510 五十一番石手寺 [Oct 21, 2017]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

繁多寺を出ると、いよいよ松山の市街地に入る。次の石手寺までは約3km、繁多寺では一時収まった雨が、再び激しく降ってきた。

繁多寺のもともとの名前だったという畑寺の住宅地から、いつのまにか住居表示が東野に変わっている。道なりにバス通りに出た。ここのバス通りも歩道があったりなかったりする。かなり松山市中心部に近づいてきたので、車通りがたいへんに多い。住宅街の中を歩いている方がまだ安心であった。

石手川が近づくと、道がいくつかに分かれる。基本的にまっすぐ進めば石手寺のはずだが、微妙に角度が斜めになっているのではっきりしない。そして、通りの右を進んだり左を進んだりしてふとバス停の行先表示を見ると、伊予鉄久米駅方面のバスはいつの間にかなくなって、松山市駅行きばかりになっている。

松山市街の中心地でありバスの起点・終点となっているのは、JR松山駅ではなく伊予鉄松山市駅である。そして、愛媛県庁や松山市役所へ行くには、伊予鉄松山市駅からは歩けない距離ではないが、JR松山駅からは時間がかかり、市電に乗るのが普通である。

これはもともと、松山市の中心が松山城であり、県庁も市役所もお堀端に作られた一方で、鉄道を引くことができたのは街はずれであったことに起因している。そして、日本国有鉄道が松山まで伸びたのは昭和初期で、明治時代から営業していた伊予鉄に比べて歴史が浅い。それだけ不便な場所にしか作れなかった訳である。

石手川の大きな橋を渡ると、正面に石手寺の山門が見えてきた。時刻は午後2時、繁多寺から1時間かかった。3kmで1時間はかかり過ぎだが、市街地に入るとどうしても信号待ちがあるので仕方がない。今回の区切り打ちでは宇和島や大洲でそういう経験をしたが、何と言っても松山は県庁所在地である。

通りに面して山門があり、その周囲にいろいろなものが置かれている。「熊野山石手寺」と彫られた標石は、墓石のようにしか見えない。その周囲に盆栽を大きくしたような松の木があり、古い標石があり、山伏姿の右衛門三郎もひざまずいている。なんだか、統一感のない門前である。山門と金剛力士像、大わらじがあるくらいのシンプルな方が安心する。

雨が激しいので、屋根のある仲見世に入ってほっとするが、半分くらいしか店は開いていない。閉まっている店が、昔は白かっただろう布を垂らしているのも独特である。右に入ると食堂があり、餅とかおでんを売っているようだったが、雨が激しく屋根に叩きつけるので落ち着いて見る気にならない。それでも、他の札所と比べると人は多い。

その仲見世を過ぎると仁王門がある。確か国宝のはずだ。他にも石手寺には国宝・重文があるというので楽しみにして来たのだが、頭がくらくらした。そこら中に立て看板、模造紙一面に書かれた文字が林立しているのである。

お遍路に限らず、寺社古墳をお参りする時には頭の感度を最大にするようにしている。霊域の発する微細な信号を受け取るためである。ところが、この石手寺は微細な信号ではなく、直接的・顕在的な立て看板がいきなり目に飛び込んでくるのである。まるで、感度最大にしてあるアンテナを目がけて大音量のスピーカーで怒鳴られているみたいな気がした。

「仏陀」「悟り」「心身安楽」「即身成仏」などなど。中国の少数民族云々というものもあれば、霊地お砂踏みみたいな立て看板もある。どう関係があるのか「集団的自衛権」なんてものまである。夢枕獏の小説で安倍清明が「言葉は呪である」と言っていたのを思い出した。


繁多寺を出ると、貯水池の向こうに松山の中心地が見える。この日は雨雲でよく見えなかったが、晴れていればいい景色のはずだ。


歩くこと1時間ほどで石手寺に到着。よく見るとこれは墓石ではないだろうか。山門前に小さく右衛門三郎も見える。


屋根のある仲見世を進む。店は半分以上閉まっている。すでに独特の雰囲気である。

 

熊野山石手寺(くまのさん・いしてじ)。ご詠歌に「安養の寺」と詠われているように、もともと安養寺と呼ばれていたようである。右衛門三郎伝説に基づき現在の「石手寺」に改められたが、いずれにしても伊予の豪族で律令時代以前に四国の覇者であった越智氏(時代が下って河野氏)が基礎を築いたことは確かである。

石手寺は、越智氏・河野氏の保護により古い時代から盛んだったようで、鎌倉時代に造られた仁王門は国宝、本堂や三重塔など塔頭の多くが国指定の重要文化財となっている。

ところが、せっかくの国宝・重文も立て看板に押されてその存在が目立たなくなってしまっている。おまけに、境内に建物がありすぎて、またそのそれぞれに納札箱が置かれているものだがら、どれが本堂でどれが大師堂だかよく分からない。日本人観光客やら外国人観光客も右往左往していて、落ち着かないことこの上ない。

10kgのリュックを背に境内を歩く。おそらくいちばん高いエリアにあるのが本堂だろうと見当をつけて石段を登る。五色の垂れ幕におおわれた建物がそのようだが、どこにもそう書いてない。

でも「大勝薬師」という立て看板があるので、ご本尊薬師如来のいらっしゃるお堂のようだし、「本堂へは大師堂から入ってください」と書いてある略図からすると、この建物のようだ。

引き続き大雨である。リュックから数珠と経本だけ出して、読経。他の札所だと周りに来るのは私同様のお遍路なのだが、この石手寺はそうではない。お遍路以外の参拝客がほとんどである。大雨とはいえ土曜日ということがあるのだろうか、人が途切れることはない。

棟続きになっている絵馬堂・大師堂との間にも、所せましとお札が貼られていて、まさに「呪の嵐」である。大師堂では、ガイドが外国人観光客相手に説明をしている。雨に濡れずに読経できる場所が限られるので、あわただしい納経となった。外国人観光客もこういうお寺に来て何か感じるところがあるのだろうか。

仁王門の横まで戻って、納経所でご朱印をいただくと、「お寺からです」と小冊子をわたされた。A4版の厚手の紙でできているパンフレットで「極楽即身成仏 大日曼荼羅建立勧進」と書いてある。二つ折りにするのも気が引けたので、リュックカバーを外してリュックの中に入れる。帰ってから見てみたら、寄付のお願いだった。

ここまで五十数ヵ寺回ってきて、ここまで立て看板が林立したお寺は見たことがない。というよりも、いまだかつてこのような文字によるメッセージを前面に押し出している神社仏閣古墳は見たことがない。お寺というよりも、まるで昭和時代の大学構内のようである。

京都奈良の拝観料を取るお寺で立て看板を置くようなことをするとは思えないし、神域とか霊域というのは、神仏からの微細なメッセージを五感を最大限に敏感にして受け取るものだと思っていたから、この石手寺はかなり面食らった。

そんな具合だったので、右衛門三郎再生の経緯やら、歴史の渦に飲み込まれてしまった四国の覇者・越智氏の命運に思いを致すこともできなかったのは残念なことであった(帰ってから調べると、自民党の河野洋平氏やら一郎外務大臣も越智氏の末裔らしいので、しぶとく今日まで人材を輩出しているようである)。


石手寺仁王門。国宝だったと思うが、「集団的自衛権」の立て看板は異様。


どこが本堂なのかよく分からないが、おそらくこれだろう。こちらも「大勝薬師」の立て看板。


そして大師堂。「すくう大師」だそうですが、ラティスはホームセンターであつらえたのでは。このあたりではすでに頭痛が。

 

石手寺を文字通り「這う這うの体」で抜け出した。大分お腹も空いていたので帰りにおでんでも食べていこうと思っていたのだけれど、お参りした後はとてもそういう気にはならなかった。

石手寺の周辺は松山有数の繁華街であり、観光名所である道後温泉のすぐ背後にあたるが、雨が激しいのでとても歩き回る気にはなれない。へんろ地図のコピーも手近に用意してあったけれど、雨風が激しくて出して見るのは大変である。特に考えるまでもなく、いちばん太い通りを市街地に向かって歩き始める。

傘を差して重い荷物を持っているうえ、昼を食べていないので力が入らずなかなか足が前に進まない。このあたり、右手の坂を登って行けば市街電車の道後温泉電停までショートカットできるはずであるが、その余裕もない。ともかく右足と左足を交互に前に出して距離をかせぐ。やがて左手に道後公園が見えてきた。もうすぐである。

この道後公園は戦国時代まであった湯築城の城址で、河野氏の拠点であった。つまり石手寺や五社、次回お参りする三嶋宮と同じで、八十八札所とは縁の深い施設である。機会があれば訪問したいところではあったが、大雨なので今回はあきらめた。道後公園の脇を通って市電通りに出る。すぐ先が道後公園電停であった。

終点であり始発駅でもある道後温泉電停が右手奥に見えているのだけれど、何しろ大雨なものだからそこまで行く気力がない。リュックを下ろし、14時55分、GPSの電源をOFFにする。今回の区切り打ちはここまで。次回はここからスタートすることになる。

次に来た電車が松山市駅行きで、ようやく雨の当たらない場所に入ることができた。車両の隅にずぶ濡れのリュックと傘を置かせていただき、ひと息つく。何しろ、今回の区切り打ちは雨に悩まされた。足腰よりも、傘を差す右腕が痛くなっている。市電はゆっくりと県庁前・市役所前を経由して松山市駅へ。ここで郊外電車に乗り換えて久米駅へ。

久米から宿をとってあるたかのこのホテルまで、10分ほど歩く。午前中に通ったへんろ道を再び通るので、左手に浄土寺の山門が見える。やかて巨大な屋根の建物とその向こうに8階建てくらいのビルが見えてくる。たかのこのホテルの温泉施設と宿泊棟である。宿に着くと、午後4時を回っていた。

フロントに行き送ってあった荷物を受け取り、翌日の予約をキャンセルする。台風が来ているし、1泊はしているのでキャンセルには特に問題はなかった。仮に明後日の飛行機が予定どおり飛ぶとしても、次の日もこの天気の中を歩くのは無理である。予定よりも10km以上手前で終わってしまうけれど、それは仕方がない。

部屋に入って濡れた荷物やレインウェアを広げ、ホテル備え付けの作務衣に着替えて温泉施設に向かう。ここの温泉施設は宿泊客より日帰り入浴が圧倒的に多く、浴室は満杯である。家族連れや若い人たちがたくさん入っている。体を洗って湯船に体を沈める。アルカリ性単純泉。道後温泉と近いので、泉質も似ているようだ。

お風呂から出て、レストランで昼夜兼の食事をとる。1500円くらいの「湯上り御前」、お刺身・天ぷら・煮付けなどなどたくさんのおかずとご飯・お吸い物・サラダが付いてお値打ちである。生ビール500円はセルフの自販機。これもまた手軽でうれしい。

ともかく今回はしんどいお遍路であった。これまでのお遍路では1日平均30km近く歩いても体重が増えていたのだけれど、さすがに今回は帰って計ったら体重が減っていた。

この日の歩数は31,239歩、移動距離は15.2km。11日間の総移動距離は287.7km、1日平均は26.1kmであった。

[ 行 程 ]
繁多寺 13:05 →
[2.8km]14:00 石手寺 14:30 →
[1.5km]14:55 市電・道後公園駅
(→ 松山市駅 → 伊予鉄久米駅 → たかのこのホテル)

[Nov 10, 2018]


納経所の裏から山門に戻る。ここでも幟旗が何かを主張している。


道後公園まで歩き、市電と伊予鉄で浄土寺に近い久米駅に戻る。今回最後の宿は「たかのこのホテル」。


ホテル併設の「たかのこの湯」は、温泉というよりスーパー銭湯でしたが、レストランは気が利いていた。セットメニューで連日の苦労を自らねぎらう。