047 追悼 片平巧 [May 18,2015]

平成初めのオートレースを席巻した「セアの申し子」片平巧(たくみ)が急死というニュースが入ってきた。享年49。死因は明らかにされていない。

私がオートレース場に初めて足を運んだのは、忘れもしない1990年夏、最初の勤務先である銀行を飛び出して浪人中のことであった。それまで、中央競馬(JRA)以外のギャンブル場に行くのはまともな勤め人のすることではないと思っていたのだが、まともな勤め人からドロップアウトしてしまったので、行かない理由もなくなったのであった。

当時住んでいたのが船橋なので、行ったのは船橋オートレース場である。そしてまさにその頃、船橋オートは最高のレース場だった。島田信廣・片平巧という当時のツートップがいて、一般開催に行ってもたいてい走っていたのである。

(ちなみに、一部報道で島田・片平・高橋3強時代と書かれていたが、私の記憶では高橋貢全盛期は少し後で、島田・片平2強時代が長かったと記憶している)。

何年か経つ頃には、オートレースの500人以上の選手を覚え、全6場を制覇するほどオートレースにのめり込むことになるのだが、その発端は、間違いなく船橋の一般開催で見た島田・片平の強さであった。

もちろん船橋には他にも強い選手がいて、岩田・阿久津という当時の最重ハン(最もハンデが重くなる選手)を船橋4強と呼んでいたし、その前のチャンピオン「ミスターオート」飯塚将光もいた。その後いくつもSGを勝つ池田政和はまだ新人のあんちゃんだった。

昭和から平成になる頃、オートレースは大きな変革期にあった。それまで使われていたエンジン(フジ、メグロ、キョクトー、トライアンフ等)には、振動が大きく選手の健康上問題があること等の問題があったため、オートレース専用エンジンの開発が求められたのである。スズキが中心となって開発された新エンジンがセア(Super Engine for Auto Race)であった。

すべての選手のエンジンがセアに統一された時期に、台頭してきたのが片平であった。セアでなくても同じように片平が強かったのかどうかは今となっては分からないが、セアへの乗り替わりを契機に、それまでの川口四天王や飯塚の時代から、一気に、当時20代半ばの片平へと時代は移って行った。だからオートファンは片平のことを「セアの申し子」と呼んだのである。

片平の走りの特徴は徹底したイン戦で、とても入れそうにない前走者のインコースに入って抜いてしまうのである。これが「人間魚雷」広木だと、鋭角的に突っ込んで前走者に激突し落車失格となるのだが、片平だと鋭角的に突っ込んでもコーナーの円周に沿ってタイヤが滑って行くのでぶつからないのである。

まさか本当に滑っていた訳ではないだろうが、まるで滑っているように見えた。この神業の前には、「内線のガードマン」穴見であろうが、インコースの堅いベテラン勢であろうが、一発で切り返されて終わりになるくらいの鮮やかさであった。片平の全盛期、スピードの出る良走路という条件では、片平に対抗できる選手は一人もいなかったといっていい。まさに「セアの申し子」であった。

もう少し書きたいので、続きは明日。

 

いまでも覚えている強烈なレースは、浜松まで見に行ったオールスター、たしか初日ドリーム戦である。残り7車が0ハンで片平が単独10、初日だから6周戦である。

オートレースには距離のハンデがあるが、ハンデが大きいほど厳しいとは必ずしも言えない。ハンデに開きがあるということは実績・実力に開きがあるということだから、40とか50のハンデだと何人かそれほど強くない相手が含まれるのである。私見だが、最も厳しいハンデが単独10である。ハンデ10しか差のない強い相手が7人いるということだからである。

片平は大レースの準決勝・決勝で何度か単独10で走っているが、準決勝は8周戦、決勝は10周戦なので、1周に一人抜いていけば勝てる。ところが6周戦だと、1周に一人では間に合わないのである。まして、この日の相手は各地区ファン投票1位という強い選手。究極に厳しいレースといえた。

こういうレースであっても、それほど苦労しないケースはない訳ではない。スタートの上手な選手、あるいは1周目の速攻が持ち味の選手である。オートレースは1周目が最もスピードが出ない。ここで他の選手を抜けるならば、残りの周回が非常に楽になる。みんながスピードに乗ってしまう2周目以降では、よほど技に差がないとスピードだけではなかなか抜けないのである。

スタート巧者の中にはハンデ10くらいだと最初の1コーナーまでに交わしてしまう選手は珍しくないし(当時の阿久津)、スタート全速で外を回り、バックストレッチでインにコースをとってまとめて抜くという選手(ボートでいうところのまくり差し。岩田が代表)もいる。そういうレースができれば、単独10ハンであっても厳しさはやや軽減されるだろう。

ところが、当時の片平はスタートは並というより遅く、速攻もできない訳ではないが得意とは言えなかった。とにかく、周回中にインに潜り込んで捌いていくレースなのである。だから、強敵相手の単独10ハン・6周戦というのは紛れのありうるレースである。それでも、片平の断然人気であった。(当時は3連単はおろか車番連勝もなく、6枠の枠番連勝の時代である)

断然人気の要因は、唯一の強敵とみられた島田が同じ船橋所属のため別のレースに出ており、島田以外の相手には負けないだろうと思われたことであった。それでも、飯塚の中村政信(のちにレース中に事故死)、地元浜松の鈴木辰巳、川口・福田茂、山陽・小林啓二といった強力メンバーだったと記憶している(伊勢崎が高橋貢だったらもっとすごいが、田代だったかもしれない)。

そしてレースが始まった。片平は例によってスタートは並、しかし0ハンのスタート争いで後手を引いた選手を次々と抜いて行く。そして最終6周目の3コーナーで最後の一人を交わすと、場内からは何とも言えないどよめき、「やっぱ強ええ」と歓声が沸く。終わってみれば一番人気で、車券は当たったけれども収支はマイナス(トリガミという)という結果に終わった。

この開催、5日間のトーナメントで優勝したのはもちろん片平。そして、翌年1月に開催されたオートレースの最高賞金レース・スーパースター王座決定戦も制したのである。

ところがこの頃をピークに、片平は急に勝てなくなってしまう。その大きな要因は、片平が雨走路を大の苦手としていたことである。5日も連続で走れば1日くらい空模様の怪しい日がある。ところが雨が一滴でも降ってしまうと、片平は全く「いらない」選手になってしまうのだ。それも、7着とか8着とか、翌日のレースに勝ち上がれないような着を取るのである。

(そういえば、伊勢崎のナイターで前日雨で負けて、まだ日の高い4時頃のレースに、ハンデ70だか80で出ていた片平を見たことがある。もっとも、ここ数年はハンデが軽くなったこともあり雨でもそこそこ走れるようにはなっていた。)

他にも、スタートがそれほど速くなかったこと、独特なインのコース取りが年齢とともに難しくなってきたこと、無理なコース取りがひとつの原因だったのか慢性的な腰痛に悩まされていたことなどが不振の原因とされる。そして、生きのいい若手にやられてしまうレースも増えた。もちろん、それはベテラン選手の多くがたどってきた道でもある。

2001年にスーパースターと全日本選抜を取って以降、片平はSGはおろかGIでも優勝がない。かつて敵なしと言われ、第一人者のプライドを持っていた片平が、それから15年をどのように過ごしてきただろう。

船橋には、飯塚将光というロールモデルがいた。チャンピオンクラスから脱落して普通の選手になってからも二十年近くオートレーサーを続けた。人工衛星とからかわれながらも(彼はアウトコース専門)、ファンの声援を受け、楽しそうに走っているように見えた。他にも、片平の師匠である板橋忍は川口のテレビ局で解説者をしているし、船橋同期の梅内幹夫は今回の統一地方選で船橋市議会議員になった。

飯塚、板橋、梅内に共通しているのは、温厚な人柄という定評があることである(個人的に知り合いではないので本当のところは分からないが、専門誌や予想屋さんはそう言っている)。一方で片平には、天才肌で孤高の存在というイメージが強い。並みのレーサーとして、若い選手に抜かれていくのを「俺も歳だからなぁ」と穏便にとらえられたかどうか。

彼の最後のレースは、今月初めの船橋・黒潮杯。昔から船橋の看板とされてきた記念レースであった。初日4着、2日目6着の後、途中欠場。どういう思いで最後のロッカールームから引きあげて行ったのかと思うと、胸がつまる。

今週末は山に行くつもりだったけれど、彼に献杯しようと思っている。オートレースに出会ったことは、私の人生を間違いなく豊かなものにしてくれた。合掌。

[May 18,2015]