518 七半 ~古今著聞集 [Feb 13, 2009]

七半(しちはん)は、平安末期~鎌倉初期に盛んに行われたゲームである。このゲーム、サイコロを2つ使って行われたらしいというまでは分かっているが、実際どのようなルールだったのか正確には分かっていない、というのが私の理解であった。

ところが、先週読んだ「古今著聞集(ここんちょもんじゅう-鎌倉時代に編纂された説話集)」現代語訳(訳者は阿刀田高)に、「七半はサイコロ2つを振って出た目の丁半を当てるゲームで、七の目が出た時に配当を半分にすることから”七半”の名となった」と書かれていたのである。

確かに、七半という名前からしてそれは最初に考えつくことなのであるが、そう書いてある文献はなかったような気がしたし、もしそうだとするとゲームとしてどうなのかという疑問(後で触れる)が残る。実際調べてみたら、やっぱり古今著聞集の原文には七半のルールなど書いていなくて、その部分は訳者の阿刀田氏が加筆したものであることが分かった。

今回は、この七半のことが書いてある部分をご紹介するとともに、どのようなルールであったのか考察してみたい。

(古今著聞集巻十二・博奕第十八の七番目のエピソード”花山院右大臣忠経の侍、其妻の懇志により七半に勝ちて後出家の事”)

花山院右大臣(かざんいんうだいじん)の時代、七半が大いに流行して、昼も夜もなく多くの人が七半に興じた。右大臣は注意したけれども、聞く人はいなかった。そのとき、一人のたいへん貧しい侍がいた。ある夜、侍が寝ずに何事か考え込んでいるのが気になった妻が「どうしたの?」と尋ねると、侍はこう答えるのであった。(拙訳、以下同じ)

「この頃、右大臣のお屋敷では、年寄りも若い者もみんな七半にはまって毎日遊んでいるのだが、私はカネがないので仲間に入ることができない。どうしてもやってみたいということではないのだが、もし何か大事が起こった時に、私だけ仲間外れという事になるのではないか。そう思うとよくないような気がするし、一文なしのわが身が情けなくもなるのだ。」

花山院右大臣・藤原忠経は1207年、鎌倉幕府が開かれた少し後に右大臣となっている。この時代の上級貴族はほとんど全員藤原氏、しかも藤原道長の子孫だから、本姓の藤原は省略して役職名や屋敷の場所などで呼ぶことが多い。花山院も道長のひ孫の代に分家した家で、忠経はその5代目となる。右大臣は摂関、(太政大臣)、左大臣に次ぐ重職だが、院政を経て幕府の時代なので、政治上の実権はほとんどない。

それを聞いた妻は、その夜が明けるとすぐに自分の着物で500文を工面し、夫にこう言った。「おっしゃるように、いい事であろうとよくない事であろうと、仲間外れになるのはくやしいものです。このお金を使って、気晴らしをなさいませ。他の人はもっと賭けるのでしょうが、楽しければこれで十分でしょうし、楽しくなければ多く賭けても仕方ありません。」

侍は、「女というものは、博打をすることを腹立たしく思うものであるというのに、ありがたいことだ。」と大層感謝して勤め先のお屋敷に向かった。

この時期の銭といえば、宋銭を使っていたものかもしれない。500文は現在の5000円くらいと考えられる。楽しければこれで十分(原文:少分の物にてうたんも、心をやることはおなじことなり)は、現代にも通じるギャンブルの心得だろう。さて、この侍、七半に加わってどうなったかというと・・・。

 

いつものようにみんなが集まって七半をやっている。侍は普段やらないものだからどういう賽の目が出ると勝ちになるのかよく分からない。近くの人に聞くと、「おやおや、えらく堅物な人かと思っていたら、今日は一体どうしたんですか?」と驚かれてしまう。みんなは一度に何千文と賭けているので、500文を何回かに分けるのも見苦しいと思い、続けて出ている目に有り金全部を賭けることにした。

すると、賭けた目が出て侍に1000文が戻ってきた。侍は再びチャンスを待った。胴が回ってきたけれども、「私は初めてなので」と他の人に譲った。次に賭けた1000文も当って、2000文となった。妻にもらった500文を懐に収めて、こう思った。「この1500文は、もともとなかったカネだ。ここからは思い切って賭けてみよう。」

ここに書かれていることだけで、七半についていくつかのことが分かる。まず配当が1対1であること。ルーレットでも大小でも、1対1の賭けとなるのは前半・後半か偶数・奇数かである。賽が一つか三つであれば前半・後半が成り立つが、賽が二つであれば前半・後半は1対1の賭けにはならない。「七」といっている以上、賽は二つである可能性が大きく、偶数・奇数(丁・半)を賭けていると考えるのが自然である。

もう一つ分かるのは回り胴だということである。別の言葉でいうとハウスがいないということである。この場合、胴はどういう役割で何に賭けるのかという問題が生じる。このことは少し後で考えてみたい。

1500文を賭けると、これもまたうまくいって3000文になった。そこからは1000文2000文を賭けると、たいていはその目が出て、侍の手持ち金は3万文あまりにまで増えた。ここまでと思った侍は、「ちょっと休ませてもらいます」とその3万文を下げると、それをそのまま妻の元に持っていかせた。周りの者どもは、思わぬ展開に目を丸くするのであった。

500文(5000円)の元手が3万文(30万円)になったことになる。現在の貨幣価値にすると大したことのない金額に思えるが、当時なら4000文(金1両)で1人が食べる1年分の米(1石)というのが大体の目安だから、7、8年食べていけるだけの金を手にしたということである。一つの屋敷内の賭けでそれだけの金額が動いていたというあたり、当時いかに七半が流行していたかを物語っている。

侍は妻の元に戻り、二度と賭け事には手を出さないという誓詞を書き上げると、妻に言った。「3万文のうち、1万文は貴方に差し上げよう。もとはといえば貴方が工面したお金なのだから、受け取ってほしい。残りの2万文で、私は出家して来世のためのお勤めをしたいと思うが、どうだろうか。」「それはよい志です。ぜひそうなさいませ。」

そして、侍はその金で市中に部屋を借り、出家して念仏三昧の生活を送った。そのうちに彼の徳を慕って多くの人が集まったので、彼は生涯生活に困ることはなかったという。

この物語の書かれた鎌倉初期は、法然が宋での修業を終えて帰国した時代である。まだ親鸞(法然の弟子)の浄土真宗が生まれていないということになる。すでに平安時代に空也が浄土教を市中に広め、観想念仏、声明念仏といった概念はあったけれども、鎌倉仏教にみられるような寺院の組織化はまだ行われていない。

このような時代にあっては、比叡山・高野山など大寺院の系譜とは異なる市中の宗教者も、それなりに崇敬を集められる余地があったのかもしれない。

 

さて、七半で大もうけしてその金を元手に出家した侍の話はひとまず置いて、七半とはどのようなゲームだったのか改めて考えてみたい。古今著聞集で明らかと思われるのは、以下の事項である。
1.賽を使うゲームであること。「七」というくらいだから、おそらく賽は二つであること(7の出る確率が最も高い)。
2.1:1のゲームであること。
3.1~2から丁半(偶数・奇数)を当てるゲームである可能性が大きいこと。
4.回り胴であること。

まず、阿刀田説による「七半」=7の目が出た時配当が半分、というルールを考えてみる。

ノンコミッションバカラが俗に「六半」というくらいだから、もしルールがそうだとしたらそういう名前になるのは自然のなりゆきである。しかし、ノンコミッションバカラはバンカーが6で買った時配当が半分になるので、プレイヤーが6で勝っても配当はそのままである。

バカラはバンカーの勝つ確率の方が大きく、もともとバンカーが勝った場合は95%の配当である。コミッション分の5%について、6以外の目で勝った場合には取らずに100%として、6の目の時まとめて取って50%の配当というのが、ノンコミッションバカラの考え方である。

つまり、バンカーで配当が減るケースがあったとしても、もともとバンカーの勝つ確率の方が大きいので、プレイヤーに賭けることが戦略上有利であるとはいえない。この点が「七半」とは異なるのである。

もし「七半」が7で配当が半分というルールだったとすると、配当が半分になる可能性のある「半」に賭けず、常に「丁」に張るというのが最適の戦略である。「丁」の出る確率は50%で払戻し2倍、「半」の出る確率が同じく50%で配当は払戻し平均1.83倍とすると、「半」に賭けて勝つ可能性は長期的には極めて小さいことになる。

このように、どちらかに賭けるのが圧倒的に有利だったり不利だったりするルールであるとすれば、ゲームとしてそれほど面白いとはいえない。

もう一つの問題は、回り胴ということである。「胴」というからには賭けを受ける側になる。回り胴のカシノゲーム、牌九や富貴三公は「親(胴)と子のどちらが勝つか」というゲームであるのに対し、七半は一回賽を振ることにより勝敗の決定するゲームであるから、胴の役割は何かということになる。賽を振るだけの役割であれば、侍が胴を遠慮することはなさそうだ。

江戸時代の丁半博打では、「丁半揃う(=同賭金になる)」ことが原則であった。仮に胴の役割が「不足した賭け目に張る(丁半揃わない場合は胴が受ける)」ことにあるとすれば、前に述べたように確率上は「丁」に張るのが正解となるから、胴としては「半を出すように振る」ことになり、これではちょっと単純すぎてつまらなそうだ。

一方、胴は張らないで子だけで丁半揃わせるとすれば、胴は「7を出せばさやが取れて、それ以外の場合は賽を振るだけ」ということになる。7を出せばいいというところがクラップスと似ているが、この場合胴にはリスクはなく、やはりゲームとして物足りない。

結論として、七半が「7が出たら配当半分」というだけのルールであるとすれば、ゲームとしての面白味に欠けるのでそれほど流行するとは思えない、ということになりそうだ。仮に最初はそういうルールだったとしても、ローカルルールが加わって改善されたのではないかと考えられる。

例えば、1・6の「半」と1・1、6・6の「丁」を配当半分とすれば、丁半で確率上の有利不利はない。胴としては賭け目が偏った場合には不足分を受けることになるし、丁半揃った場合には配当半分の1と6を出してコミッションを取ろうとすることで、それなりに面白味が出てくるのではないかと思う。そのあたり、記録が残っていないので想像するしかないのだけれど。

[Feb 13, 2009]