013 浦添ようどれ [Mar 20, 2015]

首里にある玉陵(たまうどぅん)とともに、琉球王家の墓として那覇近郊にあるのが浦添ようどれである。「ようどれ」とは夕なぎという意味の沖縄言葉で、静かな終焉の地といった含みがあるのだろう。2つの石室があり、手前の西室に英祖王、奥の東室には尚寧王が眠っている。

浦添ようどれには前に沖縄に来た時にも訪問を試みたのだが、車で走ると広い墓地に入ってしまって行くことができなかった。今回は前もってgoogle mapを印刷して万全を期していたにもかかわらず、近くにあるはずの小学校からは入る道がなく、カーナビの目的地検索にもひっかからない。カーナビの地図には出てくるので方向は合っているはずなのに。

何度か浦添市役所の前の道を行き来するうちに、「浦添城跡」の案内を見つけた。案内のとおりに細い登り坂を上がっていくと、浦添ようどれ館に着くことができた。目的地はここから歩いてしか行けない。陵墓は復元工事中である浦添城(グスク)の一角にあるので、「浦添城跡」の案内表示しかなかったのであった。

英祖王と尚寧王には直接の血縁関係はない。英祖王から英祖王統5代、察度王統2代、第一尚氏7代に続いて尚寧王は第二尚氏7代目の王なので、時代的にも300~400年違う。英祖王は伝説では13世紀に沖縄を治めた王で、浦添グスクを築城したといわれる。その後、浦添グスクは荒廃したが、本家を継ぐ前に浦添王子であった尚寧王(1564-1620)が陵墓を整備し、自らも遺言してこの地に葬られたのである。

歴代王の陵墓である玉陵には、尚真王の生母である世添御殿オキヤカの遺言により、ここに葬ることのできる家系が指定されている(玉陵碑文)。ちなみに、オキヤカは夫の弟である第2代尚宣威王が大嫌いだったようで、神事を失敗させて退位を強要したり、息子(尚真王)の最初の嫁が尚宣威王の娘だったので、その長男に王位を継がせず玉陵の資格者から除いたりしている。尚寧王はその子孫にあたる。

尚寧王はオキヤカに指定された家系ではないことに加えて、在位中に薩摩侵攻を受け江戸まで連行された王でもあるので、玉陵に入るのを遠慮したのだと思っていた。ところが浦添ようどれに行ってその考えが変わった。目の前に広がる展望がすばらしいのである。尚寧王はかつての領地であり、海を望むこの地に眠りたかったに違いない。

ようどれは浦添グスクの海側の斜面にある。グスクの石垣に沿って階段を下りて行くと、目の前に浦添市街、牧港そして東シナ海が広がる。ちょうど西側が開けているので日が沈む方向であり、「夕なぎ」という名前にふさわしい。あるいは西方浄土という発想もあったかもしれない(尚寧王が改修した英祖王陵には、沖縄には珍しく仏教彫刻がなされている)。

玉陵に葬られて墓の中でうるさいばあさんにやいのやいの言われるよりは、古い王様と一緒におだやかな海を眺めながら眠りたいと思ったとすれば、尚寧王もなかなか物の分かった人物である。何かで読んだのだが、戦争に負けて薩摩まで船で、そこから江戸まで延々歩かされて連行された尚寧王一行は、そうした境遇にもかかわらず毎晩酒盛りをしていたというから、そうした状況でもそれなりに毎日を過ごす術を知っていたということである。見習うべきであろう。


浦添ようどれには、復元工事中のグスク跡から外壁に沿って北側に下りて行く。


浦添ようどれ全景。手前の白いところが英祖王、奥のこんもりしたあたりが尚寧王の墓。説明によると、琉球王家の子孫から浦添市に譲渡されたため、公費で整備が可能になったらしい。

[Mar 20, 2015]