361 山形浩生「たかがバロウズ本」 [Aug 22, 2013]

この本は面白かった。どのくらい面白かったかというと、電車待ちの時間で読んでいたら夢中になってしまい、気が付いたら乗るはずの電車が行ってしまっていたくらいである。

とはいえ、実を言うと私はバロウズなんて小説家は知らなかったのである。ヒッピーにもアート・コバーンにも、ドラッグにもアメリカ文学にもほとんど興味がないし、この作者だからユニバックとかローレルバンクマシンとか、そういった話だろうと思っていた。本を読んでやっと、椎名林檎の「勝訴ストリップ」ってバロウズの真似だったんだって気が付いたくらいである。

それでは何が面白かったのかというと、この作者の思考経路や論理の展開の仕方である。もともと理系の出身で、MITにも行って、経済学も勉強していて、野村総研でコンサルタントをしている人である。私が知っている中で最も頭が良かった高橋さんという人も理系から経済だったので、やや思考経路が似ているかもしれない(ちなみに、私が知っている中で最も出世した人)。

例えばどんなところかというと、作者は本を読むためのコストとメリットを、経済学的に考察するのである。その分析によると、仮に本の面白さ(メリット)を同じに評価したとしても、労働単価の高い人や読むのが遅い人はコストがメリットを上回ってしまい、その本を読み続けるのは経済的に合わないということになるそうである。

だから、バロウズを読んで面白がるのは暇人や時給の安い人になる(あと、本を読むのがやたらと速い人)。ちなみに、昨今の活字離れもこうした仮説を裏付ける・・・のだそうだ。そう言われるとそうかもしれない。

作者の分析によれば、バロウズは麻薬中毒者でホモセクシュアルで、奥さんは撃ち殺すし子供はほったらかしだし、制約を嫌い自由を求めた作家と評価されているけれども、そう評価する人達は実はバロウズの作品を読んでいない。実際読んでみるとその自由というのは時代背景に依存するところが大きい上、最終的にバロウズ自身、小説世界の概念上でも実生活の上でも、自由にはなったとは到底言えない。

それはバロウズのやり方(小説を作る上の技法や題材の取り方、実際の人生を含め)が悪かったというよりも、そもそもそんなやり方で自由なんてものは手に入るものではない、ということと作者は主張する。

バロウズの用いるカットアップの技法にもそれは現れていて、文脈から切り離して言語(単語)を組み合わせることにより、新たな現実(意味)を作り出そうとしたのだけれども、結局のところ単語の持つ意味はそれぞれの人が持つ記憶に依存することが避けられないため、過去(記憶)を解体するのではなくむしろ強化してしまったのである。

考えてみればそれは当り前で、例えばメロディーの断片を聴いて昔の曲を思い出してしまうようなものだ。もしかしたら、全曲聴いたら違うのかもしれないが、断片だけでは分からない。それでも、聴いた我々は、その曲が流れていた時代のことをなつかしく思い出してしまうのだ。

あわてて「裸のランチ」を借りてみたけれども、まあ、なかなか苦戦する小説である(だって、きれいじゃないし)。私自身、小説の読み方には個人個人でいろいろあっていいと思うが、意味なしフレーズを連発して意味はそれぞれ感じ取ってくれと言われるのはちょっと辛い。

長くなりましたので、続きはまた明日。

実はこの作者の本を読もうと思ったのは、最近ごひいきの内田樹が薦めていたためである。特に以下の「存在しない者(死者)との交流」という意味でのインターネットの存在意義考察については、内田氏は高く評価している。

———————<引用はじめ>———————-

考えてみてほしい。死んだ人のホームページはどう処理されるのだろうか。あるいは、これまで精力的にウェッブページをつくり、更新を行ってきた知人がいるとする。その人が死んでからそのページを見たとき、あなたは何を感じるだろうか。そこには単純には割り切れない感情のわだかまりが必ずあるはずだ。

そうしたページ群は、しばらくは、あまり気にとめられることもなく放置されるだろう。一部は公共的なサーバー上に置かれていて、そのままずっと残り続ける。有料の商業サーバー上のものはどうだろうか。最初のうちは、あっさり消されてしまうだろう。が、どこかでそれを惜しむような何らかの動きがあらわれてくるはずだ。それはたとえば、この世界での有名人が逝去した場合などに生じるだろう。

消すに消せないページが増え、その一方でそれらのページは、それ自体は古びることもなく生前と同じ姿を永遠に保ち続けるものの、そこへのリンクは失われ、そこからのリンク先もだんだん消え、やがて無縁仏ならぬ無縁ページと化す。われわれは、たまにそれを悼むようにして訪れることとなろう。

本人の死後も、公の場所で残り続け、個人の情報を発信し続けるホームページ。それはいわば墓のような存在である。

http://cruel.org/takarajima/fear.html

———————-<引用終わり>————————

私がこの部分を読んですぐに思い浮かんだイメージは、萩尾望都の「百億の昼と千億の夜」(原作・光瀬龍)で出てきた、どこかの未来都市であった。その都市の住民はデータに還元されていて、リクエストがあれば呼び出すことができるが、それ以外の時間は都市と一体化していた。

阿修羅王とシッタータ(この物語の主人公だ)は、「このあり方はまともじゃない」という認識で、結局この都市を破壊してしまったのではなかっただろうか。一方で、山形氏や内田氏は、このあり方は必然的なものと考えているようだ。こうした観点から、バロウズを考えてみるのも興味深い。

ちなみに、山形氏のインタビュー記事をみると、光瀬龍のこの作品をバイブルのようにして読んだとコメントしている。おお、私の受けたイメージはまんざら突飛なものじゃなかったんだ。

現時点の私の感想は、小説にせよ演劇、映画にせよ、音楽、芸能まで含めて、直接対面して伝えられる範囲内で伝えられないものは、高度情報化があろうが、メディアの多様化があろうが、長く続くことはないのではないかということである。そのようにいろいろなことを考えさせてくれたことで、このバロウズ本は私にとってとても有意義であった。

蛇足かもしれないが、萩尾望都の「銀の三角」もカットアップ的な情景描写と記憶(現実)の再構成をテーマとした優れた作品である。もしかすると、バロウズにインスパイアされたのだろうか。読んで面白いのは間違いなく萩尾望都の方だけれども。


FAX一体型プリンタを買ったので、やっとスキャンできるようになりました。(2013年8月当時)

[Aug 22, 2013]