058 新聞もTVもニュースはストレスの元になるだけ [Nov 29, 2017]

今月初旬のブログで新聞をとるのをやめたことを書いたのだけれど、これには予想しなかった意外な効果があった。余計なストレスが少なくなったことである。費用対効果とか節約志向が新聞をやめた主たる動機なのだけれど、実際やめてみると、新聞から入ってくる情報は99%雑音でありストレス源であったことがたいへんよく分かった。ありがたいことである。

もともとTVは見たい番組を除いてあまり見ないし、通勤がないのでつり革広告を見ることもない。新聞も来ないので外から情報はほとんど入って来ない。どうしても知りたい情報はネットで調べるけれど、社会とか芸能には興味がないし、私の知りたいスポーツ情報は日本のニュースではやらない。

結局、朝のテレビ体操をして天気予報を見た後は、BSにチャンネルを替えて「里山」と「もういちど日本」を見ている。それから奥さんが「花子とアン」を見ているが、私は自分の部屋でブログの記事を書いたり次の山歩きの計画を立てたりしているのである。他にはボクシングやNFLのVTRを見るくらいで、漫然とTVをつけていることはない。

チャンネルを替える時に目に入ってくる見出しによれば、大相撲の日馬富士騒動だのモリだかカケの土地取引だの、韓国のどこかでやるらしい冬のオリンピックが話題になっているらしいが、そんなものには全く興味がないし、聞きたくもない。そういう情報を遮断することがこんなにストレスを減らすことになるとは思わなかった。

実はそういうことは、今回のお遍路歩きで最後のお寺さんだった石手寺で感じていたことに近い。この石手寺、境内には文字情報満載の印刷物が至るところに貼り出されている。いわく、「仏陀」「悟り」「即身成仏」「平和祈願」「少数民族」・・・。頭がくらくらした。はるか昔、大学の構内に所狭しと並べられていた立看板を思い出した。

これまで歩いた他の札所はほとんどすべて、字が書いてあるのは由緒書きとか文化財の説明くらいで、ビラの類などは貼られていない。境内に出店があるだけで、相当の違和感があるくらいである。それはおそらく、仏像やそれを納める建築物、境内のたたずまいなどから発せられる微細な信号を、感覚を最大限に鋭敏にして捉えなければならないからだと思う。

もちろん、そうしたお寺さんにあふれている梵字も経文も文字情報なのだが、ビラのように直接的に脳に入ってくるものではない。梵字や経文はわれわれが解読するのを静かに待っているだけだが、ビラの類は読みたくなくても向こうから情報を押し売りしてくるのである。

例えてみれば、静かにして集中しなければ聞こえない虫の声を聞こうと耳をすましていたら、大音量のスピーカーで選挙演説をやられたようなものである。選挙に関心のある人はそれでいいかもしれないが、お寺さんというのは本来、目に見えないものを見たり、聞こえないものを聞いたりする場所のはずなのだ。

それと同じことが毎日の生活にもあるように思う。生きていれば、見たくないものが目に入り聞きたくないものが耳に入って来るのをすべて遮断することはできない。それはそうなのだが、あえてそういうものに近づかなくても、生きていくことはできるのではないだろうか。

新聞とかTVのニュースはもはやそうしたジャンクの域に達しているように思う。それは、電車のつり革広告やお店のPOPと同じで、誰かが見せたいと思っている情報であって私が得たい情報ではない。見なければ見ないだけストレスが減り精神の平衡が保たれるならば、そんなものは見ないに越したことはないのである。

[Nov 29, 2017]

そのお寺さんには、至るところにこういうものが掲示されていました。まあ、お寺とはいえ私有地でしょうから、持ち主がそうしたいのなら仕方がないんでしょう。