084 山頭火と酒の話~せいうち日記84 [Jun 19, 2015]

この間、ブログに種田山頭火のことを書いた。その際、改めて参考文献を読み返したのだが、山頭火が死んだのは昭和15年、享年58であった。奇しくも、私のいまの年齢と同じである。山頭火は亡くなる直前には歯が1本しかなかったらしいが、私は昔、親しらずを抜いたくらいで全部そろっている。ありがたいことである。

ちなみに、山頭火という言葉は暦法における普通名詞で、甲戌・乙亥の干支のことをいう。だからラーメン店の名前に使われても文句は言えない。俳句の山頭火を呼ぶ場合には、種田山頭火と苗字を付けるのが本当である。

山頭火は大酒呑みで、誰かが持ってきた一升瓶を飲みきってしまい、足らずに街に飲みに出かけたという類の逸話がたくさんある。自分で働くことはせず、酒を飲むのは托鉢の上がりか、俳句サークルの誰かの持ち込みか、でなければ借金や息子からの仕送りである(別れた奥さんからの仕送りもあったらしい)。にもかかわらずそれだけ飲めるというのは、ある意味大したものである。

昔、俳句の選者は芸事の先生のような立場にあったようで、投稿してきた句を選者が添削して雑誌に載せるということがよくあったそうである。現在、われわれが尾崎放哉の作品として知っている句の多くは、師匠である荻原井泉水が手直ししたというのは有名な話である。WEBをみると添削前と添削後の作品を比べることができるが、さすがに放哉、もとの句の方がいいというものも結構ある。

(代表作のひとつである「障子あけて置く海も暮れ切る」も、井泉水の添削による。原句は「すっかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く」)

だから、芸事の師匠が月謝や検定料をとる感覚で、酒をもらったり住まいの手配をさせたり、借金の肩代わりをさせてもそれほどの抵抗はなかったのかもしれない。もっとも、いまの時代に酒を飲んで俳句が上手なら、BS-TBSが飲み代だけでなく制作費も出してくれただろうから、惜しいことであった。

山頭火の生活は、今の時代ならば「Bライフ」ということになるのかもしれないが、「Bライフ」はわずかではあっても自分の稼ぎで生活するというライフスタイルである。山頭火は住む所にしても、食べる物にしても、飲む酒にしても、すべて他人の好意によって工面している点が違う。どちらかというと「ニート」に近い。

でも、いまでも田舎に行けば、神社や祠で、無人のお堂だけ残っている場所は少なくない。そういう場所でご神体や祠を守り、周囲を掃除し、氏子や有力者の好意で最低限の食料や燃料を入手して暮らしている人は、当時は少なくなかったのだろうと思う(少なくとも、山頭火と放哉だけという訳ではなかっただろう。阿弥陀堂便りなんて映画もあったし)。

人の世というものは、必ずしも全部の人がカネ儲けをしなければならないというものでもないと思う。いまだって、彼らのように暮らせる道があってもいいと思うけれども、人が住むとなるとまず第一に下水処理をしなければならないというのが行政の指導なので、なかなか難しいだろう。まさか、無人の寺や神社すべてに浄化槽を付ける訳にもいかないだろうし。

戻って酒の話だが、あれば飲んでいた山頭火に対し、私はというと最近は1週間に2日、せいぜい3日しか飲めない。はじめはダイエットと病気治療のために休肝日を作っていたのだけれど、この頃は酒を飲むと体調がすぐれず翌日に響くのである。次の日きついからといって酒を我慢するとは、歳をとったものである。

飲んだ次の日に手を見ると、皺が目立ってきた肌なのに、ピンク色に染まってぴちぴちして見える。これは酒による若返り効果だと思っていたのだが、じつは皺があるのが本当で、ぴちぴちしているのではなくむくんでいるのだと思うようになった。多分、それが正解なのだろう。

[Jun 19, 2015]