500 五十番繁多寺 [Oct 21, 2017]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

 

浄土寺から繁多寺までは2km弱、風雨さえ強くなければすぐ近くといっていい距離である。しかし、この頃になると風が強くなってきて、時折傘が裏返りそうになる。そうすると傘が壊れてしまうから、傘を畳んで頭にはレインウェアのフードをかぶる。いずれにせよ顔も頭もびしょ濡れである。

考えてみると、この回の区切り打ちでは観自在寺を過ぎて柏集落の前で雨が降り出してから、いったん止むことはあっても半日以上降らないことはなかった。こういうことがないように梅雨時とか台風シーズンを避けて10月を選んでいるのに、1週間以上も雨の中を歩くことになるとは、物事はなかなか予定どおり進まないものである。(この雨は首都圏でも同じ様に降り続け、そのため冬の野菜市況は高騰した)

中でも、台風が北上しつつあったこの日の雨は一段と激しく、また風も強く、つらいお遍路歩きとなった。お遍路の趣旨からいって毎日好天に恵まれることまでは期待しないとしても、1週間以上降り続けて日に日に強まって行くという状況は厳しい。これ以上風雨が強まれば、ケガをしては元も子もないので避難することも考えなくてはならない。

繁多寺へは、浄土寺の先を右斜めに入る。すぐに、ホテル&入浴施設の「東道後のそらともり」があり、駐車場にはたくさん車が止まっている。気がつくとこの日は土曜日である。私のようにリタイアしていなければ普通は土・日しか休めないのだから、混むのは当り前である。

しばらくその通りを直進する。バス停があるので、バスも通るようだ。時刻表をみると伊予鉄久米駅行きが30分に1本走っている。久米は「たかのこのホテル」の最寄駅だから、いざとなればこのバスに乗って戻ることができる。少し安心した。

遍路シールの指示に従って右の路地に折れる。路地から細い道に入るとそこから墓地が広がっていた。お遍路歩きは寺から寺に歩くのだが、お墓の中を通ることはあまりない。思い出すのは二番から三番の間の「極楽霊園」くらいである。こんな道を通らなければ繁多寺に行けないのかと思うが、太い道路のように車の水しぶきがあがらないので、かえってありがたい。

お墓の中のショートカット道から住宅地の裏手に出る。このあたり「畑寺」という地名である。しばらくは住宅街の裏手を進む。古い家並みもあり、新しく開かれた住宅地もある。このあたりから松山市内中心は近い距離にあるので、通勤圏内であることは間違いない。

やがて、道幅の広い道に出た。前方は小高い丘になっていて、遍路シールは丘の上を指示している。大回りのカーブに沿って坂を登って行くと、そこが繁多寺の駐車場だった。浄土寺から30分かからず、12時45分に着いた。

境内は細かな砂利で整えられていて、土の境内のお寺さんよりも水たまりが目立たない。石段を四、五段上がった本堂レベルとの間は庭園になっていて、松や庭石が整えられている。山門の方を振り返ると、雨雲が低く垂れ込める向こうに松山市の中心地を望むことができる。たいへん落ち着く境内で、晴れていたらゆっくりしたいところだ。


浄土寺から繁多寺へは、幹線道路から右に入った通りを進む。ここもバス通りだ。


道案内に従うとお墓の中をショートカットする。車が通らないので水しぶきが飛ばずありがたい。


さらに畑寺の住宅街を通って丘の上が繁多寺。畑寺は繁多寺のもともとの名前と言われる。

 

東山繁多寺(ひがしやま・はんたじ)。東山は寺の裏山の名前であるという。繁多寺の周辺の地名を畑寺といい、「霊場記」には畑寺がもともとの名前ではないかと書かれている。「四国遍路の寺」の五来重氏は、東山の山上に奥ノ院があり、麓の畑のあるあたりにお寺があったからそう呼ばれたのではないかと推察している。

「道指南」ではご本尊とご詠歌くらいしか記載がないが、「霊場記」には孝謙天皇の勅願所で源頼朝も寄進したと書かれている。「辺路日記」には「もとは律寺である」と書かれているから、あるいは奈良時代に戒壇があったのかもしれない。戒壇は当時の僧侶認定施設で、鑑真和上を唐から招いたのはわが国に正式な戒壇を置くためであった。

当初、戒壇は大和の東大寺、大宰府観世音寺、下野薬師寺に置かれたが、時代が下るにつれ各地に広がったので、四国にもあっておかしくない。伊予は当時の先進地域であり、繁多寺を開いたとされるのは行基である。行基というと四国では鯖の話で有名になってしまったが、東大寺大仏建立の総責任者だから、律の学識ももちろん深い。

孝謙天皇は聖武天皇の娘で大仏開眼時の天皇であるから、繁多寺創建にあたって名前が出てもおかしくない。実際には孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の治世は中央で政変が多かったのでのんびり伊予に静養に来ていたかどうか分からないが、松山近在の札所のいくつかは孝謙天皇の勅願を謳っている。

それから約400年後の鎌倉時代には、一遍上人が学んだ寺であったという。一遍上人は河野氏の血縁だから、遍路元祖・右衛門三郎の親戚ということになる。行基や孝謙天皇より時代が新しいし、河野氏が勢力を持つ松山近郊だから十分うなずけることで、松山市内には一遍上人との関連が伝えられる寺は数多い。

岩屋寺のところで書いたように、一遍上人が岩屋寺の行場で修業したことは当時の資料に残されている。本拠である松山から出発して三坂峠から久万高原に入り、さらに山中を岩屋寺まで登って修業したとすれば、途中の寺に一遍上人の事績が残っているのは当然のことである。

その後、他の多くの札所と同様、室町から戦国時代にかけての戦乱で、繁多寺も衰微してしまった。江戸時代前期に書かれた「四国辺路日記」には、「塔ハ朽落テ心柱九輪傾テ哀至極ノ躰ナリ」と書かれているから相当に荒れていたようだが、かつての規模がかなり大きなものであったことが窺えるのである。

塔頭が再建されたのは寛文年間というから1661-1673年、真念「道指南」が書かれる直前である。「道指南」で西林寺・浄土寺・繁多寺の記事がいかにもそっけないのは、そういう背景があるからかもしれない。

さて、時刻は12時半過ぎ。一部のお寺さんを除いて、納経所はお昼休みでもお願いできるはずだが、いろいろ騒ぎになっていることは耳にしているので、やはり行きづらい。雨が引き続き降る中、気持ちのいい境内をしばし散策、午後1時になったのでお伺いして無事にご朱印をいただいた。

さて、石手寺まではあと3km。大雨で景色を楽しむゆとりもないし、これ以上進んでも仕方がない。石手寺をお参りしてから市電と伊予鉄で久米に戻れば、ちょうどいい時間にホテルに入れそうだ。大変厳しかったこの回の区切り打ちも、ようやく打上げに近づいてほっとしたのだったが、やはり物事はそう簡単には進まなかった。次の石手寺は、想像を絶するワンダーランドだったのである。

[ 行 程 ]
浄土寺 12:15 →
[1.8km]12:40 繁多寺 13:05 →

[Oct 27, 2018]


繁多寺山門。山門はこじんまりしているが、境内は結構広い。


繁多寺境内。正面が本堂、鐘楼を挟んで右手が大師堂。本堂の左に納経所。玉砂利の庭園も風情がありますが、雨降りでゆっくりできないのが残念でした。


こちらは大師堂。たくさんの折鶴が奉納されていました。