167 リチャード・ドーキンス「神は妄想である」 [Feb 4, 2013]

「利己的な遺伝子」のドーキンスが2006年に発表したもので、原題は“God Delusion”。Delusion(妄想)はIllusion(幻想)よりかなり強い表現で、2001年の同時多発テロを受けて宗教の危険性を憂えた作品である。最近起こったアルジェリア日揮プラントにおけるイスラム過激派によるテロ事件も踏まえ、改めて考えるべき提言である。

とはいっても、かなり長文かつ分かりにくい論文であるので、果たしてテロを起こすような人達ががまんして読むだろうかという懸念がある。また、ここでいうところの“God”とは一神教における造物主の概念であるので、わが国における「八百万(やおよろず)の神」とは性格が違っている。

まあ、キリスト教もイスラム教も神の概念は同じなのでその点では不具合はないのかもしれない。ただ、我々が読むときには「ここでいう神とは造物主のこと」と認識していないと分かりにくい。

さて、数百ページに及ぶ論文を一言で要約すると「世界は進化の過程の中で現在に至ったのであって、世界の外から神(造物主)が操作したものではない」ということである。あえて言わせてもらえば当たり前のことであって、それを言うために数百ページ書くかという話なのだが、一神教的世界においてはもしかすると大変なことなのかもしれない。

昔はよく、「海外でReligionは?と聞かれたら、BuddistとかShintoとか答えておけ。神を信じていないなどと言えば人でなしと思われる」というようなことが言われていた。確かに欧米では日曜日になると教会に行くというから、そうなのかもしれないと思っていた。ところがこの本によると、かなりの人が神もキリスト教も信じておらず、ただカミングアウトをしていないだけだという。

ドーキンスは生物学者であり、生物学者でダーウィンを信じないものはいない。一方で、世界は神が造ったものであり人間がサルから進化する訳がないという人もいる。そうした非科学的なスタンスが宗教のよくないところであり、そうした非科学的なスタンスが同時多発テロに結びつくのだというのが本書の趣旨である。

話を戻すと、日本における神というのは造物主の概念ではないから、非常に分かりにくい。日本の神は言ってみれば「自然の擬人化」なのである。例えば、なぜ台風が来るのか、伝染病が流行るのか自分の知識では分からないので、仮に神がしていることとして、どうしたらいいか考えれば、とりあえずの対応はできるというのが日本における神なのである。

だから、太陽は宇宙に無数にある恒星で、山は地表の凹凸で、風も雷も気圧の変化により生じる自然現象で、伝染病は細菌ウィルスにより起こると分かったので日本には神がいなくなった。ドーキンスに言われなくても、実際に世界の外から誰かが操作しているとは思わないのである。

それでも我々が神に祈るのは、おそらくそれ以外に手立てがないからであろう。科学によりほとんどの自然現象が説明されたが、唯一残ったのが幸・不幸、つまり確率である。誰が次の日まで生き残れるかというのは純粋に確率の問題であり、我々はそうした場合に最も真剣に祈るのである。

だからドーキンスに反論するとすれば、「確かに造物主はいない(かもしれない)けれども、その存在を仮定することに意味はないのですか」ということになる。本書におけるドーキンスの答えは「意味はない」ということだが、それは必ずしも納得できる説明とはなっていない。

また、ある意味では、この問題がギャンブルと非常に近いところにあることが分かる。森巣博氏の作品の中に「マホメットが出るかもしれないが、ジーザスに張る」というフレーズがあるが、このフレーズはギャンブルの要諦であるだけではなく宗教の本質も示しているのかもしれない。

 

 

前回少し書き足りなかったので、もう少し。

わが国における神の概念とは自然の擬人化であると書いたけれども、これを単純化すれば「モノには心があると考える」ことである。これを論破することは簡単である。自然現象にも人間以外の事物にも「心」はないと証明することはできるだろう。しかし、そう考えることがわれわれが生きる上でプラスの効果をもたらすことは、多分間違いない。

例えば、太陽を神として拝む人々とそう思わない人々がいたとする。太陽を拝む人々にもそうでない人々にも平等に日は上り日は沈むので、太陽の動きそのものには何の影響もない。しかし、太陽を拝む人々の方がより太陽を注意深く見ることになるから、暦を作るのも早いだろうし、大気の変化にも敏感になるから天気の予測にたどり着くのも早い。

つまり、太陽を神として拝む人々は、農業においても漁業においても、そうでない人々より多くの収穫を上げる可能性が高いし、台風とか大雪などの自然災害に対してもより早く対応できるだろう。つまり、神を持つ文化は神を持たない文化よりも、次世代に残る可能性が高いのである。

ドーキンス自身、こうした要素についても考慮はしているのだが、それでも結論としてマイナスの方が大きいと結論づけている。確かに一神教の信者にとって神=創造主の命令は絶対であるし、それによって過去多くの血が流されてきた。わが国のように多神教の信者も同様であり、蘇我物部崇仏戦争や一向一揆など同様に血で血を洗う闘争を繰り返してきた。

それでも、人間は神の概念を持つことにより人となったのである。イヌやネコには飼い主はいても神はいない。いまの人類(ホモ・サピエンス)がその創生期から葬送の習慣を持つのは、神の概念と文明の進展が不可分であることを示している。極端な話、神を持たなければ原人同様の生活水準、文化水準でいたかもしれないのである。

もしドーキンスの啓蒙が成功して、世界中の人々が神という概念を持たなくなったとしたらどうなるだろうか。確かに数学的なモデル分析では、長期的に「人を出し抜く戦略」は長続きしない。しかしその戦略は短期的には功を奏するものだから、その間世界はかなり住みづらいものとなるだろう。

上に書いたように文明の進展は神の概念と不可分だから、いま以上に文化的に(物質的にといってもいい)暮らしやすくなることはなさそうである。カネ儲けの動機で進歩することもあるかもしれないが、おカネというのは究極のところ交換価値だから、パイそのものを大きくすることはない。

もし、死んでしまったペットやあるいは人を生ゴミとして出すような世界があるとすれば(神がいないとは端的にそういうことだ)、それはあまり住みやすい世界とは思えないのである。

[Feb 4, 2013]