328 藤ノ木古墳 [Mar 7, 2016]

法隆寺前の直線道路をそのまま直進すると、道は細くなるものの古い家並みが続いて雰囲気がいい。5分ほど歩いて家並みが途切れると、左前方に小高い丘のような藤ノ木古墳が見えてくる。

こちらの古墳、四十年前に来た頃はまだ発掘調査が行われていなかった。調査が始まったのは1985年、国宝に指定された金銅冠や金銅馬具が発見されたのは1988年だから、私が行ってから約10年後のことである。現在は公園として整備され、出土品は橿原考古学研究所に保管されている他、すぐ近くの斑鳩文化財センターで出土状況等の説明を行っている。

まず、古墳の周囲をひと回りする。直径で50mほど、高さで5mほどなので、それほど大規模なものではない。大仙古墳(仁徳天皇陵)は別としても、ニサンザイ古墳。箸墓古墳とも山ひとつを墓にしたような大きな規模である。それらと比べるとかなり小さい。

被葬者の身分が違うからというのがまず考えつく理由であるが、そうなると棺に入っていた金製の王冠や馬具は何なのかということになる。現代であれば金持ちイコール権力者とは限らないけれども、古代においては政治的に権力を持っていないと金持ちにはなれないのである。

この古墳は法隆寺の西伽藍からみると、夢殿のある東伽藍の距離とほぼ同じくらいしか離れていない。実際に、江戸時代にはここに法隆寺の施設(宝積寺大日堂)があり、法隆寺内の絵図にはこの古墳を「崇峻天皇御陵」と書いてある。一方、宮内庁指定による崇峻天皇陵は桜井市の倉梯岡(くらはしのおか)であり、これは古事記・日本書紀にもそう記載されている。

そして、この古墳で棺の中に葬られていたのは2人というのが発掘調査の結果明らかになっている。そして、これが男女であれば一人は妃だろうということになるのだが、身体的な特徴や副葬品からみるとどうやら二人とも男のようなのである。

このあたりの経緯に関し、井沢元彦氏の「逆説の日本史」では、崇峻天皇は蘇我氏によって暗殺された天皇であり、ひとまず倉梯岡に仮埋葬したものの、早く正式に埋葬しないと怨霊化することを恐れた周囲が、すでに崇仏戦争の際に殺されていた天皇の兄・穴穂部王子の陵墓に一緒に埋葬したという仮説を立てている。ありそうなことである。

もっとも注目すべき点としては、この古墳が珍しいことに盗掘の被害にあっておらず、そのため被葬当時の様子が今日まで奇跡的に残っていたことがある。これは間違いなく、法隆寺が千年以上の間、厳重に管理してきたことによるものであり、そういう指示をしたのが聖徳太子本人であったというのは、十分考えられることである。

石室に至る羨道(えんどう、せんどう)の部分は土が除かれていて、石室のガラス前に立つと中のライトが点くようになっている。ただしこの日はまぶしいくらいのお天気で、太陽の光が反射して中の様子は全く分からなかった。

法隆寺の周辺とは異なり、ほとんど人が来ない。5分か10分に1組来るくらいで、それも古代史ファンではないらしく一通り見ると車でまたどこかに行ってしまう。通りと反対側では物音も話し声もほとんど聞こえない。うれしいことにそこにもベンチがあるので、暖かい日差しの下、古墳を前にはるか古代に思いをはせる。

200~300m離れたところに斑鳩文化財センターがあり、ここでは古墳内部を再現したジオラマや出土品(国宝級はレプリカ)を展示している。斑鳩町立にしては相当おカネがかかっている施設で、学芸員の人の説明もある。それによると、「年に一度、国宝が里帰りするので、このくらいの博物館設備がないといけないんです」とのことだ。

説明によると、棺の中から出土した王冠や馬具は当時は金色に輝いていたそうで、まさに王者の装いであったという。また、その装飾も相当に手が込んでいて、はるか西アジアの影響さえみられるとのことであった。

わずか30年ほど前まで地中に眠っていたものの中に、また宮内庁所管でもない古墳の中からこれだけのものが出てきたということは、天皇陵とされる古墳を本格的に調査したらどれほどの収穫があるのだろうと思わざるを得なかった。もっとも、いまの学界は自分の仮説に都合のいい解釈しかしないだろうから、それなら土の中に置いておいた方がいいのかもしれない。


北東方向からみた藤ノ木古墳。法隆寺から歩いてくると、家並みの向こうからこの形が見えてきます。


斑鳩文化財センター。左の朱塗りの棺は藤ノ木古墳から出土した棺のレプリカ。町でこれだけの博物館施設を持っているところは珍しいということですが、国宝が里帰りするのに必要だとか。

[Mar 7, 2016]