364 米原万里「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」 [Mar 30,2011]

ノンフィクションという書き物は、究極的には書き手がどのようなユニークな経験をしてきたかに負うところが大きいと思っている。その意味で、共産党幹部を父に、貴族院議員を祖父に持ち、小中学生時代を共産圏の学校で暮らした作者は、かなりのアドバンテージを持っているといえる。

かつて、ソ連をはじめとする社会主義(共産主義)の国々があって、市場経済と計画経済のどちらが優れているかという時代があった。何しろ私の大学時代には、近代経済学(ケインズとか)と同じコマ数でマルクス経済学を教える講座があった。その大御所は大内教授といって、そのお父様も大変有名なマルクス研究者だった。マルクスなのになぜ世襲なんだろうと思ったものである。

東西ドイツが統一されてから早いもので20年が経過し、社会主義とか計画経済、コルホーズだのソフホーズだのは過去の記憶の中だけに存在するものとなった。いま世界で共産主義とされている国は、建て前だけで本音は市場経済であるか、建て前だけで本音は独裁制であるかどちらかであって、いずれにせよ計画経済を推し進めている訳ではない。

作者は東京オリンピックが開催された年(1964年)くらいまで、日本共産党の幹部であった父の海外赴任により、チェコ・プラハのソビエト学校で小・中学校時代を過ごした。その学校には、世界各地の共産党幹部の子弟が集まっており、多国籍の児童生徒がロシア語を共通語として勉学に励んでいたのである。

その後、作者が日本に帰国し、学校自体も1984年のプラハの春(ソ連軍によるチェコへの軍事介入)により移転を余儀なくされる。そしてベルリンの壁崩壊を契機として東西ドイツの統一、ソビエト連邦の崩壊、東欧諸国の独裁から内戦と進むことになるのだが、この作品は30年以上たった後にソビエト学校時代の3人の同級生の消息を追った記録である。

表題作の嘘つきアーニャはその二人目。ルーマニアの共産党幹部の娘で、本人いわく「両親は労働者階級のために、日夜ブルジョア階級と戦っている」のだが、豪邸に住み運転手お手伝いさんがいるような生活ぶりで、とても平等な社会を目指しているようには見えない。そして、チャウシェスク事件を聞いて無事でいられたのだろうかという作者の心配をよそに、英国人と結婚しロンドンで暮らしているのであった。

あとの二作、ギリシャ人のリッツァを探す旅はほとんど手がかりのないところから、プラハのギリシャ人コロニー、さらに・・・・と続く展開がスリリング。またボスニア人(ユーゴスラビア人)のヤースナを探す旅では、社会主義の理想とは何だったのかを考えさせられる。個人的には、最後のヤースナの話が一番好きである。

しばらく前まで、どんな社会主義国より平等な社会を作り上げたのが日本ではないかと言われていた。小泉改革以降、「勝ち組」「負け組」などという言葉が流行し、グローバリゼーション(世界標準化)という名の格差社会が当り前となりつつある。この作品を読んで、理想とすべき社会はどのようなものなのか、改めて考えさせられた。

なお、この作者は1950年生まれで私とそれほど違わないのに、2006年に亡くなっている。「トルコ蜜飴」について書いた面白い作品があったはずだが、すぐに題名が出てこない。「旅行者の朝食」だったかもしれない。「旅行者の朝食」とは、そういうブランドのすごくまずい旧ソ連製の缶詰のことである。

[Mar 30,2011]