320 行燈山古墳(崇神天皇陵) [Jul 30, 2013]

黒塚古墳からさらに東へ。三輪山の麓であるこのあたりを「山の辺の道」といい、大きな古墳や寺などが散在している。道端に「崇神天皇陵」の案内石が置かれている。坂を上って大きな通りを渡ると、例によって宮内庁の立札があり、毎度おなじみ御影石の柵と鳥居が見えてくる。

この古墳は、大和・柳本古墳群では渋谷向山古墳(景行天皇陵)に次ぐ大きさを持つ巨大古墳で、周囲に陪塚(ばいちょう。近親者や重臣の墓とみられる)を持つ。ちなみに、上の写真階段奥に見える森が堀の中にある天皇陵で、左手建物(宮内庁の陵墓管理事務所)の上に見える森が陪塚。長さがちょうど天皇陵の半分だそうだ。

鳥居まで進んで奥、天皇陵方面を見ると、後方は三輪山である。大山古墳(仁徳天皇陵)と比べると小ぶりだが、堀の幅が広いので奥行きがあるように見える。後を振り返ると、奈良盆地へ向けて緩やかに下って見晴しがいい。この地を治めた大王が墓を作るとすれば、間違いなくこの場所を選ぶだろうと想定される場所である。

以前に古代史の連載で説明したように、私自身は大和朝廷が日本全国を支配下に置いたのは白村江以降(7世紀)のことであると考えている。「倭国」と呼ばれた九州政権とは別に近畿に拠点を置く地方政権があり、それが紆余曲折を経て全国政権となったのだろうと思う。巨大古墳が近畿に多いのは、九州政権がGDPの多くを戦争に費やしていたからだろう。

崇神天皇は本名「ミマキイリヒコイニエ」で「ハツクニシラススメラミコト」と伝えられる。名前の意味は「初めて国を治めたスメラミコト」なので、近畿地域を初めて統一した大王という意味にとることができる。大神神社(三輪山)との関係も記紀に書かれているので、三輪山をご神体として信仰するこの地域の支配者であったと思われる。

一方で、大和朝廷の始祖とされる神武天皇は出自が九州であることが明記されている。また、以前連載で述べたように、景行天皇から仲哀天皇までは記紀の記載の不自然さから九州政権の王であったと思われる。さらに、伝承が豊富で実際にこの地を支配したことが確実な仁徳天皇以降の王朝は、宇佐八幡宮・応神天皇の子孫であることをもって王の権威としている。

となると、近畿を初めて統一した崇神天皇と呼ばれる支配者の系統は、どこかで滅ぼされたか統合されたかした可能性が大きいのではないだろうか。近鉄もJRもない時期に、親子孫になるはずの開化・崇神・垂仁天皇陵が奈良市内と柳本を行ったり来たりしないだろうし、最初に述べたように三輪山を信仰する政権ならこのあたりに眠りたいと思うはずなのである。

現在の宮内庁の取り決めによる天皇・皇族の陵墓や陵墓参考地の推定は、すべて記紀に書かれている人物にあてはめようとするから訳が分からなくなっているのである。おそらく大部分の古墳は、現皇室とは直接のつながりはないと思われるのであるから、被葬時期が5世紀以前の古墳については、黒塚古墳と同様にきちんと調査すれば、得られるものは多いように思う。

それはそれとして、JR柳本から黒塚古墳、崇神天皇陵にかけては食べ物屋やコンビニ等が見当たらないので(飲み物の自販機も少ない)、このあたりを歩かれる方はあらかじめ用意しておく方がいい。

 


黒塚古墳から5分ほど坂を登ると、崇神天皇陵とされる行燈山(あんどんやま)古墳。天理から桜井のあたりには巨大古墳がいくつかあり、時間があればゆっくり見たいところです。

崇神天皇陵拝所。おなじみの花崗岩(御影石)でできた柵です。

[Jul 30, 2013]