332 後鳥羽天皇・順徳天皇 大原陵 [Jul 6, 2016]

大原三千院の隣には、後鳥羽天皇・順徳天皇の陵墓がある。天皇陵ファンとしては、素通りする訳にはいかない。

ご存じのとおり、両天皇は承久の乱で鎌倉幕府に敗れて島流しに遭った。後鳥羽天皇(上皇)は隠岐島に、順徳天皇(上皇)は佐渡島にそれぞれ送られ、ときの天皇は「廃帝」として明治時代まで諡号(おくり名)がなかった。明治になって、諡号がないのはお気の毒ということになり、仲恭天皇となった。それまで600年以上、廃帝(九条廃帝)と呼ばれていたのである。

(ちなみに、同様に明治まで諡号がなかったのは弘文天皇と淳仁天皇。弘文天皇は、壬申の乱のどさくさで即位していないことにされ、淳仁天皇は、ときの絶対権力者称徳天皇の命令により、諡号を贈られずに廃帝(淡路廃帝)と呼ばれた。ともに、明治政府によっておくり名された。)

後鳥羽天皇も順徳天皇も配流先で亡くなっているので、京都に陵墓があるのは妙なように思われるが、もともと公家の人々は両天皇を京都に戻すよう運動していて、鎌倉幕府の強い反対によりできなかったという背景がある。両天皇が亡くなられて現地で火葬された後に、遺骨の一部を持ち帰って法華堂に安置し供養したのがこの陵墓のはじまりである。

だから、天皇陵とされる鳥居の向こうにある丘や十三重塔よりも、 隣に建てられている法華堂(大原法華堂)の方が本来の意味での陵墓にあたる。この法華堂も宮内庁の管理下にあり、参道からの道も天皇陵方面らの道も厳重に閉じられていて、一般人は立ち入ることができない。

後鳥羽天皇と順徳天皇は親子であり、承久の乱の後、皇位からは遠ざけられたのであるが、その後に当時の皇統(後鳥羽天皇の兄弟の系統)が断絶し、皇位は再び後鳥羽天皇の系統に戻ってきた。

その際、鎌倉幕府は順徳天皇系は認めず、幕府に協調的であった土御門天皇(順徳天皇の兄)の系列に後を継がせた。だから、後鳥羽天皇は今上天皇の直系のご先祖にあたるが、順徳天皇はそうではない。

また、後鳥羽天皇は和歌をはじめ芸術関係に造詣が深く、小倉百人一首にも讃岐院の名で一首残っている。現代に残る皇室の家紋である菊のご紋も、後鳥羽天皇が作ったものと言われている。百人一首といえば順徳天皇も一首残していて、それが小倉百人一首のラスト、百番目の歌「ももしきや・・・なほあまりあるむかしなりけり」なのであった。

そんな背景を思いながらお参りをさせていただく。鎌倉時代は比較的新しいとはいっても、いまから800年も前のことである。そして、天皇陵がいまの形で整備されるようになったのは明治以降だから200年足らず。その前の600年以上は、隣の大原法華堂でひっそりと供養されていたということになる。それを思うと、感慨深いものがある。


おなじみ宮内庁の天皇陵立て札。


後鳥羽院・順徳院とも鎌倉幕府と戦って敗れ、島流しに遭った。後方にある山は時代が違うので古墳という訳ではない。

[Jul 6, 2016]