045 身の程を知ることについて [Feb 9, 2015]

若い頃からついこの間まで、「身の程を知る」とか「分をわきまえる」という言葉はあまり好きではなかった。言葉の感触として「貧乏人は麦を食え」にとても近いニュアンスを感じたからである。ところがもうすぐ還暦というこの歳になって、「身の程」という言葉に別のニュアンスが加わってきたのは妙なものである。

人生の残り時間が多い頃には、自分の可能性は無限大であるような気がしていた。育ちが貧乏でも先祖がお百姓でも、努力して結果を出せば道はどんどん広がっていくと思っていた。実はそんなことがなかったのは、あるいは高度成長時代の幻想だったからかもしれないし、単に自分の努力が足りなかったのかもしれない(同級生から総理大臣が出ているくらいだ)。

実はついこの間まで、「北条早雲は50歳過ぎてから戦国に名乗りを上げた」とか「伊能忠敬は50歳過ぎて隠居してから測量の勉強をして全国を測量した」、だから自分もまだまだと思っていたのだけれど、50どころか60が目の前になり、自分は北条早雲でもなければ伊能忠敬でもないことが分かってきた。「あきらめ」というより「悟り」に近い。

たしか中国の古典に書いてあったけれど、今夜眠るところと今日食べるものがあり、家族そろって健康であればそれ以上を望むべきではないというし、まあ自分はこれ位のものだという実感と、努力してここまではという将来像との差が小さくなりつつあることからみると、これが「分」とか「身の程」というものかと思ったりする。

分かりやすくワインの例を出すと、ペトリュスだろうが何だろうが、おカネに余裕があれば飲んで何が悪いというのが若い頃の発想であった。ところがこの頃は自然と、1本で1万円前後というのがワインに出せる値段の最上限となっている。これ以上の値段にはどうしても抵抗があって買うことができない。

20年ほど前はシャトー・ラトゥールがこの値段で買えた。ところが2000年以降はレ・フォール・ド・ラトゥール(ラトゥールのセカンド)の値段となり、今日ではそれも3万円近くに値上がりしてラトゥール・ポイヤック(同じくサードワインである)が1万円前後で買えるベストのワインとなってしまった。

なぜそういうところに線を引いているか、自分でもよく分からなかった。だから貧乏な育ちのせいなのだろうとずっと思っていたのだが、おそらくそれはちょっと違っていて、一時の楽しみのために支払うことのできるレートは、1日働いて得ることのできる金額くらいが上限という身体的実感からではなかったかと思うのである。

口幅ったい言い方になるが、モノの値段の高い安いを判断し評価しているのではなくて、自分の値段を判断し評価しているのではないかと思うのである。高すぎると思うのはみんなが欲しがるからなので、じぶんの働き(稼ぎ)が追いつかなければ一歩引いて遠慮するという感覚が自然に生まれてきた。

そもそもは、内田樹先生が言っていたか、あるいは対談の相手方が言っていたのかだと思うけれど(脳の話だから養老先生かもしれない)、「脳の欲望には際限がない。身体の欲望が、リアルな人間に必要なものである」という話がこういうことを考える出発点であった。

確かに、脳の欲望には限りがない。私にはほとんど縁がないおカネの話をすると、100万円あれば500万円、500万円あれば1000万円欲しくなるようである。なるほどその通りのような気がする。一方で、1日に3度食事をすれば次は6度ということにはならない(4度くらい何とかなるが)。身体の欲望には際限があるというのはその意味である。

長いこと「身の程」という言葉が嫌いだったのは「身分」という意味でとらえてきたからで、まあそれはもともとそういう意味だったのは間違いないから無理もない。ところが、「頭でなく身体の声に耳をすませましょう」という意味でとらえるとすれば、それは全くそのとおりなのである。

[Feb 9,2015]