330 大原三千院 [Jun 30, 2016]

比叡山延暦寺の後、ツアーバスはそのまま比叡山ドライブウェイを北上する。弁慶が修業したことが売り物となっている西塔、源氏物語にも登場する横川(よかわ)を抜けて山を下りて行く。向かう先は大原。延暦寺東塔からは小一時間の行程である。

大原といえば、中高年には「京都 大原 三千院」の歌が自動的に出て来てしまうのはやむを得ない。オリジナルはデュークエイセスだったと思うのだが、あまりにも有名で数多くの歌手がカバーしているので、自信はない。作詞永六輔、作曲いずみたく、いずれも昭和の高度成長期のヒットメーカーである。

ただ、バスガイドさんの説明によると、三千院が大原に下りてきたのは、あのあたりの寺院の中では最も新しいそうである。源平の戦いで生き残った建礼門院の寂光院とか、法然上人大原問答の勝林院の方がずっと古く、それらのお寺さんは平安末から鎌倉時代から。三千院は江戸時代末から明治時代。ただし皇族の門跡寺院であったので、次第に規模も大きく整備されて今日に至るそうである。

比叡山のところでも書いたように、大原に来るのは高校の修学旅行以来四十数年振りのことである。バスは駐車場で停まり、そこから川沿いの登り坂を十数分歩いて行く。道沿いには観光客相手の店がずっと続く。記憶をたどるが、こういう道を通った覚えは全くない。登り坂をかなり歩いたような覚えはあるのだが、もっと道幅が広く売店など並んでいなかったと思う。

横を流れている川は「呂川」といい、近くを流れる「律川」とともに、天台声明(しょうみょう)の「呂律」に由来している。声明とはお経を独特のリズムで節をつけて唱えるもので、これを突拍子もない音程でやると聞くに堪えないことから、「呂律(ろれつ)が回らない」という慣用句が生まれた。

土産物商店街を抜けて四つ角になったところに、「芹生」(せりゅう、と読む)という割烹があって、そこでお昼を食べる。三段の重箱に詰められた「大原弁当」で、賦や山菜、豆などが中心であるが、卵焼きや鮭など生臭ものも入っている。この時ツアー客が揃ったのだが、みごとに全員が国内旅行客で、みなさん非常に静かにお昼を楽しまれていました。

食事の後は2時間の自由時間。それぞれ目当てのお寺さんに向かうが、ほとんどのお客さんが三千院へと向かう。この日は平日(金曜日)ということもあって、全体に観光客が少なく道もお寺さんも静かだったことは何よりのことであった。

三千院の入り口には、「梶井門跡 三千院」と書かれている。もともと梶井門跡というのは天台宗の中で皇族が住職を務める重要な寺院であり、三千院と呼ばれるようになったのは明治になってからだそうである。だから、三千院と呼ばれる前からお堂や仏像はこの地にあって、国宝に指定されている古いものも含まれている。

お寺の内部は建物も庭園も手入れが行き届いていて、山水画のようである。国宝になっているのは、本堂にあたる往生極楽院に置かれている本尊・阿弥陀三尊像である。奈良の飛鳥あたりにある仏像と比べるとお顔が穏やかで形式も整っている。これは、奈良の仏像と比べて300~400年違うことが大きな理由である。脇侍の観音・勢至の両菩薩が、正座(大和座り)をしているのは非常に珍しい。

庭園の片隅に、「わらべ地蔵」と呼ばれる寄り添った2体の石仏がある。周囲を苔が囲んでいて、お地蔵さま自身にも少し苔が生えているようである。地蔵菩薩も、さきほどの観音菩薩、勢至菩薩も本来は仏教の重要な仏様であり、本来、その様式は厳しく定められている。

にもかかわらずこうした仏様が残っている背景には、おそらく、平安中期以降の国風文化の進展と神仏習合、それと皇族が住職を務めていたことも関係あるのだろう。奈良の仏様が基本的に原理原則どおりで、朝鮮半島に残っている仏像とも共通点があることと比べると、対照的なように思える。

残念だったのは、四十数年前にもここに来ているはずなのに、全く記憶がないということであった。それだけ時間が流れたということなのか、私自身が耄碌してしまったということなのか、いずれにしてもちょっと悲しく思ってしまったのでした。


京都大原三千院。四十数年ぶりのはずだが、全く覚えてないのが悲しい。高校の修学旅行じゃ仕方がないかも。


庭園にあるわらべ地蔵。皇族の門跡寺院だけあって、お庭の手入れは行き届いていました。

[Jun 30, 2016]