327 法隆寺・中宮寺 [Feb 29, 2016]

法輪寺からはまっすぐ南へ進んで、法隆寺・中宮寺へ向かう。

法輪寺のすぐ前、小高い丘のように見えるのが山背大兄王の陵墓である。なぜか宮内庁所管にはなっていない。山背大兄王は聖徳太子の跡取り息子で、上宮王家の主として天皇位をうかがう勢いにあったが、蘇我氏と対立して滅亡したとされる。その際、末の妹の馬屋古女王が暗躍したという話もある(w)。

法輪寺から中宮寺までの道は、ずっと住宅地が続く。四十年前もこうだったか思い出そうとするけれども、全く憶えていない。かすかに空き地が広がっていた記憶があるのと、現在は比較的新しい家が多いので近年になって開発されたのではないかと推測はできるけれども、なんとも心許ない。

中宮寺はもともと法隆寺に付属する尼寺で、敷地も法隆寺の隣にある。というよりも法隆寺自体が、金堂や五重塔のある西院伽藍と、夢殿・中宮寺のある東院伽藍で構成されているといってもいい。

さて、中宮寺に行こうとすると夢殿の回りをほぼ半周して遠回りしなければならない。夢殿は至近距離まで入るには拝観料が必要となるが、塀の外から眺めるだけならおカネはかからない。昔なら、平民は遠くから眺めて拝むだけだっただろうから、現代の平民である私も塀の外から手を合わせる。こう言ってはなんだが、前に入ったことがあるが特にどうということはなかった。

中宮寺は本堂を囲む一画だけで面積としてはかなり小さい。それでもこの小さな本堂の中に2つの国宝がある。一つは菩薩半跏思惟像、もう一つは天寿国繍帳である。天寿国繍帳の方はレプリカであった。

たまたま、内部の説明にちょうど間に合ったので聞かせていただく。ここで目から鱗だったのは、国宝の菩薩半跏思惟像をこれまで弥勒菩薩だと覚えていたのに、説明では如意輪観音菩薩と言っていたことである(パンフにもそう書いてある)。

帰ってから調べてみると、もともと寺では如意輪観音と伝えられていたものであるが、造形等から弥勒菩薩であろうと推定され、その名前が一般的に使われているものらしい。国宝の指定においては、あえてそのあたりを特定せず、単に「菩薩」と定めている。中宮寺には他に菩薩像はないから、それだけで十分なのであった。

考えてみれば、系列の法隆寺には百済観音があり、法起寺にも法輪寺にも本尊として十一面観音菩薩がいらっしゃるので、宗教的統一感を求めるのであれば如意輪観音とすべきところではあるが、如意輪観音像の多くは6本の手を持ち如意宝珠と数珠を備えていることや、観音信仰よりも弥勒信仰の方が時代が古いことを考えると、私は弥勒菩薩として作られたと思う。

菩薩半跏思惟像の説明で驚いたのは、あの漆黒に見える彩色は実は当初からの色ではなく、千年以上にわたって足元でお香を焚いてきたことにより、煙で燻されてあの色になったということである。お寺の本堂でお香を焚くのは中宮寺に限られたことではなく、なぜこの菩薩像だけが現在の色になったのか不思議ではあった。

もう一つの国宝である天寿国繍帳、本堂に置かれているのはレプリカで、現物は刺繍に用いられた絹糸が劣化してしまってもとの形にないそうである。聖徳太子妃の橘大郎女が祈願して作られたものであるが、聖徳太子の奥さんの中では最も身分が高い(推古天皇の孫)にもかかわらず一緒の墓には眠っていない(日出処の天子にも登場しましたね。推古天皇の娘という設定でしたが)。

中宮寺の後は法隆寺の東伽藍・西伽藍を結ぶ長い直線道路を歩く。さすが世界遺産であり、修学旅行の定番訪問地でもあることから、かなりの人出である。そして、境内で工事が行われていて動線が制限されている。それもあるし法隆寺だけは比較的最近に見ているので遠くからお参りさせていただくだけにとどめ、西伽藍のさらに西、藤ノ木古墳を目指した。


中宮寺本堂。私はこの時まで、半跏思惟像は弥勒菩薩だと思い込んでいました(中宮寺では、如意輪観音といっています)。


法隆寺前の直線道路で、夢殿方向を振り返る。さすがに世界遺産、このあたりまで来ると観光客や修学旅行生でいっぱいでした。


同じく直線道路から、金堂と五重塔。法隆寺は比較的最近に来たことがあるので、中には入らずに藤ノ木古墳へ。

[Feb 29, 2016]