471 番外霊場文殊院 [Oct 21, 2017]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

 

2017年10月21日の朝になった。夜中まで眠れなかったが、5時に目が覚めた。窓の外はすでに雨が本降りである。

あくる日のJAL羽田便を予約してしまったので、この日が区切り打ち最後の歩きである。進んだとしても松山市内までなので、全く急ぐ必要はない。食事の後歯磨きをし身支度も終わって、そろそろ団体客が食べ終わったと思われる時刻に食堂に行くと、まだ連中は食事前でロビーに屯ろしていた。

出掛けに、宿の奥様が見送りに出て来られる。「民宿・旅館」と名乗っている宿だが鉄筋の大きな建物で、民宿という規模ではないのだけれど、きっとこの奥様はそれこそ坂本屋のような小さな規模の頃からやっていらしただろう。歩き遍路にはたいへんありがたいロケーションの宿であり、長く続いてほしいと思う。

午前8時過ぎに出発、雨は相当に強い。上下レインウェア、リュックにはカバーで傘を差した完全装備である。実はこの時、雨は激しけれども大した距離ではないので、それほど苦労しないだろうと思っていた。全く見通しの甘いことであった。

その見通しは、歩き出してすぐに怪しくなっていた。なにしろ、傘を差していても横から雨が吹き込んでくるほど風が強く、傘が裏返らないように注意しながら歩くだけで、景色どころか正しい順路を歩いているのかどうかもおぼつかないのである。

前の日にお参りした八坂寺の分岐を過ぎると片側1車線の太い道にぶつかるが、遍路地図によれば進むのは太い道ではなく真っすぐ伸びる細い道である。こういう場合は太い道が安心なのだが、方向が90度違うので仕方なく直進する。

細い道はずっと住宅街の中を進むけれども、お寺らしき建物は見当たらない。こういう天気で歩いていると実際の距離より長く感じられて、通り過ぎてしまったかと思うくらいである。

ようやく左手にお寺の建物が見えてきた。長珍屋さんから文殊院まで2kmしかないのだけれど、40分近くかかって、8時50分文殊院に到着。

このお寺さんは浄瑠璃寺側から来るとなかなか見えないのだが、逆側から来ると道路際にお大師様の大きな石像があるので分かりやすいし通り過ぎることもない。

それにしても雨が激しい。屋根があって雨が当たらない鐘楼のところにリュックを置かせていただく。1つ目のお寺からこんなに苦労するのでは、今日はたいへんつらいことになりそうだ。


台風接近でいよいよ雨が強まる中、文殊院への道を進む。なかなかお寺が見えてこない。


順打ちだといきなり境内の前に出る。逆打ちの場合はお大師様の大きな石像が目印となる。


鐘楼の屋根の下にリュックを置かせていただきお参りする。境内にはいろいろな像があったのですが、ゆっくり見る余裕がなかったのは残念。

 

文殊院徳盛寺(もんじゅいん・とくせいじ)、真念「道指南」に「恵原村大師堂あり この村の南に右衛門三郎の子八人の塚あり」と書かれているのがこの徳盛寺である。

敷地はそれほど大きくないが、本堂・大師堂・鐘楼・庫裏が境内を囲むように建っており、大きなお大師様の石像だけでなく、不動明王の銅像、七福神、江戸時代からあると思われるさまざまの石仏が境内のあちこちに立っている。

お参りをした後、庫裏の納経所にお伺いしご朱印をいただく。こちらは別格二十霊場のうち十四ヶ橋永徳寺の次の九番にあたる。大洲から松山だから、かなり距離が開いているが、それとともに有名なのは、このお寺が例のお遍路元祖である右衛門三郎の屋敷跡に建てられたという由来があるからである。

そのことは、真念「道指南」も書いているので江戸時代にはすでに流布していたことは確かである。札所の多くが弘法大師との関わりを持つとされるが、その多くは出所不明の説である。その中で、文殊院の記載はたいへん具体的であり、少なくとも古くからそう伝えられていることは間違いない。

ご朱印をいただく時に、右衛門三郎ゆかりの塚はどこでしょうか、と聞いてみると、お寺の若住職が、親切に教えてくれた。

「前の通りをまっすぐ進んで、電信柱を5つくらい過ぎたところに、古い遍路石があります。そこを左に折れて100mほど進むと、最初の塚があります。その向かいが二つ目。あとは家と工場の間を歩いて行くと、分かりにくいものもありますが右衛門三郎の子供の墓といわれる8つの塚が続いています。ぜひお参りしてください」

案内されたとおりに進むと、すぐに最初の塚が見つかった。「文殊院八塚群集古墳群」と石柱が立っている。古墳であれば、弘法大師の時代より少なくとも400~500年古く、お大師様に狼藉をはたらいた右衛門三郎の子供の墓というのは考えられないが、そこはそれ、信仰の問題だからあまり深く追及すべきではないだろう。

一つ一つの塚はそれほど大きいものではないが、それぞれに祠が建てられ、お地蔵さんがお守りしている。松山市内に入ってからかなり進んだので、再開発されておかしくない場所である。

天皇陵や皇室ゆかりとされる古墳にも、すぐそばまで住宅となっているところは少なくない。この古墳群は再開発にも巻き込まれず今日に至ったが、大師伝説がなかったら、皇室由来でない古墳群がこうして長く保存されただろうか。

右衛門三郎は四国のかつての支配者である越智氏の末裔とされている。四国札所にも三嶋神社、仁井田五社など越智氏ゆかりの霊場が含まれている。あるいは右衛門三郎とは、表向きにはできない四国草創期の支配者を顕彰する伝説であったのかもしれない。

そうしている間にも雨はますます激しくなり、持っている傘も飛ばされそうな勢いである。台風が接近しているのは間違いなさそうだ。これから松山市の市街地なので峠の登山道を歩く訳ではないが、それにしても不安なことであった。

[ 行 程 ]
長珍屋 8:10 →
[1.6km]8:50 文殊院 9:10 →

[Sep 15, 2018]


文殊院で教えられたとおり、八塚古墳群へはへんろ石が目印となる。


お大師様に狼藉を働き頓死した右衛門三郎八人の子の墓とされる八塚古墳群の最初の塚。古墳だから弘法大師よりかなり古いのだが。


最初の塚で右に折れ、バス通りと平行に進むと八つの塚が次々と現れる。なぜか遍路地図には記載がない。雨はいよいよ激しくなる。