710 下野薬師寺と付近の古墳群 [Apr 30, 2008]

今年のGW前半はどこに行く予定もなかったのだが、山口補選の結果にもかかわらずガソリンの値上げが確実な情勢なので、遠出するとしたらいまのうちにしておきたい。というわけで、28日の月曜日は栃木県までドライブしてきた。

わが家から利根川を渡ると茨城県利根町、そのとなりが取手市である。ここから「下妻物語」で有名になった関東鉄道に沿って、国道294号線を北上する。結城市付近まで行ったら、今度は自治医大方面へ向けて西へ向かう。のどかな田園風景の中、細い道路を入ったところに下野薬師寺跡(しもつけ・やくしじあと)がある。

下野薬師寺は、奈良時代に全国に3つあった戒壇(僧侶の資格検定所)の一つである。唐から苦節十年の後やっと日本に到着した鑑真和上は、754年に平城京・東大寺に日本で初めての戒壇を設立した。一つだけでは足りないので、次いで大宰府観世音寺とここ下野薬師寺にも設立し、この3つが「天下の三戒壇」と呼ばれたのである。

当時の僧侶というと、現在の僧侶にプラスして、大学の教養課程と、医師の国家試験と、司法試験を加えたくらいの教養人だから、イメージ的にはむしろ、東京大学、京都大学、九州大学にあたると考えていいかもしれない。

そして下野薬師寺が有名なのは、なんといっても弓削道鏡の事件によるところが大きい。天武天皇系統では最後の天皇となった称徳天皇が、皇位を太政大臣法王の道鏡に譲ると主張したが、これは和気清麻呂による宇佐八幡の神託で拒絶されることとなった。称徳天皇はその後ほどなくして病死し、道鏡はここ下野薬師寺別当として左遷されたのである。

ただ左遷といっても、現在でいうと総理大臣が失脚して学界に戻り京都大学学長になったということだから、それほど奇異なものではないだろう。また、すでに70歳と当時では高齢な道鏡が、地方で僧侶の資格検定を行うことを苦にしたとはあまり思えない。そして律令体制の崩壊とともに下野薬師寺も廃寺となり、いまは礎石や戒壇跡(江戸時代に再建という)に当時をしのぶよすがを残すのみである。

また、下野薬師寺跡周辺には数十にのぼる古墳群が残されている。これらの古墳は5世紀から6世紀にかけて作られたものとされており、大和朝廷に匹敵する有力な政権がこの地に存在したことを示している。

こうした遺跡は、現在は工業団地の片隅や道路際にある。奈良県にあって「宮内庁管理」であればとても近づくことはできないが、国指定史跡であっても県の教育委員会管理だといくらでも歩いたり見たりできるのはうれしい。はるか千数百年前に思いをはせた一日でした(花粉症の発作が出ましたが)。


下野薬師寺跡。建物は回廊の復元予想。平城京跡や飛鳥板葺宮跡によく似ています。


車塚古墳と石室。石室は凝灰岩(ぎょうかいがん)でできていて、大谷(おおや)あたりから川を運んできたともいわれています。

[Apr 30, 2008]