115 考えさせられた第9次歩き遍路 ~せいうち日記115 [Oct 25, 2018]

10月10日から17日まで歩き遍路の区切り打ちに行ってきた。これで9回目、壬生川からスタートして善通寺まで、約180kmを歩いた。

この遠征の序盤、壬生川からスタートしてまもなく、たいへん気分の悪い思いをした。四国お遍路をしている人にはよく知られたことだが、このあたりには問題のある場所があって、それに関連することであった。

(具体的にどういうことがあったのかここでは触れない。四国遍路の記録は当ブログで連載しており、まだそこまで達するには時間があるので、どのような書き方がいいのかじっくり考えたい。)

2、3日釈然としない気持ちで歩いて、そこから数十km離れたある寺でのことである。納経を受け付けてくれたお坊さんと話していて、はじめはお寺の由来とか四国札所の霊験といったことだったのだが、突然、こういう内容になった。

「お大師様は俺のところにカネを落としてくれないなどと言っている人もいるが、そんなことはなくて、誰彼区別することなくすべての人に与えて下さる。そういう人は、余計な諍い事を起こして、自らおカネを捨てているだけのことだ。」

もちろん、私がどこそこでこういうことがあって、などと話した訳ではなく、お坊さんもどこのことだと名指ししたのではないけれども、私には例の不愉快な思いをした場所のことであるように聞こえた。

「ただ、人間それぞれに持って生まれた器がある。お大師様は分け隔てなく与えてくださるのだが、盃しか持たない人もいれば、茶碗を持つ人もいれば、盥のような大きな器を持っている人もいる。そういうことだ。」

お話を聞いて、改めて思った。これまで60年余り、自分の持ち場でまじめに暮らしてきて、他人をうらやんだり足を引っ張ったりしなかったが、そういうことをしないで済んだということは間違いなく幸せなことであろう。

会社員生活は苦労の割に報われることが少なかったけれど、カネもコネもない人間が40年間仕事をして来て、いま現在贅沢はできないけれどなんとか生活できているということは恵まれているといえなくもない。

そういうことがあってから、誰かに話しかけられた時なるべく足を止めて二言三言でも話をするようになった。自分でもなぜかよく分からないが、そうした方がいいように思えてきたからである。

お経の言葉に「百千萬劫難遭遇」とある。「劫」とはひとつの宇宙が発生して消滅するまでの間、43億2000万年のこととされる。その43億2000万年が百・千・万と重なっても、ありがたい教えに出会うことは難しいという意味である。(ちなみに、囲碁における「コウ」はこれが語源である)

出会うことが難しいのは仏様のありがたい教えだけでなく、おそらくすべてのことに通じるのだろう。私がこうしてお遍路歩きをしていられるのも無数の偶然が重なりあったもので、「百千萬劫難遭遇」に変わりはない。そんなことを思いながら、立ち止まって土地の人達とあたりさわりのない話をしたのである。

そのせいでもないだろうが、今回のお遍路歩きではいろいろな場所でご接待を受けた。一度などは、瀬戸内海を見晴らすたいへん景色のいい休憩所で休んでいると、眼下に広がるみかん畑から、わざわざ急斜面を登ってみかんを持ってきてくださった。

この時期のみかんは極早生といわれる種類で、粒は小さいのだけれど甘くておいしい。みかんもうれしかったけれど、急斜面を登ってきてくれた親切がありがたかった。私ならそこまでできただろうかと思った。

[Oct 25, 2018]


みかん畑の上にある休憩所から、瀬戸内海の景色が広がる。休んでいたら、わざわざ急傾斜を登ってきてくださって、みかんをご接待していただいた。ありがたいことです。