260 服部文祥「サバイバル登山家」 [Apr 23,2012]

最近書評を書くことが少なくなったが、相変わらず毎週図書館に行っている。先週借りたのはこの本と他に4~5冊。文庫本は字が小さくてつらいけれど、新書版なら何とか通勤の行き帰りで読むことができる。

さてこの本、まず表紙が「岩魚の皮を歯で剥がしている」著者の写真である。目の色からして尋常ではない。何しろこの登山家、山に最小限のものしか持ち込まず、現地調達で食料を調達し、それでいて長い距離を踏破するという「サバイバル登山家」なのである。

釣り道具を持って行って岩魚を釣る、釣れなければヘビやカエルを食べるというのは、仮に若くても私にはとうてい真似が出来ない(もっともフリークライミングもできないが)。登山だから食料の現地調達が目的なのではなく、知床縦断、日高山脈縦走、日本海から日本アルプス踏破といった山行のための手段が、食料の現地調達なのであった。

著者はそれだけではなく、文明の利器を山に持ち込むのはフェアではないという見解である。魚や獣のテリトリーに入っていくのだから、自分も「素の」人間として山に入る必要があるということらしい。だから高山の単独行に必須ともいえる通信機を筆者は持たない。進退窮まっても自分から助けを呼ぶ手段を持たないのである。

山岳雑誌「岳人」のスタッフなので(今はどうか分らないが)、本来であればそういうことをしてはいけないと言う立場のような気もするが、プロフェッショナルが自分の責任で自分の体を賭けているのだから、まあいいのかもしれない。ただ言えるのは、この人は死なないけど同じことをやったら死ぬ人は半分じゃきかないだろうということである。

山の上はもともと神仙の世界であり、修験道の聖地であった。千日回峰がそうであるように、山頂はお参りして帰ってくるもので、そこに滞在するものではなかったはずである。それができるようになったのはここ百年ほどの登山用品の進歩によるもので、マタギ(狩人)も基本的には小屋に泊まった。

いまの時代あまり命の心配をせずにテント泊ができるのは、ニホンオオカミが明治時代に絶滅したことが大きいのだが、それは別にしても神々の住処に深く踏み込むためには多くの設備や食糧が必要である。これを解決するため、これまで日本の登山は、「極地法」と呼ばれるシステムを利用してきた。

このシステムは一言でいうと、ベースキャンプ、二次キャンプ、最終キャンプまで荷物を上げることを目的としたチームが大勢いて、頂上をアタックするチームは少数というものである。未知の山岳に挑むためには必要なことであったが、その弊害がいまやエベレストの頂上までルートが確保されていて、時間とカネさえあれば酸素ボンベとシェルパの助けを借りて世界最高峰に行けるという現実である。

こうした反省もあって、アルパインスタイルという最小限の設備・人数で高山にアタックするというシステムが注目されている。著者の場合は基本的に単独行だから、アルパインスタイルの思想にならざるを得ない。ある意味、究極の断捨離なのかもしれない。

[Apr 23,2012]


(この本の序文を書いている)山野井さんは確かにすごいけど、この人も相当すごいです。いまの若い人では、「プロアドベンチャーレーサー」陽希くんもいるし、登山家は多士済済ですね。