317 森博嗣「科学的とはどういうことか」 [Sep 20, 2014]

2011年6月刊行の幻冬舎新書。したがって、昨今の理研騒ぎが起こるかなり前なのだが、こんなことが書かれていてびっくりした。

科学的とはどういう意味か。まず、科学というのは「方法」である。そして、その方法とは、「他者によって再現できる」ことを条件として、組み上げていくシステムのことだ。他者に再現してもらうためには、数を用いた精確なコミュニケーションが重要となる。また、再現の一つの方法として実験がある。ただ、数や実験があるから科学というわけではない。

個人でなく、みんなで築き上げていく、その方法こそが科学そのものといって良い。(本書107p)

また、こういう記述もある。

自分の考えたものだから、利益や賞賛を独占したい、というふうには科学者は考えない。「できるだけ、大勢に使ってもらいたい」「みんなの役に立てば、それが嬉しい」というような公開性、共有性に科学の神髄がある。社会の利益を常に優先することが科学の基本姿勢なのだ。

だから、科学的であるためには、常にそれを念頭に置かなくてはならない。意識していないと、他人にアイデアを盗まれないように秘密にし、自分だけがそれを扱えるように囲ってしまう。いわゆる「秘伝」というやつだ。(同138~139p)

まるで今日あることを予期していたような書きっぷりで、「だから言ったでしょ」と本人が言っていそうなところである。そして、ここに書かれていることは私自身もほぼ同意見であり、著者の先見性を認めるにやぶさかではないのだが、では「科学的」がそういう意味で使われているのかというと、やや違和感を覚えるのである。

科学が方法論であり、「間違いなく明らかであること」を基礎として積み上げていくシステムであることに異論はない。しかしそれを、共有性や公共の利益に結び付ける考え方は必ずしも共通認識とはなっていないように思う。それらはあくまで、「科学者に求められる資質」「科学のあるべき姿」であって、著者の個人的見解といえるのかもしれない。

私が思うに「科学的」とはもっと価値中立的なもので、誰か(あるいはみんな)の利益になるものでも、何らかの目的に沿って使用されるものでもない。世界の成り立ちについて、つたない人間の理性を基礎として積み上げるところの、はかない努力のようなものである。

ガリレオ・ガリレイの有名な言葉「それでも地球は回っている」がそれを端的に表現している。補足すると「(誰かにとって不利益になろうが、気に入らなかろうが)それでも、(私の理解する事実を積み上げる限り)地球は回っている(と考えざるを得ないし、おそらくそれが真実であろう)」ということだと思う。それが科学的という意味である。

科学的であることは、ときに世間の価値観と対立することがあるし、権力ににらまれることもある。ガリレオも教会に有罪判決を受け、キリスト教信者としての地位をはく奪された(中世においては「信者でない=市民でない」に近い)。そういう不利益を受けたとしても、物理原則や天体観測から得られた事実を説明しようとすると、地球の方が動いていると言わなければならないのである。

松戸出身のリケジョの場合、そういう崇高な理想に基づいたというよりも、世間の賞賛や政府研究機関のリーダーという社会的地位に目がくらんだということになりそうな気配である。言ってみれば科学的知見をカネに代えようとしたということなのだが、仮にそういうことであったとしても、科学そのものの罪ではない。そういうことをした人間が非難されるだけである。

科学そのものは価値中立的であるので、誰がどういう意図で使うかに関わらない。共有性とか公共の利益といったとたんに、そこには価値判断が入り込む余地がある。科学は1を積み上げて2をつくることができるが、1と2のどちらが偉いとか好ましいということには関知しない。それは科学に聞いても答えは出てこない。科学ではなく経済の問題だからである。

[Sep 20, 2014]