168 種田山頭火「行乞記・一草庵日記」 [Apr 27, 2018]

この間書いたことだが、小中学校の国語の教科書すべてに作品が載っているのは、明治以降の俳句では山頭火だけだそうである。日本全国で芭蕉の次に句碑が多く立っているのも山頭火であると思われる。あと100年経ったら、俳句で名前が残っているのは芭蕉、一茶と山頭火だけになるかもしれない。

今回の区切り打ちで松山の一草庵に行ったこともあり、改めて山頭火の作品を読んだ。「行乞記」は昭和5年から托鉢しつつ九州地方を歩いた時の記録で、「一草庵日記」は死の直前まで一草庵の日々の暮らしについて書いた作品である。

「行乞記」を読んで最初に気付くのは、値段の記載がたいへん多いことである。泊まった宿の値段を毎日記録しているだけでなく、酒や食べ物の値段やら何やら、いろいろ書いてある。山頭火というと生活能力がなく、借金まみれの酒飲みというイメージがあるが、カネ勘定にはなかなか細かいのであった。

ふと思ったのは、この時代の宿代である。記事をみると、食事の内容はともかくとして1泊2食で30~40銭くらいが多い。鰯が5銭、大盛りうどんがたったの5銭などと書いてある。現代の値段に置き換えると、「たったの500円」とはならないので、50円とみるのが正しいだろう。鰯だって1尾で買えばそのくらいである。すると、換算レートは現代の1/1000になる。

ところが、「日雇いの日給が男で80銭、女で50銭にしかならない」とも書いてある。1000倍にすると800円と500円、これでは途上国並みの人件費である。当時の日本は国際連盟の常任理事国で途上国とはいえないが、国民の大半が農民で、米・野菜が自給できたことを考えるとそんなものかもしれない。

手許にある資料で調べてみると、昭和10年頃の課税最低年収が1,200円、大卒新人の年収が約1,800円ということだから、1000倍するとそれぞれ120万円、180万円となり、現在の水準に近い数字である。当時、銭湯が2~3銭というから今だと20~30円、米1升(1.8㍑≒1.5kg)18銭は180円。これでは安すぎてお百姓はやっていけないと書いてあるが、そのとおりだろう。

いろいろ勘案すると、1泊2食300~400円で泊まれる安い宿があったと考えるべきなのかもしれない。今ではとてもこんな値段ではやっていけないが、よく探すと現在でも素泊まり1泊1000円くらいの宿がない訳ではないし、当時の木賃宿は本当のボロ家である。建物にカネをかけず、もちろん冷房もネットもなく、風呂すらないところも珍しくなかった(銭湯に行く)。

乞食坊主の山頭火ですら、便所がきたないとか布団が臭くて寝られないと書いているくらいだからその程度の宿で、それでも相部屋で1人米2升の料金が取れれば、宿の経営者が食べていくには十分だったのかもしれない。つまり、それだけ安く提供できたのではなく、それだけ水準の低い宿だったということである。

昨今、ネオリベとかいう人達が、わが国に国際競争力がないのは人件費が高すぎるからだといって、規制緩和と人件費引き下げを図っているが(何が「働き方改革」なんだか)、行き着く先はここである。

カネのない奴は冷暖房なし、不潔なのも我慢しろ、途上国に負けないよう製造業もサービス業も安く提供しろなんてやっていたら、最後はこうなる。生活水準も衛生水準も文化水準も上がっているのだから、人件費・物件費が上がるのは当り前だ。子供の頃に見た冷暖房なしの電車や宿、不潔な道路や駅がまた戻ってくるなら、生きていくのもしんどそうだ。

話は戻って、山頭火の時代はまさに昭和恐慌さなかで、第一次大戦の好景気から一転して不景気となり、物価水準はピーク時の半分近くに落ち込むデフレの時代だった。

国民の大半が農業従事者で、米も野菜も値下がりして農村は大変厳しい状況となった。行乞記にも「二本一銭の食べきれない大根である」の句があるが、二本100円ならともかく、二本10円ではとてもやっていけないということがよく分かる。

江戸時代であれば、米や野菜を自給できれば食べていくことはできるのだが、昭和初期になると現金がないと暮らしていけない。税金は全員が納めていた訳ではないだろうが、電気は通じていたので電気代が必要だし、移動すればバス代汽車代はいる。酒や肉・魚はもちろん店で買わなければならない(当時の資料に、農村の現金支出のうち10~20%は酒代が占めていたという統計がある)。

さて、先週は昭和戦前期と現代の物価水準の比較について考えていたら終わってしまったが、日雇いの1日の労賃が80銭にしかならない当時、山頭火が1日3~4時間の行乞で「泊まって飲む」だけの収入を得ていたのは大したものである。

宿泊費が平均35銭、酒1合が10銭、風呂は2~3銭、〆て50銭ほどは托鉢していたことになる。半分くらいは現金、残りの半分は米でいただいていたようだから、おそらく宿に米で支払っていたのだろう(石坂浩二の金田一シリーズにそんな場面がある)。

それにしても、日雇いの半分以上の収入である。山頭火自身は「袈裟の功徳と行乞の技巧」と自慢しているのだが、施す方にしても、坊さんにお経を上げてもらうことにそれだけ効用を認めていたということである。お寺や神社にお願いするお賽銭の単価は現在100円位だが、占い師や除霊の壷に財産はたく人はいくらでもいるのだから、今も昔もその意味ではあまり変わらない。

私が子供の頃(昭和30年代)、上野にはまだ傷痍軍人の人達が物乞いをしていた。数は少ないけれどアルマイトの皿を前に置いた乞食の姿も見たことがある。いまや、外国にでも行かない限りそうした姿を見ることはない。鈴を鳴らして托鉢する人は今でもいるが、あれはどちらかというと募金に近い性格のものだろう(実際は自分の生活費なのかもしれないが)。

そもそも、托鉢というのは自分が飲み食いする目的でするのではなく、寺を作るとか修繕するとか、少なくとも社会貢献するために浄財を役立てようとするものである。「行乞記」の中で有名な作品は「酔うてこほろぎと寝てゐたよ」だが、宿で同室のお遍路と飲みに出て(原資は浄財)そのまま野宿してしまったという時の句である。何のための行乞ですかという話である。

山頭火の俳句の師匠である井泉水は「よい句を作ることは重要だが、よく生きることはもっと重要である」と言った。井泉水はそのとおり大学教授になり芸術院会員となったが、弟子である山頭火はこの体たらくである。もう一人の有名な弟子・尾崎放哉も小豆島の堂守になり「咳をしても一人」で生涯を終えた。ちなみに、井泉水と放哉は東大卒、山頭火は早稲田中退である。

さて、今回の区切り打ちで訪れた松山・一草庵での生活を記録したのが「一草庵日記」である。図書館にあった作家の自伝シリーズでは昭和15年10月6日の「とんぼが、はかなく飛んできて身のまわりを飛びまわる。とべる間はとべ、やがて、とべなくなるだろう」 という印象的な文章で最後になっているが、実はこの日記、倒れる前日の10月8日まで記事がある。最後の文は、

「更けて書かうとするに今日殊に手がふるへる」

である。このまま自由律俳句になっているところがすごいのだが、なぜこれを最後にしなかったのだろう。

それを書いた翌日の10月9日、まだ手はふるえていたのかもしれないが護国神社の祭礼で後援者に一杯ご馳走になった(断る訳がない)。酔いつぶれた後、そのまま眠り続けて11日未明に脳溢血で死去した。享年58というから現在の私より3つも若いが、長年の不摂生で歯は1本も残っていなかったという。

現代の作家のように(あるいは酒場放浪記のように)、日記を書いて一句読めば原稿料(制作料)になるから書いているのではない。当時、句集を作れば読んでくれる人はいたけれどもそれを現金収入にする術はなく、揮毫も多く残っているが誰も買ってくれなかった。日中戦争さなかの緊迫した時代で、書だの文芸だのといったことに多くの人は関心を持たなかったのである。

(そういえば「海辺のカミュ」に、山頭火は偉そうなことばかり言っている乞食坊主で、泊めたお礼にいろいろ残していったがすぐに処分してしまったという話があった)

山頭火の残した作品は膨大でおそらく数万にのぼるとみられるが、よく読むと(読まなくても)ほとんどの作品は愚にも付かないもので、それほどしみじみと味わいのあるものではない。よく知られたものは40とか50くらいのもので、まさに「せんみつ」「数打ちゃ当たる」方式である。

しかし、数打つことが大切なこともある。 「歩かない日はさみしい 飲まない日はさみしい 作らない日はさみしい」と20年以上歩いて飲んで句を作っていれば、中にはすばらしい作品だってある。数打っても当たらないことが多いかもしれないが、よほどの天才でないと打たなければ当たることもないのである。

 

山頭火についてもう一つ。無一文の乞食坊主にもかかわらず、なぜ多くの人達が酒代を出し、金を貸してやり、住むところまで世話するなど面倒をみてきたかということである。

何しろ、「行乞記」の中でも、普段は木賃宿の出来合いの飯とか安い焼酎を飲んでいるにもかかわらず、句会の集まりがあると、うまい酒を飲みフグはおいしいなどと書いている。恰好悪いから「行乞記」に書いていないが、汽車賃も出してもらいその上に小遣いまで貰っているのである。

その大きな要因として、山頭火は井泉水門下で師範代のような位置にあったことがあげられる。井泉水の主催する句誌「層雲」では選者であったし、句会では評者・添削者をしていた。今でいうところの夏井いつきさんであろうか。句の仲間で撮った集合写真がいくつか残っているが、山頭火は前列中央とか右端とか、目立つ場所で写っている。

(余談だが、夏井さんは愛媛県愛南町出身。四国遍路の記事でちょうど今書いているあたりである。1957年生まれというから私と同い年だ。)

考えてみると、ここ半世紀に多くの分野で世の価値観が変わってきているが、そのうちのひとつが、さまざまな才能・スキルに対するリスペクトがなくなってきているということである。私の子供の頃を振り返ると、芸事・稽古事の上手に対して一目置くという心情・姿勢が今よりずっとあった。段・級といった格付けにもそれなりに権威があった。

そうした才能・スキルに対するリスペクトがなくなった理由の一つとして、「権威はカネで買える」「評価はカネで買える」とみんなが思うようになったことがあげられる。時間をかけ努力し、才能を磨きスキルを身に付けて有段者・資格者になったところで、カネさえ出せば労せずして同じものが手に入るのである。

もちろん、それらはもちろん同じものではないのだが、他人から見れば区別がつかない(ように見える)。そして、カネでそれを手に入れる人達は、往々にして才能・スキルで手に入れた人達と同等にふるまったり、見下そうとする。そこに、才能・スキルに対するリスペクトはない。なんとかして自分が上であることを示そうとする猿並みのマウンティング精神である。

そうやって、芸事・稽古事に精進しようとするモチベーションはなくなり、多くの人がカネだけを目標にふるまうようになった。いまや、才能ある人はどうやってそれをカネに代えるか、カネのある人は才能ある人をいかにスポイルするかだけを考えているようにみえる。それは、芸事・稽古事の将来を危うくしている。

その発端が何だったのかを考えると、山頭火が句会や仲間の集まりで上席を占めたりタダ酒を飲んだり、あげくは借金とか生活の面倒まで見てもらったことに思い至るのである。評価される人が評価する人に敬意をもって対するのは人として当り前ではあるが、それがカネとか実利に結びつくことは堕落への第一歩に他ならないと思う。

とはいえ、評価者・査定者としての側面を除いて考えても、山頭火の句はすばらしい。

私の好きな句に「雨ふるふるさとははだしであるく」がある。「雨ふる」の「ふる」と「ふるさと」の「ふる」、さらに「ふるさとは」の「は」と、次の「はだし」の「は」、韻を踏むようなリズムがすばらしい。これをローマ字で書いたとしたら、意味は同じとしても句のよさは半分以上伝わらない。

また、「松はみな枝垂れて南無観世音」。これは南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でも、南無観自在でもダメで、南無観世音でなくてはならない。言葉の意味ではなく日本語のリズムがそれを求めるのである。そして、山へ空へ声を上げて唱えるのは「摩訶般若波羅蜜多心経」でなくてはならないのである。

こうした才能というのは時間と場所を越えて残るもので、いまもその価値は高い。そして、そうした才能は、なぜか明治から昭和戦前期に多く登場している気がしてならない。植芝盛平は本当に指先で大男を投げ飛ばしたから多くの門人が集まったのだろうし、天理教や大本教の教祖は本当に神通力があったから何十万人もの信者が集まったのだと思う。

その背景として、この時代には多くの人達が自分の目で見、耳で聞き、頭で考えて判断したのだと思う。他人がいいと言っているとか、TVでやっているとかの理由でない。そして、いいと思ったものに自分のできる範囲で援助した。家を手配できる人は家を世話し、カネを提供できる人は資金を援助した。時間・労力だけを提供できる人はそれを提供した。

そうやって、各々ができる範囲で可能な手助けをするというのが物事の本来のあり方であって、何でもかんでもカネに換算することをしなければ、今日のような才能・スキルに対するリスペクトの低下は起こらなかったと思う。カネに換算するのは便利で効率的だが、それはあくまで便宜的なものであって、大切なのはそのカネで何をするかということである。

才能・スキルをリスペクトし、段位・級位という形でレーティングするのは、参加する人達がその才能・スキルの習得に向けて努力し、結果として価値あるものを次の世代に残していくためである。それは、芸事・稽古事だけでなく人間社会すべてに通じることで、カネをたくさん集めて組織を残すことだけが目的ではない。

誰も自分の目や耳や頭を使わず、すべてカネの有無に換算している間に、才能・スキルに対するリスペクトはなくなり、芸事・稽古事に限らず新たな価値の創造はほとんどみられなくなってしまった。だとしたら、どうすれば本来あるべき姿に戻ることができるのか、この問いに対する答えはなかなか見つからない。

[Apr 27, 2018]


こうやっていると真面目なようですが、実は酒癖が悪く生活能力がなく、困った「ほいと(乞食)坊主」だったようです。