117 マイケル・サンデル「それをお金で買いますか」 [Dec 30, 2015]

原題が“What Money Can’t Buy”(お金で買えないもの)。副題が「市場主義の限界」、2012年に刊行された。いまや史上主義全盛でネオコンがわが世を謳歌している時代であるが、なんでもカネで解決するんじゃないと著者は世の中の趨勢に異議を唱える。この本の主たるテーマである道徳的・倫理的側面の大切さはもちろんであるが、いろいろ考えさせられた本であった。

考察するテーマは、1章から順に「行列に割り込むこと」「インセンティブ」「友情・謝罪」「生命保険」「名誉と祝祭」である。いずれの分野においても、かつては人間として当たり前だったことが、現代では急速かつ圧倒的に市場経済に浸食されている。何でもカネで解決するのが当り前という今日の風潮も、もともとそうではなかったというのが本書の共通のテーマである。

第1章の「行列に割り込むこと」については、テーマパークにおけるVIPのような露骨な例から、空港における保安検査のように顧客差別化と紙一重な例まで考察される。今日では、カネを多く払えば割り込んで当り前という考えが一般的になりつつあるが、そもそも割り込みは道徳的・倫理的に許されないことであった。カネを持っていれば割り込めるというのは、ここ20年位のスタンダードなのである。

次の章では、インセンティブ=経済的利益、負のインセンティブ=経済的不利益だと現代人は考えているけれども、行き着くところ、罰金と料金の区分が不明確となるがそれでいいのかという点が指摘されている。

「ルールを破れば罰金を払わなければならない」イコール「罰金を払えばルールを破っていい」ということではない。けれども、現代においては徐々に後者の考え方が優勢になりつつあると本書では指摘する。それでは、もともとの要請である「共同体の構成員はルールを守らなければならない」という規範がないがしろになるという。そのとおりである。

続く第3章では、友情や謝罪はカネで買えるのかという点が考察される。結婚式で他人に書いてもらったスピーチ原稿を読むことは許されるのか、真摯な謝罪であれば本人でなくてもいいのか。今日では(日本でも)、よほどの重大事故でない限り自動車事故の後処理は保険会社任せである。本当に友情や謝罪はカネで買えないと言えるのか、考えさせられる。

このあたり、訳がよく分からなくて読みづらい部分もあった。「前者の場合、金銭的取引を通じて買われる善が台無しになってしまうのに対し、後者の場合、善は売られてもなくなりはしないが・・・」(138ページ)といった具合である。この「善」の原文はおそらくgoodsで、商品、財と訳すべきところである。それが分かって、大分と読みやすくなった。

第4章で、もともと保険とは、貿易において船荷が無事目的地に着くかどうかという海上保険から始まったもので、生命保険の歴史は比較的新しいこと。その背景には、人の命を賭けにしていいのかという倫理的問題があったことが説明されている。

この倫理的問題を解決するため、生命保険においては、被保険者の死亡により経済的に問題を抱えることになる者が受益者でなければならないという縛りがあった。だから、家族や被扶養者が受取人である生命保険は比較的早くから認められたのに対し、それ以外の第三者が受取人となる生命保険は多くの人から嫌悪感を持たれており、実際に商品化されたのは最近のことである。

今日、その縛りはかなり緩やかなものとなっており、企業が従業員に保険をかけることは珍しくなくなっている。さらに、生命保険の買取や証券化もすでに行われつつあり、全くの第三者が、他人の余命の長短により運用益を得るという事態が現実味を帯びてきている。それは、他人の命をタネに賭けていることと違わないのではないかというのが本書の指摘である。

 

 

前回は、海上保険からスタートした保険業務が、生命保険に範囲を拡大し、当初は厳しかった道徳的倫理的な縛りが時代とともに緩く拡大解釈されるようになったきたこと、さらに、生命保険が証券化されることにより、結果として他人の余命次第で運用益を得る状況、つまり他人の命の長短をタネに賭けをするような状況となりつつあるというところまで話を進めた。

このあたりを読んでいて、全く本筋とは関係ないのだが、昔、銀行にいた頃、輸出手形の買取りを山ほどやったことを思い出した。もう30年以上も前のこと、銀行の支店業務で外国課に配属された私は、来る日も来る日も、輸出手形買取りという仕事をやらされたのであった。

輸出手形の買取りとは、海外に商品を輸出する会社の資金繰りのため、船荷を担保としておカネを貸すことである。というとリスクがかなりあるような気がするけれども、先方は大抵の場合、銀行発行の信用状(Letter of Credit, L/C)を送ってきていて、そのL/Cに記載されている書類が揃っていれば、仮に船荷に不具合があったとしても銀行から支払を受けられるという仕組みになっている。

したがって、輸出手形の買取り業務においては、輸出会社、輸入会社の信用とほとんど関わりなく、L/Cに書いてあるとおりの書類が整っているかどうかに集中しなくてはならない。Invoice 2setと書いてあるのに1setしかなければ不払いの理由になるので数を揃えるし、B/L(船荷証券)やInsurance(保険証券)のサインが抜けていれば取ってきてもらうしで、なかなか神経を使う仕事なのであった。

そして、チェックしなければならないポイントのうちかなり大事なものが、金額がFOBなのかCIFなのかということなのである。同じ10000ドルの商品であっても、それがFOB Osakaであれば船賃・保険は先方持ちなのでそういう書類になるし、CIF HongKongであれば船賃・保険はこちら持ちである。それがL/Cに書かれている条件と違うとなると一大事なのである。

だから、この本を読んでしばらくの間は、かつての記憶が頭の底から浮き上がってきて、FOBとかCIFとか、Freight PrepaidとかFreight Collectなどという言葉が、脈絡なく脳裏に浮かんできて困ったのでありました。

最後の章「名誉と祝祭」においては、まずノーベル賞はカネで買えるか、もし買えるとしたら今日われわれがノーベル賞に対して持っている敬意が失われないかというところから議論が始まる。そして、現代ではスタンダードとなっている「命名権」についても、本当にそれでいいのかという疑問を投げかける。

確かに、「味の素スタジアム」くらいなら、味の素ならスタンド作るくらいできるだろうなと思うのだが、ボディーメーカーコロシアムだのエディオンアリーナなどと言われるとなんだそれと思う。税金で作ったものを民間会社の宣伝に使っていいのかという問題もある。そしてこの本で指摘しているのは、そもそも祝祭に関するものはカネになじまないということである。

スタジアムで観客が一緒になってひいきのチームを応援するというのは、共同体の構成員相互の連帯感を高めるというのが本来の趣旨である。だから、昔のスタジアムにはVIPラウンジはなく、チームのオーナーであっても吹きさらしの客席で応援すべきものとされていた。それが今日では、スポーツチームの収益のかなりの部分がVIPラウンジ収入なのだそうである。

現代においては、スポーツを応援するのも文化活動を楽しむのも個人の消費活動として誰も疑わないし、提供する側も商売だとみんなが思っている。しかしそうした活動は元来、共同体の連帯感を高めるために行われてきたし(典型的なのは「祭り」)、誰かが商売するために行われてきたものではないと本書は指摘する。

こうした著者の指摘はそれぞれにうなずくべき理由があり、論旨も根拠も明確である(不足があるとすれば日本語訳)。とはいえ、この本を通して読んでみて思ったのは、カネで買うべきでないものを売る人がいて買う人がいるのは悲しいことだけれども、ある意味あきらめる他はないということである。

カネ(貨幣)というのは幻想であり、多くの人がそこに価値を認めるから実体化するのだという説がある。歩きながらスマホでゲームしてポイント(ゲームの点数)を貯める人にはその行為に意味があるのかもしれないが、私にとっては意味がないしほとんど価値もない。危なくて邪魔なだけである。

生きる上で必要であるのは、カネの先にある財でありサービスであり、それらに付随する価値である。カネ=価値ではないし、価値を得る手段は狭義のカネだけではないはずである(例えば時間であったり能力であったり)。それを踏まえた上で、自分がどういう行動をとり何を優先するのかを判断していけばいい。市場万能主義をムキになって否定するよりも、静かに遠ざけるという姿勢が望ましいのではないかと思ったりする。


市場経済がすべてに優先するという価値観を痛烈に批判した本。生命保険や命名権の問題も含めて、改めて検討すべき課題だと思います。

[Dec 30, 2015]