211 種田山頭火生家跡 [Jun 13, 2015]

山口県は防府市、防府天満宮へ向かうJR防府駅・天神口には、種田山頭火の銅像が建てられている。いまでこそ文化人として扱われている山頭火だが、伝記によると生前は「ほいと(乞食)坊主」として世間一般からはむしろ嫌がられていたらしい。少なくとも、郷土出身の偉人と見られていなかったことは間違いなさそうだ。

際限なく酒を飲み、ひとにカネをたかり、妻子は見捨て、それでも俳句の世界では大きな顔をしていっぱしの権威を気取っていたのだから、私だってお近付きにはなりたくない。それでも、芸術的才能(スポーツの才能もそうだ)と人格とはリンクしない。人格破綻者であることは否定できないとしても、彼の作品は100年の時を超えて今日でも通用しており、銅像を建てられるだけの功績は残している。

正確な数を調べた訳ではないが、日本全国で建てられている句碑の数が多いのは、松尾芭蕉を別格とすると山頭火がトップクラスである。明治以降の短歌・俳句であと100年経っても残っているのは、おそらく石川啄木と山頭火だけであろう。文化人としての功績は正岡子規の方が上だろうが、子規の俳句と聞かれて答えられる人がどれだけいるだろうか(私は「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」しか知らない)。

自由律俳句といえば尾崎放哉と山頭火が両巨頭である。放哉が東京帝国大学卒業から保険会社の幹部職員を経て無一文の乞食坊主、山頭火が早稲田中退から事業に失敗して乞食坊主。ともに大酒飲みかつ酒癖が悪く、経済感覚がなく、妻子を養うつもりもないといった共通点があるが、放哉が内へ内へと向かっていったのに対し、山頭火は外へ外へと向かっていった印象がある。

だから放哉は結局「咳をしてもひとり」が代表作になってしまったのに対し、山頭火は西日本中心に各地を訪れ、名句を残して後の時代に句碑が建てられることとなった。「分け入つても分け入つても青い山」なんてすごい余韻に満ちた句であるが、おそらく当人そんなに深くは考えていなかっただろう。

その山頭火の生家跡が駅から10分ほど歩いた場所にある。公園ともいえないような狭いスペースだが、それは山頭火が貧しく小さな家の出身だからではない。実はこのあたり一帯の大地主の惣領息子であったのに、父親の事業が失敗したことで(カネ遣いも荒かったらしい)破産し、家財のすべてが人手に渡ってしまった。最近になって、その一角を有志が整備した公園なのである。

「雨ふるふるさとははだしであるく」「ふるさとはちしやもみがうまいふるさとにゐる」「うまれた家はあとかたもないほうたる」等々、山頭火の故郷を詠んだ句は多い。破産し一家離散し、自らも各地を放浪する行乞の身。故郷に帰ったからといって晴れやかに迎えられる訳ではないものの、温暖な瀬戸内の気候は山頭火もなつかしかったようだ。

生家跡から学校のあったあたりまでの路地裏が、「山頭火の小径」として整備されている。ほとんど車も通れない狭い道が、萩往還(毛利の殿様が萩城と防府を往復した道。天満宮の先には毛利家庭園がある)と並行して通っている。何ヵ所かでカギ型に曲がるので方向感覚を失いそうになるが、時折きれいな川が流れている趣きのある道である。

山頭火の頃は、ちしゃもみ(レタスの味噌和え)が庶民の味だったらしいが、平成の世には、防府に来たら瀬戸内、日本海、豊後灘の海の幸と獺祭(だっさい・岩国の酒)が当地の名物である。名物にうまいものなしという定評があるが、ここの名物は酒飲みにはたまらない。

参考:「放浪の俳人山頭火」村上護、「どうしやうもない私 わが山頭火伝」岩川隆、「山頭火の妻」山田啓世


防府駅から10分ほど歩くと、山頭火生家跡がある。種田家は大地主で、山頭火が生まれた頃はこのあたり一帯種田家だったが、その後破産して人手に渡った。


生家跡から学校に通った(であろう)路地は、「山頭火の小径」として整備されている。

[Jun 13, 2015]