018 印西市の中世城郭 [Jul 4, 2013]

わが印西市では多くの地域イベントが開催されている。今回は、「あじさい通りと中世の城跡を訪ねて」というテーマで、旧・印旛村役場から歩くという企画があったので参加してみた。

印西市は以前にブログでも触れたように、旧・印西市・本埜村・印旛村が最近合併してできた。市の西部は手賀沼と接し、北部の木下(きおろし)は利根川に沿った港であり、銚子から魚を運んできて水揚げしここから陸路をたどったという。さらに東部は印旛沼と接しているから、まさに千葉県北西部を横断して成り立っている大きな市である。

今回歩くのは印旛沼地区。印旛沼はもともとW型であったのに現在ではあらかた埋め立てられてしまった。もちろん中世には埋め立てられていないから、船で行き来していた。「いざ鎌倉」というくらいで、関東平野は命令一下鎌倉まではせ参じるくらい武士の移動が容易な地域であり、天然の要塞である沼があるこのあたりは多くの城が作られたという。

集合時間は9時、旧・印旛村役場にはすでに多くの中高年参加者が集まっている。われわれはかなり若い部類に入る。主催者である印西市ふるさと案内人協会の会長さんからご挨拶の後、おもむろに歩き始める。

旧・村役場から印旛沼に向けて、あじさい通りを歩く。この通りは平成の初め頃、ニュータウンの開発によって増えたゴミの不法投棄を防ぐため、あじさいを植えたのが始まりというから、最近できたものである。残念ながら剪定のし過ぎで、咲き具合は今一つである。途中、宗像(むなかた)神社に寄って、ここで神社の由来について説明。

宗像神社の本宮は九州の宗像大社で、あちらではかなりポピュラーなお社だが、全国に90ほどある末社のうち、20近くが印旛沼周辺にあるのだそうだ。厳島神社はもともと宗像神社と同じであり、厳島神社系を合わせると千単位になるとのことであった。古代史ファンには、宗像神社といえば沖ノ島だけれども、残念ながらそこまで説明はなかった。

説明が足りないので、自分でいろいろ考える(顰蹙を買うのでひとに話したりはしない)。この地域はかなり早くから開けたところで、スカイアクセスの停車駅・印旛日本医大は、計画時の仮称を印旛松虫駅という。これは、駅の近くにある松虫寺からとったもので、松虫寺には、聖武天皇の皇女・松虫姫(不破内親王)が病気治療のため転地療養したという伝説がある。

つまり、奈良時代にはすでに中央と関わりがあったということである(「都鳥」の在原業平よりおよそ百年前)。聖武天皇は天武系で、天武天皇はもともと東国・九州を地盤としていたから、このあたりに九州の神社が多いというのはそのあたりに理由があるのかもしれない。となると、これから訪れる中世の城跡より神社の方が何百年も古いということになる。

師戸(もろと)城跡のある印旛沼公園まで、1時間ほどかけて農村部を歩く。師戸城は、鎌倉時代から戦国時代にかけて千葉県一帯に勢力のあった桓武平氏・千葉氏の城の一つである。

 


印旛沼周辺は水田地帯。この時期は稲が伸びてきて壮観です。この中を、イベント参加者は約6時間歩きます。


お昼は師戸(もろと)城址の印旛沼公園で。そんなに暑くなくてすごしやすい日でした。

 

鎌倉幕府ができたとき頼朝に味方した桓武平氏といえば、上総介広常(かずさのすけひろつね)が有名だが、千葉介常胤(つねたね)も有力御家人の一人であった。もちろん本姓は「平」なのだが、一般には本拠地の地名をとって千葉常胤と呼ばれる。源尊氏が足利尊氏と呼ばれるのと同じことである。千葉というのは下総国千葉郡からきていて、現在は県の名前となっている。

千葉氏は鎌倉・室町時代を通じて現在の千葉県一帯を支配した。室町期には本佐倉城に拠点を置き、志津、臼井、そして今回訪問する師戸(もろと)に支城を置いて補給体制を整えたのであった。しかしながらお家騒動により次第に勢力が弱まり、新興勢力である里見氏にも押され、最終的には後北条氏にこの地域を奪われることとなった。

その衰退期には、本来はそれぞれの支城が味方同士として救援し合わなければならないところ、すべて千葉一族にもかかわらずお互い争ったという。まさに下剋上である。後北条氏に支配が移った後も、関東管領を引き継いだ上杉謙信が遠路はるばる越後から攻めてきたり、豊臣秀吉の小田原攻めがあったりして、ようやく平穏になったのは江戸時代になってからである。

さて、そんな歴史の舞台である師戸城跡は、現在千葉県立印旛沼公園となっている。県立公園だから県の管理かというとそんなことはなくて、旧・印旛村(現・印西市)が管理している(グランド利用届とか清掃とか)。このことをちょっと疑問に思っていたのだが、今回説明を聞いて合点がいった。高度成長期にディベロッパーが開発しようとして中世の遺跡が出てきたものだから、村から県にお願いしてこの一帯を買収してもらったそうである。

印旛沼公園でお昼休みの後は、再び緑の田圃の中を30分ほど歩いて歴史民俗博物館へ。ここには、中世城郭のジオラマや、工事中に掘り出されたという信楽焼きの大きな壷が展示されている。資料館のすぐ近くには国の重要文化財である泉福寺薬師堂があり、小さいながらみごとな茅葺きのお堂である。

博物館と薬師堂を見た後は、再び田圃道に戻って役場までの帰り道となる。昼過ぎで暑くなり、ちょっと疲れた。途中、小高くなった森か林にしか見えない一帯も城郭で、高田山城といったそうだ。ただし文献等の裏付けに乏しく、いつ築城されたのか、いつまで置かれていたのかは定かでない。もしかすると、単に武士の館跡ではないかと思ったのであった。

結局この日は約6時間歩いた。主催者発表では約12kmということであったが、私の携帯の距離表示をみると14kmになっている。どちらかというと、こちらの方が実感に近い。わが郷土について多くの考えるヒントをいただいたいい企画でしたが、参加者の平均年齢はおそらく60代と思われたので、ちょっと厳しめのイベントではありました。

 


国の重要文化財である泉福寺薬師堂。室町時代の創建とか。


丘にしか見えませんが、これも中世の城跡である高田山城跡。城というより砦だったようです。

[Jul 4, 2013]