019 法華経に関する考察 [Apr 25, 2008]

注.私は仏教徒ではありますが、この記事は宗教というより思想として考察するものです。したがって、「なにがなんでも法華経が一番(南無妙法蓮華経)」という立場ではありませんので、ご了解のうえお読みいただくようお願いいたします。

マカオの街角に行くと、よくビルの壁に貼ってある手書きの広告がある。「妙法百家楽 xxxx-xxxx(電話番号)」

百家楽とはもちろんバカラのことであるから、文脈から判断するに、「妙法」とは「必勝法」というニュアンスが強いものと思われる。これをよく見ているうちに、「法華経」正しくは「妙法蓮華経」も、そのニュアンスは「仏に近づく必勝法」に近いのではないかと思うようになった。

昔から、必勝法と名づけられるものに本質的なものなどない。「数ⅡB必勝法」といえば、試験で出てくるであろう範囲を予想し、最小の努力で最大の効果を得ようとするものであって、数学そのものに興味を持つようには作られていないのと同じことである。

話は飛ぶが、日本にある仏像で最も多く作られているものは何だろうか。統計があるかどうか分からないし、あったとしても見たことはないが、国宝級のものは別として(阿弥陀如来が多い)、普通の仏像では観音さまとお地蔵さんが多いように思う。

お地蔵さん、つまり地蔵菩薩が多いことについては、近世以前の死亡率、特に乳幼児死亡率が高かったこととの関連が大きいと思われるが、一方の観音さま、観世音菩薩はなぜなのか。そして、観世音菩薩が登場するお経、つまり観音さまの根拠規程が実は法華経なのである。

そういえば、まだ法華経を読んでいなかったなあということで、ここ1、2週間、朝晩の電車の中で法華経を読んでいる。テキストは岩波文庫。ヘッドホンでバッハの「平均律クラヴィーレ」を聞きながらお経の原典を読むという、なかなかシュールな通勤である。

そして読んでいるうちに気がついた。法華経というのは、お釈迦さまが最終的にたどりついた悟りの境地を説いたお経ということになっている。確かに、他のお経を受けての表現が多く見られるし、お釈迦さまも「これまでの教えは方便であり、このお経が最終的な悟りの境地である」と言ったことになっている。

ところが法華経を含む大乗仏典は、お釈迦さまの死語数百年たってから成立したもので、お釈迦さま自身が述べたものではないということは仏教史をひもとけば明らかである(後から作ったから他のお経を引用できる)。そして、法華経にはその最終的な悟りがどのようなものかは書いてない、と普通は理解されている。

だから、お経の名前を唱えなさい(題目、南無妙法蓮華経)ということになるのだが、つらつら読み進むうちに、「ん、それはこういう意味で読めるんじゃないか」と思うようになってきた。それはどういう意味かというと、「お釈迦さまの教えを広め、教団を維持することが”最終的な悟りの境地”である」ということである。

法華経の趣旨を「布教と教団の維持が最終的な悟りである」と解釈すると、いろいろなことが見えてくる。

お釈迦さまの説いた教えは思想的哲学的に優れたものであるが、それだけでは後の世に残らない。実際に、インドで仏教が盛んだったのは紀元前3世紀にマウリア朝のアショカ王が仏教を保護した頃で、その後衰退に向かっている。印刷も通信も放送もない古代には、人から人への口伝えしか情報伝達の手段がなく、新興宗教である仏教には「人」が十分ではなかったのである(インドの伝統宗教はヒンズー教)。

お釈迦さまのすぐれた教えを残したいという人々にとって、これは非常に大きな問題であった。だから、法華経という仕掛けを使って、教団の拡大を図った。その仕掛けの一つが、法華経の中に頻繁に現れる、「修行者○○は、悟りの世界では△△となり、永遠の存在となるだろう」的な教団内における地位の保証である。

これはさきのオウム真理教において、「○○をマイトレーヤ正大師とする」「△△を科学技術大臣とする」というように、教団への寄与を教団内の地位の向上で評価したやり方と同じものである。そして、法華経を重視する教団は中国そして日本へと伝来した。いま世界で仏教徒の多い国は日本とタイであり、インド周辺ではわずかにチベットくらいにしか残っていないのである。

もう一つの仕掛けが、昨日述べた観音さまの登場である。法華経において観世音菩薩は、人々の願いを世界のどこにいても聞き届け、実現させる仏様として描かれている。まさに現世利益である。それまでの経典では来世における幸福や心の平安を実現させる仏様はあっても、そのものずばり現世において願いをかなえる仏様はなかったはずである。

今も昔も普通一般の人々の関心は、哲学的な悟りよりも、いま目の前にある願いをかなえてほしい、災難から逃れるように助けてほしいというものであろう。その意味で法華経は、より人々の本音に応える形で、お釈迦さまの教えを再構成した、ということになるだろう。もちろん、仏教という教団により多くの人を取り込むために、である。

さて、その法華経の中に「これはどうか」という内容が実は含まれている。法華経の内容は、お釈迦さまが「善男子善女人」の前で述べたことになっているのだが、にもかかわらずその中に、「悟りの世界には女人がいない」と、はっきりと書かれているのである。

じゃあ女の人はどうなるかというと、法華経に書いてあるのは、悟りを開いた女性修行者が「みんなの目の前で女性の体の特徴がなくなり、男性の体となった」のである。正直、これが悟りの世界であるならばちょっとご遠慮申し上げたい。私はやっぱり、女性がいた方がうれしい。

日本仏教史において最大の女好きといえば親鸞上人ということになるが(僧侶として初めて正式に妻帯した)、その親鸞上人が法華経を選ばず、阿弥陀如来の浄土三部経を選んだのは、案外このへんに理由があったのかもしれない。

[Apr 25, 2008]