110 家まで歩いた話 [Dec 2, 2005]

注.首都圏(関東)道路地図をお持ちの方は、それを見ながらこの記事を読まれるとさらに楽しむことができます。

#1 冒険は始まった

冒険とは何か?それは、予定も立てず先の見通しも確定していない中で行動することである。だから、あらかじめ地図やコンパスを用意し行程を十分検討したものであるならば、それが困難な道のりであろうともそれは冒険ではない。逆に、計画も見通しもないのであれば、それはたとえ都会の中で完結するものであっても、冒険と呼んで差し支えないのではないかと思う。

さて、先週の土曜日はDUKEの呼び物ベガスカップであった。この大会は、半年間の総合成績をチップ量に換算して最後に一発勝負を行い、優勝者はラスベガスにご招待という豪勢なものである。ここ半年は、この大会を目標にがんばってみようと思っており、月例のこの予選にももちろん出場したのであった。

1日2ラウンド行われる予選のうち、第1ラウンドはあっさり敗退、第2ラウンドは残り3人までがんばったが惜しくもここでゲームセットとなり、ポイントが加算される2着以上には残れなかったのだが、さて、問題は、ここまで残ってしまったことにより終電がなくなってしまったことである。わが家は北総線の印西牧の原という駅にあり、この日は駅に車を停めている。ただし、この路線は終電が早く、遅くとも11時30分にはDUKEを出ないと間に合わない。しかし、最後のオールインに敗れた時点で、時計はすでに真夜中を回っていた。金曜日ではないので、DUKEも終夜営業はしていない。

次善の策としては、並行して走っている京成線(やはり、DUKEの最寄り駅東日本橋から直通で行ける)で近くの駅まで行って、そこからタクシーという手もあるのだが、この日は土曜日で京成線の終電も早くに出てしまっている。安全策としては、行きつけの錦糸町のカプセルホテルに泊まるか、手頃なサウナかインターネットカフェで始発まで時間をつぶすという手もあるが、真夜中にも拘らずそれほど疲れているわけでもなく、また、この夜の負けっぷりにまたもや納得がいかなかったので、とりあえず、家に近づくところまで近づいてみようと思ってしまったのである。

東日本橋から一駅で浅草橋で下りる。というのは、終点の京成高砂まで行ってしまうとそこから先は全く進める目処が立たないからである。浅草橋で下りて総武線で千葉方面に向かう電車はまだ出ているはずであった。

なぜこんなことが分かるかというと、そもそも6年前にいまのところに引っ越すまでの間、通算すると30年以上、総武線の津田沼に住んでいたからである。それこそバブル華やかなりし頃は、真夜中すぎまで遊ぶのはしょっちゅうであり、12時すぎくらいで終電がなくなっているはずがなかった。案の定、終電1本前の電車に乗ることができた。滅茶苦茶に混んでいた電車が津田沼に着いたのは午前1時5分。

以前は、終電近くに津田沼に着くと、乗合タクシーというものがあった。津田沼から新京成線に乗り換えて行く人たちのために、新京成の終電が出てしまってから4人とか5人乗合で、北習志野とか八千代方面に行ってくれたのである。しかし、土曜日だったせいか、あるいはそういう制度そのものがなくなってしまったのか、駅前にはそういうタクシーは停まっていない。かといって、普通のタクシーではおそらく1万円近くかかってしまい、それだったらホテルに泊まったほうが安い。

考えたのは一瞬で、すでに足は国道296号に向けて歩き始めていた。家からここまで車で1時間弱。信号待ちや渋滞もあるので距離的には多分20kmから25kmといったところだろう。だとすれば、4時間か5時間、夜明けまで歩けば家に着く。それに、疲れたところでタクシーを拾えばその分料金は安くなるし、どうしても歩けなくなったら24時間営業のファミレスくらいありそうだ。幸い、会社帰りでないので鞄もないしスポーツシューズでもある。

そして、冒険は始まった。

 

#2 午前2時半

JR津田沼駅から7~800m歩くと国道296号、昔の名前で成田街道である。江戸時代は庶民が純粋レジャー目的で遠出などできなかったから、お伊勢参りや成田山参詣は宗教的というよりはレジャーとしての色彩が強かったそうだ。だから、江戸から一日歩いた宿場町である船橋は、そうした人々のおかげで大層賑わったという。ここから前原、薬円台、習志野まで、国道296号は新京成線と並行して進む。このあたりは子供の頃から見慣れた風景である。

歩き始めて30分、もう1時半を回っているが結構ひと通りがある。普通の女の子が自転車に乗って帰って行ったし、3ヵ所で道路工事もあって全然真夜中を感じさせない。もともとスキーウェアであった厚手の上着を着ているせいで汗びっしょりであるが、風が冷たいのでそのまま歩く。この日負けたポーカーのことや、今後のカシノやポーカーのことを考えていると、それほど眠くならない。仕事帰りではないのでほとんど疲れもなく、お腹もすいていない。つまり、とても快調に歩を進めることができたのである。

約1時間で習志野に達する。右手はわが国最強ともいわれる自衛隊第一空挺団の習志野駐屯地である。ここには、昭和30年代にはすでにパラシュート訓練用の数十メートルの高さの鉄塔があって、当時他に高い建物などないから、相当遠くからでも見えたものである。その後、昭和40年代はじめにUHF千葉テレビの電波塔が建つまで、この地域のランドマークの座を長く保ったのであった。自衛隊を右手に見ながらしばらく歩くと、新木戸(にいきど)交差点である。まっすぐ進むと勝田台から臼井、佐倉、成田となるが、ここで296号を左手に折れて、印西方面に向かう。ここから先は車では何十回も通っているが歩くのは初めてである。

午前2時半、歩き始めて1時間半で東葉高速鉄道の八千代緑ヶ丘に着いた。もちろん、終電などとっくの昔に出てしまっている。あきらめてタクシーを拾うとすれば、このあたりか、さらに5kmほど行った国道16号との交差点くらいしか思い浮かばない。2台、3台と空車が通り過ぎるが、なんとなく、まだ歩けそうな気がする。結局はそのまま歩くことにした。さっきかいていた汗は、すっかり引いてしまっている。駅前のビル街を過ぎると、東の空から真っ赤な受け月が昇っているのが見えた。

さて、ここまで歩いてさほど疲れていないのは、この日は土曜日で仕事をしていないことや、毎週2時間のトレーニングで体力がついてきたということもあるが、おそらく最大の理由は、ここまで坂がないということであった。津田沼から八千代にかけての土地を総称して習志野原という。このあたりは「前原」「薬円台」「習志野台」「八千代台」という地名があるように高台に広がった地域で、水利もなく関東ローム層の赤土でできているためあまり耕作に適さない。せいぜい落花生や人参ができるくらいである。

だから、もともと山林原野が多く、習志野の自衛隊(もともと大日本帝国陸軍第一師団騎兵第二連隊)があったり、ゴルフ場に開発されたりしたのである(ちなみに、ずっと先わが家近くにあるゴルフ場は”習志野”カントリークラブである。昔、ジャンボ尾崎が所属していた)。しかし、ここから先は印旛沼から流れ出て新川となり、さらに花見川となって東京湾に注ぐ水系とその支流郡の作り出す低い土地が広がっている。こうした低い土地が水田として利用されているわけだが、低い土地というのはいわゆる谷であり、谷があるということは下り坂、上り坂があるということである。

つまり、ここから先の道のりはがぜん厳しくなるのであるが、そのことに気が付かなかったのは、やはり真夜中で脳が眠っていたせいなのかもしれない。

 

#3 午前3時40分

八千代緑ヶ丘の駅周辺のビル街を抜けると、工場団地である。ここには、食品工場や鉄鋼問屋などさまざまの工場があるのだが、当然一つの敷地ごとの面積がそこそこ広く、歩くと思いのほか距離がある。すでに午前3時近くで、全くひと気がない。時折トラックがすごいスピードで通り過ぎていくのでかえって安心であるが、やはりひとりでこの時間この場所というのは怖いものがある。

工場団地を抜けると、一番目の谷である。下り坂を行くときには大して気にならなかったが、上り坂ではなかなか進まない。ちょうど谷の一番下のあたりで午前3時を回った。歩き始めて2時間、通り沿いに新聞店があって、すでに何台かのオートバイが配達を始めている。歩いてくる私を見て、警戒するような様子もみえる。このシチュエーションでは私の方が危ない人に見えるのかもしれない。当り前だが。

坂を登りきるとさすがに疲れた。このあたりから国道16号線まではだらだらとしたカーブが続く。道の左は中山カントリークラブのはずだが、その前に住宅が建っているのでゴルフ場は見えない。しかし、このあたり歩いても歩いても国道まで着かない。のどがかわいてきたので、自動販売機でポカリスエットのボトル150円を買う。その買う間、わずか10秒か15秒立ち止まっただけなのに、歩き出そうとしたら腰やひざ、足全体が疲れて痛くてなかなか歩けないのには驚いた。

ポカリスエットを一気に半分ほど飲む。すると、引いていたはずの汗がどっと沸いて出てきた。あっという間にメガネも曇ってしまう。足も引き続き痛くて、歩きにくくて仕方がない。やはりこういう時に止まってはいけないのだな、と改めて思った。歩きながら残りのポカリスエットを少しずつ飲む。飲み終わっても、まだ16号には着かない。空いたボトルを捨てたいのだが、道端に自動販売機(=缶とかビンのゴミ箱)が見つからない。2軒あった24時間営業のコンビニも通りから駐車場分、約20mほど下がっている。そこには当然ゴミ箱もあるのだが、その20mを余計に歩くのが辛くて捨てられない、といえば、どの程度疲れていたか分かっていただけるだろうか。

いよいよ国道16号に近づくと、何台かのタクシーとすれ違う。ここまで来れば、4、5千円で家まで着くとは思ったが、疲れたと思って歩いていた15~20分の間に、また足が慣れてきてなんとか歩けるような気がしてきた。16号の交差点あたりで信号待ちをしている車がいたらさすがに乗っていただろうと思うが、そんなタクシーは止まっていなかった、というか国道16号に車は走っていなかった。片側2車線、合計4車線の道路を、堂々と信号無視で渡る。時間は午前3時40分。歩き始めて2時間半以上が経過している。

 

#4 午前5時40分

国道16号を渡ると、ほどなく二番目の谷のはずなのだが、やはりなかなかそこまでたどり着かない。道の両側は畑で、朝の早い農家の家々ではすでに起きはじめていてひとの動くのが見える。あれ、ここはこんなに遠かったっけ、と考えていて気がついた。車だと60kmで飛ばしているからものの2、3分で通り過ぎる距離でも、2、3kmというと歩くと相当である。このあたりは信号も交通量もあまりないので、こんなに遠いとは思わなかった。

ようやく二番目の谷の下り坂に入る。すると、濃い霧になっていて先があまりよく見えない。その霧の中を歩いていく。ちょうど下り切ったあたりが八千代市と印西市の境である。ここまで来るとようやくはるか彼方に信号が点滅しているのが見えるが、どのくらいの距離があるのか見当もつかない。谷のあたりの距離はせいぜい4、500mと思っていたのだが、とてもそんな短くは感じられない(翌日計ってみたら800mだった)。

このあたりでは、汗で濡れた下着と、ズボンの裏地とで、歩くたびに太ももの裏あたりが擦れてかなり痛かった。それでも、止まってしまうとさっきのように歩き始めがつらくて仕方ないので、一定のリズムで歩き続ける。しかし、ペースを上げるほど体力は残っていなかった。そして上り坂に入る。これがまた長い。このあたり歩道のないところで、時折通る大型トラックがびっくりしたように道の中央あたりまで避けてくれるのが面白かった。

最後の坂を登りきってしばらく進むと、ようやく千葉ニュータウンの入口、船尾である。時計を見るとすでに午前4時40分。歩き始めてから3時間半余り、国道16号からはほぼ1時間である。ここまで来ればもう着いたも同然と元気を出そうとしたら、家のそばに最近できたショッピングモール「牧の原モア」の案内看板をみて驚く。そこには「あと5.7km」と書いてある。そう、このあたりはニュータウンだけあって区画が広く、千葉ニュータウン中央から印西牧の原までのひと駅でも約5kmあるのである。「まだ5kmもあるのか」と思ったが、もちろんこんなところにタクシーは流していない。

谷から上ってすでに霧は晴れており、東に低く出ていた月は空高く上がっていてすでに受け月の形ではなくなっている。えらく長い直線道路を延々と歩く。歩いても歩いてもまだ着かない。考えてみたら、24時間営業のコンビニは何軒かあったが、24時間やっているファミレスはなかったなあ。それでも、ここまで歩き続けたのだから、われながらたいしたものだと思い、一歩一歩、ゆっくりゆっくりと自分に言い聞かせながら進んだ。

印西牧の原駅に着いたのは午前5時40分。東京から始発に乗ってくるより、30分くらい早い。まだ夜は明けていないが、東の空の色が変わってきた。駐車場で車に乗ろうとすると、そのわずか30cm足らずの段差に対して足が上がらなかった。腰にも膝にも一気に痛みが走る。そして、総行程4時間半あまりの冒険は終わりを告げたのであった。

[Dec 2, 2005]