300 三十番善楽寺 [Oct 17, 2016]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

国分寺にはCotton Timeでの昼食休憩を含め50分滞在して、午後1時20分出発。日なたに出るとやっぱり暑い。しばらく休んだ分、余計にしんどい気がする。山門からまっすぐ、刈り入れの終わった水田の間、あぜ道のようなロケーションの舗装道路を進む。

道の両脇から雑草が伸びて、ひっきりなしにばったが飛んでくる。はるか向こうまで田んぼが続き、道路の下をくぐって向こう側もまた田んぼである。このあたり農道が碁盤目に走り、曲がり角が頻繁にあるのだけれど、行先表示があまりない。電柱など構造物もないので、遍路シールもない。山を見て大体の方向感覚で進むしかない。

そして気になったのは、次の札所は善楽寺なのだが、善楽寺方向を示す表示があまりないということである。あるいは、長く札所が併存していたことが影響しているのだろうか。代わりにあるのは「岡豊城→」の案内である。岡豊と書いて「おこう」と読む。四国の覇者、長宗我部氏の本拠地である。戦国時代は、このあたりが土佐の中心だった訳である。

しかし、いまでは山に沿って農家が点在する田舎道になっている。戦国時代までは他国の攻撃を受けにくい山城が地域の中心であったが、それ以降は海運に便利な川沿い・海沿いに都市が発展したからである。阿波では国分寺はやや内陸にあって徳島は海沿いにあり、土佐もこちら岡豊は内陸で高知港は街中からすぐのところにある。

高知大学医学部のあたり、道が川と錯綜して分かりにくいが、遍路地図にしたがって、国分川を渡って西に進む。時刻は午後2時、太陽はじりじりと遠慮なく照りつける。自販機を見つけると、この日何度目かのペットボトル一気飲みである。

両側から山が迫った道を登ったり下ったりして歩くこと約1時間、よく見る造りの、丸太を組み合わせた遍路休憩所が現われた。蒲原へんろ休憩所である。へんろ小屋第五号と書いてある。この意匠のへんろ小屋は阿波海南が第一号と書いてあったが、シリーズで作っているのだろうか。

盛大に水が出ていたので、リュックを置いて顔を洗わせていただく。水が冷たくてたいへんありがたい。小屋の中にはベンチが置かれていて、「トイレ・飲料水は上の事務所にあります。お気軽にどうぞ」と書いてある。ありがたいことである。こういう天気の時は、日陰のベンチと顔を洗える水が何よりのごちそうである。

このあたり、谷間の寂しい道だなあと思っていた。帰ってから調べてみると、へんろ休憩所の左手、丘を越えたところは高知刑務所なので、その方向に入る道がないのはそういうことなのであった。遍路地図には何も書かれていない。

休憩所の先は登り坂で、しばらく進むと幹線道路と合流する。左に折れると逢坂峠で、登った後は長い下り坂である。折りしも道路工事中で、道の両側をあっちに渡ったりこっちに渡ったりしなければならなかった。峠を下りたところに遍路地図ではWCの表示があるが、工事中のためか見当たらなかった。

道路の横は整備された墓地になっていて、その脇に「善楽寺→」の表示がある。この道を進むと住宅街の中を通るが、結局幹線道路に戻ったのでどちらを進んでも同じだった。道路の向こう側に渡ってさらに住宅地を進むと、やがて大きな鳥居が見えてくる。土佐一ノ宮である。

 


国分寺から善楽寺へは、刈り入れの終わった水田の間を抜けて行く。バッタ多数。


このあたり、善楽寺方面の標識はなく、岡豊(おこう)城の標識を頼りに進む。


高知大学の横を抜け、山に沿った田舎道を進む。1時間ぶりに見つけた遍路休憩所。水も出ているし、トイレは上にあるという案内がうれしい。

 

三十番札所については、よく知られているようにいきさつがある。そもそも、真念「道指南」の三十番は「一宮」である。江戸時代の札所は、神仏習合の土佐一ノ宮であった。そして、すでに訪問した阿波一ノ宮と同様に、土佐一ノ宮はいまも存在する。善楽寺の向かいにある土佐神社である。しかし、明治時代の神仏分離令により一ノ宮は神社であって寺ではないということになってしまい、札所ではなくなってしまった。

もともと江戸時代には、一ノ宮の別当寺は百々山神宮寺であり、その名前は「四国遍礼霊場記」に残されている。ところが神宮寺は神仏分離により廃寺となった。ご本尊すら国分寺に移されたことは国分寺のところで触れたとおりである。そのご本尊は明治時代はじめに高知城のすぐ近くにある安楽寺に移され、三十番札所も安楽寺となった。

ところが明治・大正を経て昭和になってから、神宮寺の塔頭のひとつであった観音院が善楽寺として独立・再興された。その際、かつての神宮寺の山号であった「百々山」を引き継いだ訳である。そして、われこそは正当な三十番札所であると名乗りをあげたのである。

そうすると、おさまらないのは安楽寺である。何しろ明治以来、唯一の三十番札所だったのである。善楽寺が再興された昭和5年から平成に至るまで六十年以上三十番札所は併存し、善楽寺・安楽寺の双方が「三十番札所」のご朱印を押していた。最終的に善楽寺が三十番札所となり、安楽寺は奥ノ院という位置づけで確定したのは平成六年。それからまだ二十年余しかたっていない。

まあ、ご詠歌に「人多くたち集まれる一ノ宮  昔も今も栄えぬるかな」と詠われているくらいだから、本来は土佐一ノ宮に近い位置にあるのが本当だろうとは思う。単独で札所だった六十年と併存した六十年で手打ちをして、一ノ宮に近い善楽寺に一本化したのは妥当な落としどころかもしれない。ちなみに、このあたりの地名を一宮と書いて「いっく」と読む。

土佐一ノ宮である土佐神社と向かい合って、十一面観音菩薩像の立っているところが善楽寺である。境内はコンパクトで、観音像のすぐ横に本堂、駐車場の側に大師堂がある。他に、子安地蔵堂や脳の病に霊験ありとされる梅見地蔵がある。歴史が新しい分、いろいろ経営努力をしている。

納経を終え、土佐神社にもお参りして、時刻は午後3時35分。午前中には午後3時に善楽寺を出られれば高知市内まで歩いてしまおうと考えていたが、何回も繰り返すように10月とは思えない30℃の炎天下で、ペースが上がらなかった。1日炎天下を歩いて疲れたし、これから高知まで歩いても安楽寺に5時までに入ることは難しそうだ。

そこで、プランBを採用して土佐一宮からホテルに帰ることにした。土佐一宮へは南に1.6km、4時前に到着して奈半利行の列車を待つ。この日の歩数は48,663歩、歩いた距離は26.2kmで、平坦なところを歩いた割には距離は伸びなかった。

という訳で土佐一宮経由でホテルに帰ったのだが、夏並みの暑さは思考能力も奪っていたようだ。というのは、一ノ宮から土佐一宮に向かうのと薊野(あぞうの)に向かうのとではたいして時間は変わらず、結局乗る列車は同じになるから、薊野に向かう方が翌日が楽だった。けれどもその時は炎天下で頭がやられていて、高知まで歩いても仕方ないから土佐一宮と思ってしまったのは迂闊なことであった。

[ 行 程 ] 国分寺 13:30 → [6.9km]15:15 善楽寺 15:35 → [1.6km]15:55 JR土佐一宮駅 [→ごめん・なはり線 夜須駅→土佐ロイヤルホテル(泊)]


善楽寺は土佐一ノ宮の正面、十一面観音像が目印だ。


善楽寺本堂。十一面観音のすぐ奥にある。


道路の反対側が土佐一ノ宮。阿波一ノ宮・大日寺と同じ位置関係だが、幹線道路でないので交通量は少ない。

[Jun 3, 2017]