013 いじめ問題と教育再生会議にみる偽善性 [Dec 13 ,2006]

1年ほど前から作家の日垣隆氏の有料メールマガジン(年間10,000円だから、この種のものとしては結構高い)を購読しているのだが、今週の記事にいじめ問題と教育再生会議のことについて書いてあった。この問題については私自身マスコミの論調にかなりの違和感を持っていて、この記事を読んでかなり納得したところがあったので、さわりの部分だけご紹介したい。

氏には「偽善系」という著作もあるくらいで、世の中で常識とされるもの、環境問題や市民運動、マスコミ、官公庁、しまいには細木数子に至るまで怒りの、というかシニカルな視点で論評するのだが(マカオにもしょっちゅう行くらしい。会ったことはないけど)、このたびの教育再生会議の「いじめを見て見ぬふりをするのは加害者と同じだ」という論調に激しく異議を唱えている。

犯罪であれば警察に通報すべきだし、犯罪でなければ自分との関係性において判断する事柄である。犯罪と犯罪でないものの区分があいまいだ、などということを言う奴の方がおかしいので、そういう輩はヤクザにでも喧嘩売っててください。でもそういう人は自分の子供や身近な年少者にきちんと教育的指導をしているんですかね、というご意見(ちょっとはしょりすぎだが)であった。

このあたり私も全く同意見で、そもそも「どーしよーもない奴」というのはどこの世界にもいる。会社にだっているし地域にだっている。どうして学校だけそういう奴がいない純粋培養の世界を想定するのか、と思う。西原理恵子の「毎日かあさん」に出てくる言葉で、「私立の学校に入ったって、世間はお上品な私立じゃねぇんだよ」というのがあるが、そういうことである。「どーしよーもない奴」への対処を自分なりに工夫していくのが、社会の縮図である学校の役割であり、その工夫の中には学校に行かない、ということも当然含まれる。

また、コミュニケーションというものは、決して善意のものばかりではない。みんながお互いに好意を持ちましょうなどというのは偽善であって、人間誰しも好き嫌いがある以上すべてのコミュニケーションが善意ではありえない。そして犯罪でない悪意のコミュニケーションが全否定されるべきだとも思わない。そんな堅苦しい付き合いは私自身したくないし、みんなが自分に好意を持ってくれなどと主張するのは一種の傲慢であろう。

そして、「見て見ぬふりをする」というのは、結構社会人として要求されるスキルなのではないかと思っている。学校でそんなことを頭ごなしに教え込んで、大人になってカシノに行って、ディーラーが21なのに22と勘違いしてみんなに配当してしまったときに、見て見ぬふりができずに「それは間違いです」なんて言ってしまったら、ラスベガスなら袋叩きで済むかもしれないが柄の悪いところなら殺されかねない。

さらにいうと、困難な問題にぶち当たったときに、残念ながら自殺という方法で解決を図る人もいる。これは子供だろうが、青年だろうが、老人だろうが必ずいる。そのこと自体は悲しいことだけれども、世間なり社会なりがこれを防ぐことができると思っているとすればそれは甘すぎる。子供の虐待は子供自身で解決できる手段がきわめて限られることから社会ないし制度で防ぐべきだけれど、それとは話が違う。さまざまな選択肢の中から自殺を選ぶことについて、社会や制度で止められる訳がないし止めるべきでもない。

そもそも教育再生会議なんてものが、税金を使って何かしてもらうのが当然と思う人たちが集まって、官僚の作文(それも議員のニーズを慮って作った)の「てにおは」を直して世の中のためになっていると自己満足するだけのものだから、マスコミもいい子ぶってそんなもの取り上げなくてもよさそうなものだ。

[Dec 13, 2006]