にはいい場所でお昼をとることができたのではないかと思う。


太龍寺へは、山門に戻らずに南の道を下る。登ってきた道よりも急のようだ。

麓の大井集落まで下りて、道路の川沿いに大井休憩所がある。ここから先、休憩適地はあまりないのでここで休ませていただくのがベター。


大井休憩所から山の方向を振り返る。鉄筋の校舎は大井小学校跡で、トイレはそちらにある。

 

大井休憩所を10時半に出発する。歩き始めてすぐ、大社造りの豪勢な建物が出現する。「神光本宮」と書いてある。古事記に書いてある古い神様をお祀りしているお宮のようだが、扉には鍵がかかり、境内は草ぼうぼうで、会所と思われる建物も雨戸がしまったまましばらく使われていないようであった。

奥多摩の天祖神社もそうだが、明治維新直後に神仏分離があって信教も自由になったことから、多くの新興宗教が出現した。おそらくこの「神光本宮」も、その一つではないかと思われる。

基本的に宗教法人には課税されないから、土地が寄進されてある程度のおカネが集まるとすぐこうした施設ができてしまう。信者のコミュニティが残っている間は維持管理していけるが、やがて教祖が亡くなって信者の多くも歳をとってしまうと、宗教組織としての活動ができなくなってしまう。

こういうことを言うと炎上してしまう恐れがあるが、いま残っている宗教のほとんどは、何らかの具体的な現世利益によって存続している。その宗教に入ることにより、公営住宅に入りやすくなったり生活保護が受けやすくなったり、商売がしやすくなったりするのは、例の宗教団体だけに限られたことではない。

かつては心の支えとなるような本来の意味での新興宗教はあったのだと思うが、いまは既存の宗教、仏教やキリスト教を除いてそうした宗教はほとんどない(既存の宗教だって、全くないとは言い切れない)。そんなことを考えながら荒れ果てた社殿を通り過ぎる。社殿自体は鉄筋コンクリート製で築30~40年と思われたが、このまま維持管理しないでそのうち「SPECTOR」とか書かれてしまったら悲しいことだ。

県道を工事現場のところで左折して、太龍寺方向へと那賀川を渡る。この橋がまた幅が狭くて欄干が低くて、おまけに風が強くなってきたのですごく怖かった。前回通った大日寺への途中の橋ほどではなく、水面まで十数mくらいだったが、それでも落ちたらただではすまない。ちなみに、前回通ったのは吉野川の支流で徳島県下第一の大河、今回は那賀川で第二の大河だそうである。

ここでは橋の真ん中を渡っていたら(一休さんかw)車が来て端に寄らなければならず怖い思いをしたのだが、何とか渡り切って対岸へ。渡るとすぐに軽自動車以外通行禁止という細い道へと分かれる。この道がまた急傾斜で、曲がりくねってどこまで続くのか分からない。遍路地図を見ると、登坂口までは川沿いでそれほど傾斜がないように感じるのだが、実際には那賀川を渡ってすぐに急登なのであった。

30分ほど曲がりくねった急坂を登って行くと、若杉鉱山跡の表示がある。古代に水銀鉱山があった跡という。水銀は染料・顔料としてかつて重宝された。ここには「四国のみち」で環境省が整備した休憩所があって石のテーブルやベンチが置かれているが、日当たりが悪く湿度も高く、ほとんど誰も使わないらしく苔むしている。

鉱山跡から少し登ったところに大きな鳥居があり、周囲にはかつて何軒かの家があったらしい痕跡が残っている。電線もここまで伸びているし、散らばっている生活用品もそれほど日にちが経っていないように見えた。奥多摩の廃村が昭和末期まで人が住んでいたとすれば、ここは平成初めまで誰かいたのかもしれない。いずれにしても鳥居が残っているのだから、神社と関係があったのだろう。

この謎の廃集落のすぐ上には現役と思われる物置のような建物があり、その右に入る道からいよいよ登山道になる。登山道の入り口「→太龍寺道」の古い石碑の奥には、かなり大掛かりな石垣が残っていた。かつてはこの上にお屋敷でもあったのかもしれない。

帰ってから調べてみると、この廃集落は若杉といったようで、国土電子ポータルにも地名と建物の記載が残っている。それだけでなく、真念「道指南」にも「わかすき村 家四五軒有」と書かれているから、江戸時代から存在した集落なのであった。

ここからの登りはさらに傾斜がきつい。さすがにペースが落ちて、あるいは後続の組に追いつかれるかと思ってたびたびふり返るけれども、人の姿は全く見当たらない。あるいは前後数kmに私一人しかないのだろうか。登ること30分、森の中の擬木の階段を抜けると、唐突に舗装道路が現れた。

このあたり、遍路地図では分かりにくいのだが、坂口屋から登ってくる道は「P」の先も舗装道路は続いていて、二輪車なら山門まで上がることができる。だから、「P」からH430の合流点、そして太龍寺までのU字型の道は、実際は実線(車道)なのである。傾斜はあいかわらずきついのだが、H430の合流点まで来るとほっとすることも確かである。舗装道路を登って行くと山門である。ちょうど正午頃に到着した。


大井集落を過ぎて那賀川を越えると、すぐに急な上り坂が始まる。かなりきつい。


鳥居のある集落跡を過ぎると、右手に太龍寺への山道が始まる。立派な石垣があり、真念の道指南にも集落があったことが記されている。


若杉山鉱山遺跡や謎の廃集落を過ぎ、いよいよ太龍寺に向けてラストスパート。

 

舎心山太龍寺(しゃしんざん・たいりゅうじ)。太龍寺は「三教指帰」で空海自身が山岳を攀じ登って修行したと書かれている「太龍嶽」からとられたに違いないし、舎心はもちろん「捨身」につながる山号であろう。山岳修行が文字通り「捨身の行」であることは言うまでもない。

切幡寺も恩山寺も山門から本堂まで遠かったが、この太龍寺もかなりのものである。鶴林寺で400m登って400m下り、さらにここまで400m登ってきているだけに、さらに登るというのは尋常でないきつさである。山門を過ぎて石段、さらにしばらく進んでさらに石段があり、ようやく庫裏のある区域で平らになった。

庫裏のあるあたりは工事中で、白いシートに囲われている。本堂・大師堂はさらに石段を登った奥にある。ご朱印をいただく庫裏と本堂・大師堂とはかなりの距離があるので、さきにご朱印をいただいてしまう。特に今回は、本堂・大師堂のさらに奥にあるいわや道をめざす予定だったのだ。

しばらく進んだところにある本堂で読経。そして大師堂は、多宝塔のある山を挟んで反対側にある。どこまで行っても、坂道を登らなければならないのが太龍寺の厳しいところである。大師堂の読経を終えたときにはすでに12時30分。山門を入ってから30分が経過していた。

さて、これから先であるが、平等寺を4時に出なければ4時半新野発の列車には間に合わないが、これはこの時点ですでに無理。次の列車は2時間後なので平等寺に5時に入れれば大丈夫だが、それにはかなり余裕がありそうだ。こういう場合は、さいきん整備されたという「いわや道」を通ってみようと思っていたのである。

本堂エリアの先にはロープウェイ乗り場があり、麓の集落である鷲敷(わじき)まで通っている。ロープウェイの駅というと、普通は展望レストランとか観光売店とかで開けているのだが、こちらはあっさりしたものであった。さて、ロープウェイ駅までの階段を下りたのだが、目指すいわや道への標識がみつからない。

遍路地図には、ロープウェイと並行して舎心ヶ嶽から国道に南下するルートが描かれているのだが、「いわや道方面」もなければ「舎心ヶ嶽方面」もない。もう一度本堂エリアにまで階段を登り返して探したのだけれど、それらしい標識は見つからない。

誰かに聞こうと思うのだけれど、お寺の関係者らしき人は本堂エリアにはいない。遍路地図を見ると来た道を反対側に抜ける道があるはずなのだが、その方向には「この先通行禁止」としか書かれていない。坂道や階段を登ったり下ったりしているうちに、だんだん疲れてきた。

そうして迷っているうちに、時計を見ると12時50分になっている。かれこれ20分近く迷ってしまった。このタイムロスは大きい。平等寺まで11.6km、距離で3時間、標高差で1時間の合計4時間とみると、これ以上ロスすると平等寺の納経(5時まで)に間に合わない。あきらめて、来た道を戻ることにした。

本堂周辺から庫裏のあるエリアを通って、山門まで下る。その途中で、「さかもと」で一緒だった皆さんとすれ違った。時間的に、いま太龍寺到着だと平等寺5時は微妙なところで、おそらく平等寺門前の「山茶花」に泊まるのだろう。それなら今日でも明日でも特に問題はないが、私の場合は阿南泊まりである。

下りは登山道には入らず、そのまま急傾斜の舗装道路を下って行く。

[ 行程 ]鶴林寺 9:10 →(2.2km)  10:10 大井小学校跡・大井休憩所 [昼食休憩] 10:30 →(4.0km) 12:00 二十一番太龍寺 12:50 →


ようやく見えた太龍寺山門。でも、ここから本堂までが長いのだ。


修理中の庫裏を過ぎてさらに登り、ようやく本堂が見えてきた。手前の坂を右に登って向こう側が大師堂。


太龍寺大師堂。遍路地図によれば、このあたりに「いわや道」入口があるはずなのだが、ロープウェイ駅への下り階段があるだけで見つからず。

[Sep 17, 2016]