169 谷崎潤一郎「細雪」 [Sep 19, 2018]

関空が大きな被害を受けた台風の日、関東はそれほどの風雨ではなかったものの一日外に出ないで本を読んでいた。最近は村上春樹以外ほとんど食指をそそらないので、これまで読んだことのない谷崎潤一郎を読んでみた。

この作品は日本文学の最高傑作のひとつと呼ばれ、また昭和天皇が全巻読破したという興味深い記事もwikiに書かれていたので楽しみにしていたのだが、やっばり私には合わなかった。どうしてなのか。この作品の登場人物はほぼ全員、自らのミッションにまじめに向き合っていないからだろうと思う。

主人公の四姉妹は着飾って歌舞伎に行ったり料亭に行ったり花見をしたりするのにたいへんご執心だが、それ以外のことについてはすべて人任せである。男も常に防波堤を張って逃げの姿勢が明確である。「刈り揃えた芝の丈を確認」したり、「真実を話すとは限らないが正直であろう」とする人間はどこにも出てこない。

村上春樹の小説が何度読み返してもあきないのは、日々の食事や生活のさまざま、与えられた仕事に対するストイックな姿勢を細々と延べることにより、規則正しい生活をまじめに送ることが落とし穴に嵌らないために大切であるというメッセージが伝わってくるからである。

一方の「細雪」は、四姉妹のうちの3人が、脚気予防のためビタミンBの注射を自ら打つというところから始まる。あるいは、それが戦前の上流家庭のデフォルトだったのかもしれないが、私は麻雀放浪記で出目徳がヒロポン注射をしているのとダブってしまった。

そして、物語は三女の見合いの話が延々と続き、なんとそれが最初から最後まで主たるテーマなのである。イベント的に長女の婿の東京転勤の話や神戸大水害の話、四女が引き起こす男性問題などがあるのだが、そのすべてが結局三女の縁談に関係してくるのである。

あるいは昔の読者は、正体不明の羊を追って札幌のホテルで羊博士と邂逅したり、日本画家がオペラの登場人物に何を仮託したかの謎と同じ様な関心をもって、上流階級の見合い問題を読んだのだろうか。その方が謎だ。

時代が古いからとはいえない。この作品が執筆されたのは第二次世界大戦中、発表されたのは戦後まもなくで、時期的にはチャンドラーの一連の作品やサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と同じである。これじゃ日本は負けて仕方がないと思ってしまう。

古典芸能を一部の階層がカネとヒマに任せて楽しむのが文化なのだろうか。私はそうは思わない。楽屋に入って芸人と歓談する人達だけが文化の担い手だというのなら、そんな文化はなくなっても構わない。

確かに、私の世代には「芦屋」とか「船場」という言葉には特別な思い入れがある。転勤で大阪に住んだのはもう35年も前のことになるが、当時はまだそういう名残りが少しは残っていた。

とはいえ、そうしたブランドイメージの裏返しとして、「大阪駅の北側は永遠にあのままであろう」とか「環状線に乗ってはいけない。難波と堺の間には立ち入ってはいけない」といったことが、特に東京から行った人間にはまじめに語られていたのである。

いまや、大阪駅の周辺は北も南も再開発され、昔の姿を想像するのが難しくなった。芦屋の高級住宅街も久しく行っていないが、単に金持ちが住むというだけのことになってしまうのだろうか。もともとそういうもののような気もするし、寂しい気もする。

作者がたいへんこだわっているのが、どこの料亭で何をするとか歌舞伎は何がかかっているかという種の薀蓄であるが、私に関心がないせいかいまひとつピンとこない。「その頃には貴重品となっていたバアガンディーの白葡萄酒」には興味をそそられたが、ブルゴーニュでもどこかによって受ける印象は全く違う。

(バーガンディはブルゴーニュの英語読み。上流階級だったら「コルトン・シャルルマーニュ」くらい飲んでほしいものだが、銘柄を書かないところをみるとどうなんだろう。大体、どうやってワインを保管しているのかさえ書いていないのだ。)

きれいどころが着飾っていろいろやる訳だから、いまだに明治座とかの舞台で演じられるのも分からないではないが、言ってみれば「ベルばら」と同じレベルであって、これをもって日本文学を語ってほしくないというのが正直な感想である。

[Sep 19, 2018]


いまだに舞台ではよく演じられている作品ですが、どこでどう盛り上げるのかなあ。賀来千賀子とか黒木瞳はともかくとして、深キョンや鹿女がやったら変だし。