017 鍾乳洞事故にみるアニミズム [Jan 30, 2008]

今年に入ってあまり興味を引くニュースはないのだが、その中でわたし的に一番関心があったのは(ほとんど報道されないのだが)鍾乳洞で大学生が行方不明となったというニュースである。

岡山県にある巨大鍾乳洞、日咩坂鍾乳穴(ひめさか・かなちあな)の最奥部にある地底湖で、今月5日高知大の探検部員が行方不明になり、知らせを受けた岡山県警の機動隊やボランティアが捜索したものの発見されず、二次災害の危険が大きいことから捜査が打ち切りになったという。

国立大学のサークル活動に大学側の管理が入っていたということは考えづらいので、おそらく「学生の自主性を尊重する」という誰も反対できない建前のもとに、学生さんたちが「おきらくごくらく」気分で十分な装備や事前準備なしに危険地帯に踏み込み、予期しないアクシデントに適切に対応できなかった、ということがこの事故の根本にあったと考えられる。

そして、この部(学術探検部)の部長も副部長も女性、当日地底湖を探検したリーダーも女性だったらしい。この鍾乳洞はかなり危険な場所がある(だから捜索が打ち切られた)ということだから、もちろん彼女らも何度かは行った経験があったのだろうが、女性がリーダーという一事をとってみても、彼らが危険性を甘く見ていたということをうかがい知ることができる。

アクシデントに直面したとき求められるのは体力と決断力、そして瞬発力(火事場のバカ力というやつ)である。こういうものは男が体の構造として多く持っている。そして、「危ない場所に女性を近づけない」というのは、おそらく男尊女卑とかそういうことではなくて、霊長類には合理的な考え方のはずである(女より男の方がスペアがきくので。一方で、「危ないことをする」のは女性と子供というのが相場)。

とはいえ、私が言いたいのはそのことではない。この種の事故はあまり聞かないとはいっても全くないわけではなく、例えば1992年の風船おじさん、1987年の忍野八海におけるテレビ朝日クルーの事故、さらにさかのぼると1960年代の龍泉洞の事故などがある。

おそらくニュースにはならないだけで、昔からこういう事故はあったのではないかと思う。そして、科学だ技術だと言っても日本人の根本にある考え方の仕組みというのは縄文時代から今日まで変わらないという説があるが、これはかなり説得力がある。高い山があれば上りたいし、深い穴があれば奥まで行ってみたいと思うのは、おそらく個人の好みというよりも遺伝子のようにインプットされた考え方の仕組みなのである。

調べたところによると、日咩坂鍾乳穴の探検隊には「地底湖の一番奥まで泳いで行き、そこの壁をさわって来る」という慣例があって(ここの大学だけではなく)、そのため行方不明の男性は一人で地底湖を泳いだということである。風呂だって洗濯機だって、水位が低いと水流が激しく吸い込まれやすい。この時期は地下の水量が少なく(多ければ途中の穴が水でふさがってしまい奥まで進めないらしい)、そのため地底湖の水位も低く、危険が増したのではないかと考えられる。

それにしても、「一番奥まで行ってさわってくる」という行為は、そんな危ないことするなよという感じなのだがなんとなく分かる。これを読んでいる方も、そんな気がしませんか?その「なんとなく分かる」というところが上に述べた「日本人の根本にある考え方の仕組み」なのである。そしてそのことは、アニミズム(自然物崇拝)と深く関わっているのではないか。


山陽新聞ニュース
リンクが切れてしまったので、画面コピー(非営利の個人ブログなので、見逃してやってください)。

昨日は日咩坂鍾乳穴(ひめさか・かなちあな)の事故について、「地底湖の奥まで泳いで行き、そこの壁をさわってくる」という慣例があって、それが事故に結びついた可能性の大きいこと、そしてその行為そのものがまさにアニミズム(自然物崇拝)であることまで書いた。

アニミズムとは何かというと、現代の宗教、仏教とかキリスト教とか、そういうものが登場する以前、原始時代から人類に備わっていた3つの宗教的な概念(考え方)のうちの一つで、他の二つはトーテミズムシャーマニズムである。

このうち最も分かりやすいのがシャーマニズムで、「神がかり崇拝」と言えるかもしれない。神がかり状態になって神託や予言を行う巫女、予(預)言者、霊媒、呪術師、聖者などを信仰するというもので、古くは卑弥呼がそうだし、キリストや釈迦もシャーマンである。現代でいえば、細木数子や江原啓之が本当に目に見えないものが見えると思っている人がいるとすれば、シャーマニズムということになる。

次にトーテミズムとは、「祖霊崇拝」とでも言うべきもので、自らの守り神として、祖先や特定の動物、それらの合わさった精霊的なものを崇拝する。アメリカ・インディアンのトーテムポールがあまりにも有名だが、墓石だって卒塔婆だって盆飾りだって、りっぱなトーテミズムだ。人が亡くなったらお墓を建てるのは当然と思いがちだが、他の国や他の時代を調べると、そんなことはないということが分かる。

これら二つの原始的な宗教概念は今日でも形を変えて残っているが、アニミズムはあまり表面に出てこない。なぜかというと、かつて人類が恐れ敬った太陽や山、雷といった自然物が科学の発達により全く不思議なものではない、ということになったからである。しかし、それらがかつて崇拝され信仰の対象となったことは確かである。例えば浅間神社はもともと富士山信仰だし、出羽三山神社(月山・羽黒山・湯殿山)や箱根神社(箱根山)もそう、伊勢神宮の天照大御神も太陽信仰である。

昔の話だが、日本中どこの山に登っても、それがどんなに無名の山であっても、頂上には必ず誰かがいる、と言われていた。山登りをされた方にはお分かりいただけると思うが、山頂は必ずしも展望が開けているという訳ではない。それでも山登りする以上は山頂に行かなければならないというのは、アニミズム以外の何物でもない。

同様に、危なければそこまで行かなければいいものを、一番奥まで行かなければ探検したことにならないと思ってしまったのも、日本人の心の奥底に眠るアニミズムの衝動だったのではないだろうか。そうしてみると、現代にも原始時代からの宗教概念が残っている、つまり縄文時代から考え方の仕組みは変わらないという説はかなり説得力を持つということになる。

ちなみに、この鍾乳洞はそのまま日咩坂鍾乳穴神社(ひめさか・かなちあな・じんじゃ)のご神体であり、ここが古くから神の住処として崇拝されてきたことを示している。神の住処とされた理由の一つとして、ずっと昔からここに入り込んで出て来なかった人がたくさんいるんだろうと思う。

今回のニュースを読んで、そういうずっと昔のことを想像すると、なんだか不思議な気がする。

[Jan 30, 2008]