111 吉野ヶ里歴史公園 [Jul 18, 2012]

出張中の移動を利用して吉野ヶ里歴史公園に行ってきた。

いま九州は梅雨の規格外ともいえる豪雨の影響で、河川のはんらんや土砂災害が発生している。この日(7月4日、アメリカの独立記念日)も、昼過ぎまで雷とバケツをひっくり返したような大雨で、歩くだけでびしょ濡れになったのだが、歴史公園に着いた3時頃には雨が上がった。

そんな天気なものだから園内ですれ違った人もひと桁で、古代衣装のガイドさん達からもゆっくり話を聞くことができた。ここは国立の施設なのでサービスが充実していて、要所要所に説明してくれるガイドさんがいる。中には韓国からの観光客を想定した韓国人留学生と思われる若い女の子もいて、人が少なくて手持ち無沙汰なためかいろいろ話をしてくれた。

吉野ヶ里が全国的な注目を集めたのは平成元年のことだから、23年前ということになる。日本で最大の環壕集落(”壕”は水を張ってないので土へんなのだそうだ)として大きな注目を集め、魏志倭人伝に残る邪馬台国の様子に非常に近いことから、ここが邪馬台国ではないかともいわれた。当時は復元建物などはなかったのに、3年間で100万人の見学者があったとのことである。

現在の歴史公園は、展示中の施設だけで東京ドーム5つ分の広さがあるとのことだが、さすがに全部は見きれないので、王の住まいとされる「南内郭」、祭主のエリアとされる「北内郭」、歴代の王墓である「北墳丘墓」を中心に見学する。北墳丘墓のさらに北にも甕棺墓地が続いており、こちらは現在も発掘調査続行中のため立入り禁止である。

吉野ヶ里の村全体も深さ2~3mの壕で囲ってあるが、王の居住区とされる南内郭はさらにもう一段階壕で囲い、木の柵や逆茂木で外敵の侵入を防いでいる。攻撃を受けた際に兵士や村人が入るためだろうか、それこそ野球でもできるくらいのオープンスペースがある。その広さに対して居住区(竪穴住居跡)は数戸しかなかったそうで、そのことから普段は王や大人(王族?)しか入れない区域だったと推定されているそうだ。

吉野ヶ里といえばすぐに連想される物見やぐらはここ南内郭にある。やぐらの上からは、佐賀平野や有明海を望むことができるのだけれど、この日はあいにくと雷注意報が出ていて登ることができない。警報になると入園自体できなくなるので、ぜいたくは言えない。

付近の数千人の住む地域を治めていた王だというのだが、それでも竪穴住居というのが面白い。高台の一番上にあるにもかかわらず、この日は大雨で水が住居の中に入ってしまっていた。「本当は土のうとか置いて、水が入らないようにしていたはずだけれど、そこまで復元すると消防法にひっかかるから」とはガイドさんの説明である。

南内郭から200mほど北に行くと北内郭。こちらは祭事用のエリアで、祭主や巫女がいたと推定されている。当時は祭政一致が当り前だから、大事なことを決める際には神(ご先祖)のお告げを聞く必要があり、そのため王墓の近くに北内郭が置かれたのだろう。

そのすぐ北が北墳丘墓で、甕棺に装飾品とともに納められた王の墓が、発掘された状態のままで展示されている。もちろん空調完備で、一部の墓の上はガラス張りになっていて真上から発掘時の状態を見ることができる。

さて、こうした一連の施設をみると、外敵は南、つまり有明海側から来ることが想定されており、北つまり山側に対しては比較的無防備である。朝鮮半島や本州から敵が来るとすれば方角としては北なのだが、山を越えて大規模な部隊が来るというのは当時は想定できなかったということだろう。

 


大雨の後の吉野ヶ里歴史公園。通路が川になっています。このあたりは雷の多いところで、毎日何回かは落雷があるそうで、この日も注意報発令で物見やぐらには登れませんでした。

 

さて、そうやって大雨後の吉野ヶ里歴史公園でしばらく散策したのだけれど、その間、「ここが邪馬台国であるのかどうか」古代人の立場になって考えてみた。

私の意見としては以前にも書いたように、邪馬台国の記事をそのまま読む限り、地理的にも暮らし的にも九州北部と考えざるを得ないし、これを大和に持っていくのは無理があると思っている。従って、ここ吉野ヶ里も有力な候補地の一つと思っていたのだけれど、実際に歩いてみてここではないのかもしれないという感想を持った。

なぜかというと、第一は風景である。吉野ヶ里の中心部に立つと、眼下に望むのは有明海であり雲仙普賢岳である(この日は雨上がりで見えなかったが)。魏の使者が実際にここを訪れていたとしたら、何かそれに類するような記述があったのではないだろうか(中国の史書に書かれている山は阿蘇山である)。

第二に、吉野ヶ里の規模である。邪馬台国の規模は七万戸と魏志倭人伝にあり、属国である奴国、投馬国でも数万戸と記録されている。これに対して吉野ヶ里の規模は海側まで広くとっても数千戸、城郭内には数百戸の住宅しかなかったと推定される。魏志の記述に比べてコンパクトすぎるのである。

第三は、吉野ヶ里に実際に立ってみた私の印象である。有明海・雲仙を望むこの地で生まれ育った王が、海を渡って朝鮮・中国に進出しようと思うだろうか。静かな内海である有明海を見て育った支配者には、むしろ平和な暮らしが望みだったのではなかろうか。そうした野望はやはり、玄界灘に臨み朝鮮半島をはるかに見る博多近辺の豪族が持ったと考える方が、しっくりくる。

もちろん、邪馬台国の属国の一つ(たとえば対蘇国=とすこく?)がここであった可能性はあるだろう。しかし、少なくとも九州北部一円を支配下に置き、中国からの使者を迎えた国としては、もう少し北、おそらく玄界灘に面した地域にその本拠があったと考えるのが妥当だと思われる。

だからといって、吉野ヶ里歴史公園の意義は少しも損なわれるものではない。弥生時代の最先端の国造りがどのようなものであったのか、予想復元物を目の前にして思いをはせるのはとても楽しい。できれば天気のいい日にゆっくり見て回りたい施設である。

 


吉野ヶ里の中心部を守る楼閣。この日は大雨と雷のため、遠くが見えないだけでなく、楼閣の上に登ることもできませんでした。

[Jul 18, 2012]