316 竹内街道巡礼 [may 14, 2009]

さて、この連休前半はAJPC大阪予選に参加するかたわら、古代大和と難波を結ぶ主要道である竹内街道(たけのうちかいどう)周辺に点在する寺社、古墳などに行ってみることにした。

本来、電車と徒歩でてくてく回るつもりが、全裸の会会長のご好意により車で回らせていただき、予定していたよりずっと広い範囲を見ることができました。会長には改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

 

#1 当麻寺

第1回目の報告は当麻寺(たいまでら)である。当麻寺は東塔・西塔が並存する様式(薬師寺様式とも)の寺院の中で、現存しているものとしては最も古い。創建は飛鳥時代、つまり平城京以前と伝えられる。

当麻寺が近世以降有名になったのは、浄瑠璃や歌舞伎の題材ともなった「中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説」によってである。この伝説は、高貴な生まれ(藤原氏)ながら薄幸の女性・中将姫が、幾多の苦難を浄土信仰により救われる、というものである。

そして、普通は寺の本尊といえば仏像であるのに、当麻寺の本尊は「当麻曼荼羅(たいままんだら)」と呼ばれる布に織り込まれた浄土絵図である。

普通、曼荼羅というと真言宗で本堂に掲げられる2枚の「両界(胎蔵界・金剛界)曼荼羅」を指すが、当麻寺はこれとは異なり、浄土三部経の一つ、観無量寿経の阿弥陀世界(極楽浄土)を図で表しているとされる。今ならば「コミックでよくわかる浄土信仰」といったところだろうか。

この曼荼羅は、中将姫が一夜で織り上げたという伝説があるが、縦横4メートルの大きさがある巨大なものである。中将姫の技術指導(と藤原氏の資金援助)により職人が製作したというのが本当のところだろう。

国宝の曼荼羅原本は秘蔵されていて、現在は見ることができない(見ても、真っ黒で絵が分からないとのこと)。代わって本堂に掲げられている本尊は、江戸時代に作られたレプリカである。それでも、このレプリカですら重要文化財である。また、曼荼羅を入れてある漆塗りの厨子も国宝である。

さて、浄土信仰ということは、平安時代以降である。釈迦の予言する末法の時代(仏の正しい教えが伝わらない時代)が近づき、阿弥陀如来の本願により西方極楽浄土に往生するという信仰が生まれた。当麻寺の創建は飛鳥時代であるから、浄土信仰より古い。

浄土信仰以前の当麻寺の信仰を現代に伝えているのが、金堂の本尊である弥勒仏塑像(国宝)である。広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩・半跏思惟像(小首をかしげて頬のあたりに指を当て、アルカイック・スマイルを浮かべている像、いずれも飛鳥時代とされる)で有名なように、古代において弥勒信仰は盛んであった。

当麻寺の仏像の中で、最もインスピレーションに富んでいるのが、この弥勒仏をはじめとする金堂の仏様である。当麻寺の弥勒仏は如来形(すでに悟りを開いている仏の造形)であるため、大仏のように頭は渦巻き、半眼で、指の間には水かきが備わっている。塑像(粘土製)というのも、かなり古い信仰の形を示しているといえる。

また、四方を守護する四天王像(乾漆造)はあごひげをたくわえているという他にはない特徴があり、それも実際に何かの毛を使っているということである。四天王はそもそもインドの古い神様を起源としているので、こういう風貌をしているのは、あるいはもともと仏教が日本に伝わった当時の伝承なのかもしれない。

56億年後に衆生を救うために現れるという弥勒仏。仏教の開祖である釈迦如来や、過去・未来を司るとされる薬師如来・阿弥陀如来、現世の我々を守ってくれる観音菩薩・地蔵菩薩などに信仰が集まるのは分かりやすい。こうした中で、はるか未来に登場するという弥勒仏をなぜ信仰し、何を祈ったのか。ほの暗い金堂の中ではるか飛鳥時代に思いをはせたのでありました。

 


当麻寺境内。大和から見ると、後方の二上山(ふたがみやま)に日が沈むことから、極楽浄土に近い寺として信仰された。創建当時は弥勒信仰の寺であったと考えられる。

 

#2 叡福寺

当麻寺から峠を越えて大阪側に出ると、太子町である。地名の太子はもちろん「聖徳太子」に由来している。古代の地名を「磯長(しなが)」といい、このあたりは蘇我氏の勢力が強かったということである。

古代の皇室というと、万世一系に目を奪われて父系の血統を追ってしまうきらいがあるが、平安時代に藤原氏が母系を独占し摂政・関白として権勢をふるったように、それ以前の時代においても母系の持つ意味は大きいのではないかと考えている。その点からいうと、敏達天皇から推古天皇まで兄弟相続で皇位が継承された西暦600年前後の約半世紀は、蘇我氏の時代といってもいい。

そして、蘇我氏の地盤はというと、馬子の墓と伝えられる飛鳥から、昨日お伝えした当麻周辺、そして叡福寺のある磯長、すべて竹内街道、つまり難波から飛鳥への物流に関わりのある土地である(やはり聖徳太子ゆかりの四天王寺まで含めると、起点から終点までとなる)。

蘇我氏と百済をはじめとする渡来人との親密な関係もあわせて考えるに、蘇我氏の経済基盤の一つは、朝鮮半島を含めた他地域との交易であり、今日でいう総合商社的な地位にあったのかもしれない。

さて、叡福寺(えいふくじ)は聖徳太子墓所と同じ敷地内にある。奈良時代に聖武天皇の発願により創建されたと伝えられるから、初めに太子の墓があり、そこに寺を建てたということになる。通りに面した叡福寺に進む。広々として、静かである。平日とはいえゴールデンウィーク前半というのに、境内にいるのは私と全裸の会会長の二人だけである。

聖徳太子というと法隆寺、というのが第一印象になる。古来、聖徳太子に対する個人崇拝は盛んで、「聖徳宗」「太子宗」といった宗派もあるくらいなのだが、ここ叡福寺は観光コースにある訳でも、国宝重文が目白押しという訳でもないから、静かなものである。ことによると、約30年前にお札が福沢諭吉に切り替わったことも影響しているのかもしれない。

宝物殿もあるのだけれど、月曜日は休館ということであった。そのこともあって、人がいないのだろう。とはいえ庭園や木々はきちんと手入れされており、澄みわたった5月の風が境内を流れている。こうした古刹の雰囲気は大好きである。むしろ人がいなくてうれしいくらいだ。

さらに進んで階段を上がると、ここからが宮内庁所轄の聖徳太子墓所である。宮内庁認定の陵墓は、天皇・皇后を「陵」、皇族を「墓」と区別している。ここは聖徳太子だけでなく、母の間人皇后も眠っているところだから、間人皇后・聖徳太子陵と呼ぶことも可能なはずなのだが、何か事情があるのだろう。合葬陵ならば、天武・持統陵が有名である。

小山になっている中腹に石室があり、その入口に屋根と玄関(と呼ぶべきか)が備えられている。おそらく、後期古墳と呼ばれる横穴式陵墓の多くはかつてこういう形をしていて、その後焼けたり朽ち果てたりして今日の姿になった(=森だけが残った)のではないだろうか。

玄関の上方、欄間にあたるところに阿弥陀如来の透かし彫りがある。浄土信仰は太子の時代よりかなり後世のものであるので、これは最初からあったものではないだろう。本当は、聖徳太子といえば玉虫厨子で有名なジャータカ(インドの古代伝承をもとにした釈迦の伝説)がふさわしいが、日本人にはなじみが薄いのであった。

寺の隣にある公園に、何か書いてある石の柱が通路に沿って円形に立てられていた。数を数えると17本ある。最初の一本は「和をもって貴しとなす」ではないかと思ったら、案の定そうだった。十七条憲法である。


叡福寺境内。静かである。


聖徳太子墓所。石室入り口の建物は江戸時代のもの。ご存知、宮内庁の立て札もあります。

 

#3 磯長周辺の古墳群

叡福寺のある磯長(しなが)=太子町には、4つの天皇陵がある。敏達、用明、推古天皇はそれぞれ兄妹で、もう一人は敏達天皇のひ孫にあたる孝徳天皇である。

叡福寺に墓所のある聖徳太子は用明天皇の第一皇子であり、二上山の向こうにある当麻寺は用明天皇の第三皇子である麻呂古皇子が開いたとされるので、この一帯はまさにこの血統の聖地であるということになる。この時代の朝廷における実力者は、大臣(おおおみ)蘇我馬子であった。

敏達陵、用明陵、推古陵はそれぞれ小山にあって、古代難波の百舌古墳群(仁徳陵など)、古市古墳群(応神陵など)と異なり、こじんまりしている。周囲を堀で囲った形跡も認められない。厳密には古墳の一部ではないかと思われるところに、民家や畑があったりする。

ただし、いずれも二上山に至る傾斜地にあるので、遠く大阪方面が見渡せる。特に推古天皇陵からはPLの塔や大阪平野を望むことができた。古代、大阪湾が深く入ってきていた時代には、おそらく海まで続いていたのであろう。

さて、孝徳天皇陵は他の3古墳とは異なり、まさに竹内街道沿いにある。陵周辺は非常に道が狭く民家も建て込んでいるため、現在、陵の正面から入ることはできず、陵の側面からお参りする形になる。

この孝徳天皇、大化の改新による政変の後に皇位につき、都を大和から難波に移転したものの、実力者・中大兄皇子と対立して皇后をはじめ重臣すべてが大和に去ってしまった、と伝えられる。

常識的に考えれば、この時期まさに朝鮮半島情勢が緊迫の度を高めつつある状況にあるので、連絡にも移動にも便のいい難波に拠点を移すのがあるべき姿であろう。特に百済を支援したいということであれば、なおさらである。

大化の改新で中大兄皇子は蘇我入鹿を滅ぼしたものの、朝廷の多数派は引続き朝鮮半島進出を目指した。だからいったんは難波京に遷都したものの、中大兄皇子はそうは考えなかったため、次第に巻き返して再び大和に都を戻し、さらに大津京に拠点を移したのではないか。中大兄皇子(天智天皇)は朝鮮半島進出には消極的だったのである。

唐は朝鮮半島への進出にあたり、各国に対し巧妙に内部対立の種をまき、内紛を起こさせている。高句麗にも百済にも新羅にも行っていたそうした工作が、倭国にだけ行われていないはずはない。

おそらく中大兄皇子には、唐・新羅から、「朝鮮半島出兵(白村江)には協力するな。その代わり、唐・新羅が勝った暁には日本列島における利権を認めてやる」という工作があったのではないか。(それでは、白村江の二万五千の兵はどこから派遣されたのか?この点については、「古代史シリーズ」をお楽しみに)

だから、蘇我氏に縁の深い聖徳太子の法隆寺には「百済」観音があり、中大兄皇子(天智天皇)に縁の深い三井寺には「新羅」明神があるのではないか。これは実際には後の人々がやったことにせよ、そうしたことを暗示する意図もあったとは考えられないか。

そんなことを考えながら、蘇我氏とかかわりの深い竹内街道の一日を終えたのでした。

 


孝徳天皇陵。宮内庁看板が横向きになっているのは珍しい。


現在の竹内街道。道幅が狭く、両側に民家が建て込んでいます。

[may 14, 2009]