712 なす風土記の丘と笠石神社 [May 6, 2015]

4月のギリヤーク鹿沼公演が夕方からだったので、その前に国宝・那須国造碑を見に行った。

那須国造碑は、多賀城碑、上野国多胡碑とともに日本三大古碑の一つとされ、日本古代史を考える上での重要なヒントとなるものである。碑文によれば8世紀初めに造られたものであるが、その後江戸時代まで倒れて埋もれていた(その点では多賀城碑と共通する)。これを元通りにしてお堂を建て保護したのが天下の副将軍・水戸光圀公である。

現在、このお堂は笠石神社となっている。ご神体は国造碑そのもので、ご祭神は碑文で顕彰されている那須直韋提(なすのあたい・いで)、古代の那須国造(くにのみやつこ)である。

古代日本史の連載で書いているように、大和朝廷が日本列島全てを支配下においたのは白村江以降だと考えている。だから、那須国造碑の建てられた時代はまさに、大和朝廷が日本全国を支配下に置く以前と以降の、過渡期・混乱期にあたる。碑文の解釈、その歴史的意義については夏にでも改めて考察してみるが、碑のおかれている笠石神社も、かなり面白い神社である。

まず、近くにある公共施設・大田原市なす風土記の丘資料館を訪れる。入ってすぐに、那須国造碑のレプリカが展示されている。身長ほどある石の表面を削った上に、19字詰め8行、152字の碑文が刻まれている。内容は、永昌元年(なぜか唐の年号)に那須国造である直韋提が、飛鳥浄御原宮(大和朝廷)から評督(こおりのかみ、後の郡司)に任ぜられたというものである。

碑文の上には、雨除けの目的なのか茸のような帽子のような石、笠石が置かれている。この笠石は、碑そのものが倒れて以降もそこに置かれていて、雨乞いなどの際に使われていたものだという。そして、石碑の上にこうした笠石を置くという例はわが国では毛野国(北関東)に数例しかないが、朝鮮半島にはそうした例が多くあることから、半島由来と考えられるそうである。

そして本物の国造碑がある笠石神社は、風土記の丘資料館から10分ほど歩いたところにある。碑文の置かれているお堂は門に鍵がかかっていて、拝観受付は社務所までと書いてある。社務所といっても普通の住居であり、神主のご自宅を兼ねているものと思われた。あまりひと気がないのであきらめて引き上げようとすると、奥からおばあさんが登場してきた。

拝観料は一人500円とリーズナブルだが、神主から碑文の説明を聞かないと入れないという。説明はどのくらいかかるかと聞くと、30分という。後に用事(ギリヤークである)があるのでそんなに長くはいられないというと、10分ほどでできるかもしれないから、神主に言ってみてくれという。何やらたいへんな手順である。一日に何組かならいいだろうが、続けて拝観希望者が来たらどうするのだろう。

そして、神主登場。太目の体をスーツに包み、神主というよりも博物館の説明員のようだ(WEB情報によると、実際に小学校の先生だったそうだ)。庭に置いた椅子に座らされ、碑の来歴から水戸光圀公の業績、碑文の書体が書道の教材になるほどの達筆であることなど、資料をいくつも出しながら、滔々と説明する。なるほど、このペースでやられたら30分は楽勝だろう。

これから用事があると言って、巻きでやってもらったところ、わら半紙で作ったお手製の資料をあとから見るようにとたくさんくれた。自宅の縁側には、お守りやお札と並んで、碑文の写真やら拓本がたくさん置かれていたが、あまり買う人はいないようだった。

さて、お堂に移動していよいよ国宝・那須国造碑を見ることができる。お堂はちょうど碑を覆う大きさに作られているので、家の奥さんはそのまま入れるが、私は頭をかがめないと入れないし、腰を曲げていないとお堂にいられない。ちょうどこの時は奥多摩小屋の翌週で腰が痛んで仕方なかったので、かなりつらい拝観となってしまった。

内部は暗く、神主お手製のスポットライトを点灯する。実物は、レプリカと変わらない(当り前だ)。ご神体であるので写真撮影は遠慮し、二礼二拍手一礼で、旅の平安をお願いする。神主によると、碑文の152字の他に、笠が被るあたりに逆さに「大」と読める字が書かれていて、この意味は不明とのことであった。

碑文を見ていると次の拝観希望者が現れたので、「説明を聞かないと見れないみたいですよ」と申し送りして、失礼する。その人が来なかったら、まだ延々と神主の説明が続いたであろう。とにかく印象深い神主であった。それにしても、国宝をこれだけ近くでじっくり見ることのできる機会は、それほど多くはないかもしれない。

資料館から笠石神社へ行く途中には、下侍塚(しもさむらいづか)古墳がある。近畿の巨大古墳に比べると小ぶりだけれども、都から遠く離れたこの地域にも、相当の経済力を持った豪族がいたということである。前方後方墳というあまり見ない様式である。

この古墳も、笠石(那須国造碑)との関連があると考えた水戸光圀公の指示により発掘調査され、鏡や土器の欠片などが出土したものの、碑文との関連は見つけられなかったとのことだ。発掘後はご老公の命令により埋め戻され、その時植えられた松が古墳の上で大きくなっている(写真下)。古墳時代と飛鳥時代では200~300年の差があるから、関連が見つからなかったのも仕方のないことであった。


笠石神社。正面、注連縄の奥にある建物は、「那須国造碑」保護のため水戸光圀が命じて作らせたものである。拝観するためには拝観料の他、神主のご説明を聞かなければならない。


笠石神社周辺にはいくつかの古墳が点在し、古代にこの地方の有力者がかなりの勢力を有していたことをうかがわせる。写真は下侍塚(しもさむらいづか)古墳。

[May 6, 2015]