115 佐野眞一「別海から来た女」 [Mar 18, 2013]

佐野眞一はこのブログでも取り上げたことがある。ノンフィクション・ライターとしては堅実で着実なライターだと認識していた。ただ、御年65歳とご年配であり、最近はやや精彩を欠いているかもしれない。あるいは、スタッフや取材費が使えるようになり、自分の頭と体で考えることが少なくなっているような気もする。例の、週刊朝日の維新市長取材騒ぎも、そのあたりに問題の一端があったような気がする。

さて、この作品は最近では出色の事件、木嶋佳苗の連続殺人事件について、裁判員裁判の法廷メモを中心にまとめたものであるが、残念ながら東電OL事件のときのような冴えはあまり感じられない。

「付き合った男の死体の写真を見せられても、眉一つ動かさない。木嶋佳苗はやはりとんでもない“モンスター”だとあらためて思った。」

「その空気を言葉にすれば、被告席の木嶋を除いて、全員が疲労感を募らせて“やれやれ”とつぶやいているようだ」

「“また出来の悪いハーレクイン・ロマンスが始まった。これだからデブでブスのスカーレット・オハラは困る”と心中ひそかに毒づいた。」

「“木嶋佳苗、勝手にほざくならほざけ”と声に出して言った。」

など、この本の中には何度も、著者の木嶋に対する嫌悪感が示されている。しかし、週刊誌の記事ではないのだから、本当はそれだけでは困るのである。自分がどう感じるかではなく、事実を再構成し読者にそう感じさせるように書くことが大切なのではないか。

本の最初の方で著者は、「デジタル社会が生み出した木嶋佳苗の犯罪を、アナログの物語にすることは、木嶋佳苗という点と不審死した被害者たちの点を深く掘り込み」と書いているが、通して読んでみて著者の嫌悪感だけは伝わってくるものの、あまり深く掘り込んだ感はない。

例えば本の中で何ヵ所か、殺されはしなかったが詐欺の被害に遭った証人が木嶋に好意的な証言をしたり、世間が木嶋に同情的であったりすることに対して、著者は「あの女はそんなタマじゃない」と憤慨するのだが、なぜ同情する向きがあるのか、なぜ自分は憤慨するのかこそ深く掘り込むべき問題点だったように思う。

私が思うに、この犯罪は全くデジタル的ではないし(そもそも凶器が練炭である)、作者が言うほどデジタル社会を映し出しているとも思わない。古今東西、こうした事件を良心の呵責もなく起こす人間は何人もいる。私は他人の家の前に平気でゴミを捨てて行く人間の感性が信じられないが、極端な話、平均からの偏りが違うだけでやっていることは同じである。

作者にもっと分析してほしかったのは、子供の頃から手癖が悪く、上京して一人暮らしを始めてからも詐欺の前科があり、日本の警察はそんなに甘くはないということを知っているはずなのに、ほとんど同時並行的に同じ方法(睡眠薬と練炭)で連続殺人を起こして、果たして逃げ切れると思っていたのかどうかということである。

そこを説明してもらわないことには、「実は頭が悪い田舎者」なのか、「知性はまともなのにどこかが壊れている」のか、読者が判断できないのである。木嶋のルーツが福井県の山奥のダムで沈んだ村ということは、あまり本筋には関係のない話だと思っている。

もう一つ気になったのは、作者自身が「本人も気づかない深いところで、人間が壊れている。」と書いているにもかかわらず、どこがどう壊れているかについてそれ以上に展開されていないことである。

 

 

 

木嶋佳苗がどう壊れているかという話の続きである。人間をコンピュータに例えるのが分かりやすいが、壊れているのはハードなのか、OSなのか、アプリケーションなのかということである。

ハードウェアに相当するのが脳の機能的な問題であり、OSに相当するのが先天的な資質であり、アプリケーションに相当するのが後天的というか、生育歴や環境による影響である。それぞれ障害とか精神病に触れる問題となるので、すぐに差別とかそういう話になり、やりにくいことは確かであるが、新聞・雑誌ではなく単行本にするということなので、そこを踏み込んでほしかった。

ハードウェアとしての脳に支障があるかどうかの考証については、こうした対象人物を検討するにあたり、当然守備範囲に入っていいことである。実際、脳が損傷を受けて人格が変わったという例はよく引用されているし、先天的な原因により、他人と違った世界が認識されていることもある。

1Q84のふかえりはディスレクシア(識字障害)だったが、これは小説の世界だけのものではない。知り合いのまた知り合いにそういう人がいて、漢字が認識できないので前後のひらがなから意味を推測していると聞いた。そんなことができるくらいだから、知性に問題があるとは思われない。つまり、ハードウェアとしての脳の機能イコール知性ではないということである(もちろん影響はあるだろう)。

作者は取材の中で、木嶋佳苗の母親にインタビューを敢行し、門前払いはされたもののある程度の接触をしている。また、父親についても、家族の出自から別海では名士(司法書士で町議会議長)である祖父も含めて、検討の材料は多くそろえている。ただ、そこから踏み込んだ分析はしていない。

たとえば父親について、何ヵ所かで「何回受けても司法書士の試験に受からず、行政書士しか取れなかった」と書いてあるが、試験の合否よりもどのような仕事振りなのかが重要ではないかと思う(行政書士の人に失礼だし)。知性の有無は試験に受かったかどうかではなく、普段の仕事振りに表れるものだからである。

ルーツがダムに沈んだ村であるかどうかが重要なのではなく、もし、ハードウェアとしての脳に何らかの支障があるとすれば、それが家族的につながっているものなのかどうかが重要ではないのかと思う。

次にOS、つまり先天的な資質の問題になる。これはハードの問題以上にデリケートである。つまりは、精神障害があったのかどうかということだからである。よく知られているように、心神喪失の場合刑事責任は問えない。だから、ここを突き詰めると、「OSに障害があるのだから無罪」と主張することにもなりかねない。

 

 

 

人間のOS(先天的に決まっているソフトウェア)についての話の続き。いまや、先天的なものと後天的なものの境目が非常にあやふやになっている。これは、患者数を増やして経営を成り立たせたい医療の側の要因だと思っているが、両者の違いはわれわれに分からないだけでどこかに必ずあると思っている。

このあたりの問題はデリケートな上に、何か書いて炎上でもしてしまうと面倒なので(この記事を読んでいる人が多いとは思えないが)、あいまいな言い方しかできないのは残念だが、0か1かにはっきり分かれるものと、偏差値で65と35の違い(テストの成績のことではなく分布の偏りのことを言っている)とは違うということである。

例えばインフルエンザを例にとると、インフルエンザウィルスが体内に入ってそれにより発症するのがインフルエンザで、そうでないものはインフルエンザでない。ウィルスに感染しても発症しない人はもちろんいるし、だからといってウィルスの有無とインフルエンザの判定に関係がないということではない。

同様に、人間のOSに不具合がある人は、何かの社会生活上の問題が出る可能性があるという仮定は成り立つ。これは、同じ不具合のある人が常に同じ問題(犯罪など)を起こすということではない。ウィルスに感染してもインフルエンザに発症しない人がいるのと同じである。

話は戻って、木嶋佳苗に先天的な不具合があった可能性は私は非常に大きいと思っている。盗癖がある人が、「頭では悪いことと分かっているのだが、どうしてもやめることができない」と言うらしいが、そういうことである。平気で嘘をつけるというのは、言ってみれば先天的な素質であり、勉強して身に着くものではない。

過去でも現在でも、日本でも海外でも、そういう人は人口の何割かで必ず出現する。そういう人に対してけしからんと言う、あるいは嫌悪感を持つのは仕方がないが、社会とはそういうものだと思って、それを前提としてどうやって自分の身を守るかを考えた方がより建設的であるような気がする。

最後にアプリケーションについて、これも作者の分析は不十分である。上にあげたような先天的な素質があったにせよ、このような連続殺人に至る生育上、環境上の分水嶺のようなものはなかったのか、もう少し考察すべきではないかと思った。(本文中のどこかで、作者は、木嶋が風俗で働いていようがいまいが興味はないという趣旨の記述がある)

再びインフルエンザの例を上げると、ウィルスに感染しても発症しない人には何か共通点があると思う。例えば、規則正しい生活や普段から清潔を心がける習慣、リスクの高い場所に近付かない、過度なストレスにさらされない、などが発症を抑える要因として考えられる。人間も同様なことがあって、仮にOSに多少の不具合があったとしても、それを顕在化するアプリケーションが入らなければ、それほど問題にはならないような気もする。

作者の述べる「加害者にも被害者にも、われわれに共通する要素がある」のはある意味当り前のことである。こうした事件を教訓にするとすれば、繰り返しになるが社会には一定割合でこうした人間が含まれているのは仕方がないので、その上で自分がいかに身を処していくかということ以外にはないのではないだろうか。

 

[Mar 18, 2013]