011 玉陵(たまうどぅん) [Aug 18, 2009]

先日の沖縄では、玉陵(たまうどぅん)にも行ってみた。この玉陵、世界遺産にも含まれている文化財であるが、本来の役割は琉球王家・第二尚氏の墓所である。いわば、天皇陵以外の古墳と同じ位置にあることになり、そのせいか沖縄県教育委員会が管理している。

ゆいレールで那覇空港から約30分、終点の首里駅に到着する。渋滞の激しい那覇市内にあって非常に重宝するのがこのモノレールなのだけれど、景気後退の中、当初あったはずの延伸の計画も先送りになっているようである。首里駅から首里城までは1kmちょっと。それほどの距離ではないが、沖縄の激しい日差しの下を歩くのは少々つらいものがある。

玉陵は首里城からさらに先にある。二千円札の裏に印刷されている守礼門を過ぎ、駐車場の入口を越えて、一般道路をしばらく歩くとようやく到着。道路からちょっと入ったところに入場券売り場と展示館があり、左に折れてしばらく進むと石造りの壁が見えてくる。低い石の門(頭をぶつけた)をくぐると、中庭と墓所が眼前に広がっている。

琉球王(中山王)として明に認められた尚氏は、実は途中で別の血統に入れ替わっていて、15世紀後半にいわばクーデターによって王位に着いた内間金丸(うちま・かなまる)が、前代の琉球王の血縁と申告して王位を継いでから後を第二尚氏と呼んで区別している。この第二尚氏の陵墓が玉陵である。その外観はかつての首里城の外観を模しているといわれている。

真上から照りつける強烈な日光の下、石造りの陵墓と下の砂利が一体化して、サングラスをしているのに目が痛くなるくらいである。空も抜けるように青い。カメラを向けてもディスプレイがほとんど見えないので、ちゃんと撮れているかどうか分からない。下の写真はなんとか写っている方で、空を入れてしまうと、石の部分が真っ黒にしか見えないのであった。

玉陵の一連の建物は三つに分かれていて、中央が風葬用の建物、その左右(東西)に遺骨が納められた墓室がある。

沖縄というと、破風墓・亀甲墓といった独特の形をしていて、その背景には風葬という葬儀形式があるというのが一般的な理解だけれど、最近の研究によると、実際にはこれらの形式はそれほど古くからある訳ではなく、琉球統一(三山統一、15世紀初め)以前にはこうした形式は一般的ではなかったということである。

ということは、この玉陵が作られた時代以降に、現代のわれわれが「沖縄の伝統的な」と認識している風俗・習慣が形成されたということになる。


玉陵の左(東)半分。左の階段から奥の部屋に、歴代王の遺骨が納められている。右に見えるのが中央にある風葬室で、さらに右にもう一つ建物がある。

 

公式にはこの玉陵は、第二尚氏王統第三代の尚真(しょうしん)王が、父である尚円王(内間金丸)を弔うために作ったとされている。しかし実際には、尚真王の母である世添御殿(よそいうどぅん)オキヤカが主導して作られたらしい。このことは、玉陵の中庭にある碑文(下の写真)から推測される。

昨日説明したように、第二尚氏はそれまでの王(第一尚氏)をクーデターで倒して王位に着いた尚円王(内間金丸)の子孫である。その尚円王の歳の離れた妻(30くらい違ったらしい)が世添御殿である。ちょうど、約100年後の豊臣秀吉と淀殿のような関係である。

尚円王には、補佐役であり後継者でもあった弟がいた。尚宣威(しょうせんい)王である。尚円の死後、尚宣威が王位に着くと、世添御殿とそのグループは「尚宣威王は神の信託を得ていない」と主張した。なぜかというと、自分と尚円王の子である尚真を王位に着けたかったためである。

この主張が功を奏して在位半年で尚宣威王は退位、世添御殿の息子、尚真王がわずか十三歳で王となった。当然、実権は母である世添御殿が握ることになる。この時代に、政治においては王が、冠婚葬祭においては巫女を束ねる聞声大君(きこえおおぎみ)が、それぞれ琉球を支配するという祭政一致の仕組みが作られたのであった。

話を玉陵の碑文に戻すと、この碑文には、玉陵に葬られる資格のある人々が指定されている。その有資格者とは、尚円王、世添御殿、尚真王、尚真王の妹、尚真王の次男、三男、四男、六男、七男、とそれぞれの子孫ということになっている。そしてこれに反すれば、「天に仰ぎ地に伏して祟るべし(絶対に許さない)」と書いてあるのが、この碑文なのである。

つまり、第二代の尚宣威王、そして尚真王の長男(母が尚宣威王の娘)の血筋には、王位も継がせてはならないし、この墓にも入れないというのが碑文の言わんとしているところで、これは尚真王というよりも世添御殿の意図と考えざるを得ない。

さて、こうして息子とその子孫に王位を継承させることに成功した世添御殿であったが、後の時代にしっぺ返しを食うことになる。薩摩の琉球進攻の際に講和に応じた尚寧(しょうねい)王、そして進攻後の立て直しに尽力した摂政・羽地朝秀(はねじ・ちょうしゅう)によって、巫女や聞声大君などの女性が政治に口出しすることは一切できなくなってしまう。

この二人とも、世添御殿によって排除され、「この墓に入ってくるな」と言われた尚宣威王の血筋なのである。


玉陵碑文。自分の嫌いな人達はこの墓には入ってくるなという世添御殿の遺言が書かれている。

[Aug 18, 2009]