520 五十二番太山寺 [Mar 12, 2018]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

前回の第7回区切り打ちは、1週間以上雨に降られた上に最後は台風接近のため日程を短縮して終了した。早いうちに天気のいい日を歩いていいイメージを取り戻したいと考え、短期の区切り打ちを計画した。何しろ、松山市内の札所を回って松山・今治間まで歩く予定だったのに、石手寺に入ったところで中断してしまったのである。

朝一番の松山便で四国に飛べば、午前中から区切り打ちを再開できる。2018年3月12日、早起きして始発電車で羽田空港に向かった。羽田・松山のエアは16,290円、マイルを使ったので持ち出しは1,290円で済んだ。空港からJR松山までのバスが460円、JR松山から市電が160円。道後公園まで4km以上あるので歩くと大変だが、160円で運んでもらえるのはありがたい。

前回の到達地点である道後公園から、市電に沿って道後温泉駅まで歩く。真念「道指南」では道後温泉について詳しい記事を書いているが、何度か入っているしこれから長い歩きなので今回は寄らなかった。まず初めに目指したのは護国神社近くにある一草庵。漂泊の俳人・種田山頭火終焉の地である。

山頭火はこのブログでも何回か触れたことがある。自由律俳句で知られた俳人で、おそらく日本全国にある句碑の数では芭蕉に次ぐだろう。明治以降の俳人の中で一人あげよと言われれば、私は山頭火を第一にあげる。実際には、生活能力のほとんどない困った人で、昭和戦前期という時代背景もあり存命中の評価はあまり高くなかった(ほいと坊主[=乞食坊主]と呼ばれていたそうである)。

昭和14年から15年、山頭火は後援者の世話で松山市内にある一草庵で暮らしている。「生きていくのにそんなに物入りはなくなった」と書いていても、後援者に酒をご馳走になる機会は多かったようで、最期も護国神社の祭礼で一杯ご馳走になった後、一草庵に帰りそのまま亡くなったという(岩川隆「どうしやうもない私」)。

ということで、昔風に言えば歌枕である。芭蕉は西行の歌枕を訪ねて奥の細道の旅に出た。私も松山を通る以上は一草庵を見ておくべきだろうと思い、前回の区切り打ちで訪れる予定にしていたが、残念ながら季節外れの台風襲来でここまで来ることはできなかった。今回は、四国で最初の目的地となる。

道後温泉から西に歩いていたつもりなのに、いつの間にか影の方向に歩いている。これでは北である。左に方向を変えてしばらく歩くと、小川というか用水路というか、疎水沿いの道に出た。この水路に沿って歩けば護国神社を経て一草庵のはずである。

まず護国神社に出た。最初の鳥居があり、そのまま通りを進むともう一つ鳥居がある。普通、一の鳥居・二の鳥居は順番にくぐるのだが、並列にあるのでどちらかを通るというのは変わっている。道後温泉側の鳥居からは本殿・拝殿に向かうが、もう一つの方は遺族会・戦没者などの案内が書かれていた。

その護国神社から少し歩き、山側に入ると一草庵である。奥が真言宗のお寺で、一草庵のすぐ横も墓地になっている。現在は松山市によりきれいに建て直されていて、お隣は公衆トイレ兼資料展示のための施設に整備されている。

一草庵の中にはいくつか面白そうな資料が見えたが、残念ながら月曜日なので鍵がかかっていた。トイレの脇にある常設展示には山頭火の筆跡や袈裟姿の写真などが貼られている。おそらくずいぶん後の時代のものだが、山頭火の息子さんの写真があり、歳とってたいへんそっくりになっているのがおかしかった。

現在の松山市内は交通量がたいへんに多く、タクシーで移動すると結構時間がかかったりするのだが、このあたりはたいへん静かで車の音もほとんど聞こえない。山頭火はここから道後温泉に行ったり、後援者に援助してもらって米や酒を手に入れ、たまに俳句の同人とつきあって悠々自適の生活を送っていた。

一草庵から再び水路沿いに戻り、松山大学のグラウンド横を西に進む。静かなのも道理で、このあたりはお寺が続いている。真言宗、浄土宗、真宗、禅宗、日蓮宗など通りの右左に十以上はあったのではなかろうか。あるいは、松山藩の方針で、このあたりにお寺さんを集めたものかもしれない。


道後公園から疎水に沿って歩くと護国神社に出る。山頭火が死ぬ前に一杯ご馳走になったのは護国神社の祭礼の日だった。


山頭火の終の棲家となった一草庵は護国神社のすぐ先にある。この家は公園として整備する際に建て直されたもので、すぐ横は真言宗のお寺の墓地。


一草庵を出て、そのまま松山大学のグラウンドに沿って進む。このあたりはお寺を集める藩の方針だったのか、禅宗系・浄土宗系・日蓮宗系など十余りの寺院が続く。

 

今回、松山から今治に歩いて特に目に付いたのは、てっぺんの尖っている軍人さんのお墓だった。ほとんどの墓地に軍人仕様の墓石があって、少ないところで十数基、多いところで20も30もある。あの変わった形の墓石が5行6列も並んでいるのは、壮観でありかつ異観でもある。

千葉ニュータウンにも戦没者慰霊碑はいくつかあるが、ほとんどは大きな石に「慰霊碑」と大書され、階級とか氏名は何十人分かまとめて細かく書かれている。ところが松山周辺では、ひとりひとりが個別の墓石なのである。それも、「海軍上等水兵」とか「伍長」だからそれほど階級が上という訳ではない。徳島や高知でもあまり見たことがなく、松山に独特の風景である。

県名と県庁所在地が違っていることに現れているように、明治維新時には幕府方に付いた。将軍家の親戚にあたる松平家が長く藩主であったためである。「坂の上の雲」の秋山兄弟や正岡子規の出身地であり、風光明媚で文化水準が高い。そのことと軍人墓地と直接関係があるかどうか分からないが、経済的に余裕があったことは確かである。

一草庵から用水路に沿って15分ほど歩き、国道196号線に出た。コンビニに寄って日焼け止め、シェーブガード、ポケットティッシュ、歯磨きとミネラルウォーターを補充する。日焼け止めが700円以上したので千円札1枚では足らなかったが、日差しがきついので日焼け止めをつけないで歩くのは危険である。前回は、鼻に火ぶくれができてしまったくらいである。

国道沿いは道に迷うことがないので安心だが、信号待ちがあるのと歩道橋で横断しなければならないのが煩わしい。この日歩いた場所は松山市街の中心地から離れているのでそれほどではないが、それでも歩道橋を無視して横断できるほどには車は少なくない。

11時半くらいに「和食どんと」の看板を見つけて入り、うどんとミニ天丼のセットをお願いする。食事を待つ間に日焼け止めを塗る。食後にアイスコーヒーもお願いした。街中を歩いていても食事がとれるところに行き着くとは限らないので、こうしてファミレスを使えるのはありがたいことである。

石手寺から次の札所太山寺までの二里について、真念は「遠回りだが三津浜まで出るのが、何かと便利である」と書いている。一方で、三津浜に寄らずに山越えで室岡山を通り、東から太山寺に入るルートもあわせて紹介している。今回選んだのはその折衷コースともいうべきもので、山頭火一草庵を経て、国道196号から室岡山に向かうルートである。

室岡山には真念が「本尊薬師 諸遍路札打也」と書いた蓮華寺がある。国道196号沿いに北上し、潮見小学校の近くにある。道後から山越えで来るルートが、右から合流する。寺伝によると、室岡山の上から薬師如来が現われたという。境内からは古墳時代の石棺が発見されており、このあたりが古代の霊地だった可能性がある。

ところが実際にそのあたりまで行ってみると、蓮華寺への道案内がないのでちょっと分かりにくい。おそらく右手に見える森がそうだろうと思って歩くのだが、なかなか入口が分からず結局一周してしまった。

石段を上がって本堂エリアへ。境内は意外と広く、本堂と鐘楼、広い中庭がある。本堂前にしばらく座っていたら、テープでお経が流れてきた。石段のところに庫裏があり、納経所があるのでベルを鳴らしたけれども、どなたも出てこられなかった。置いてある抽斗には、半紙に書かれた納経印の他、スタンプのご朱印が置かれていた。

石段を下りて今度は国道ではなく西に方向を変える。やはり用水路沿いである。一草庵からずっとつながっているのだろうか。よく見ると例の「四国のみち」の石柱がある。この「四国のみち」は、最短経路を通る訳ではなく歩きやすい道とも限らないので注意が必要である。前回の区切り打ちではひどい目にあった。

用水路に沿って、再び北に方向を変える。右側はため池のような干潟のような四角い池が続き、左側は水田である。水田の向こうには稜線が一つ二つと続くのが見える。昔、松山に出張に来てJRで高松方面に走ると、なぜ瀬戸内海のある方向が山なんだろうと思ったものだった。海のすぐ近くまで山が迫っているのは、瀬戸内の特徴である。


潮見小学校のすぐ先が蓮華寺のはずなのだが、案内標示もないし住宅街の中でよく分からない。あの森がそうらしいが、山門を見つけるまでに結局一周してしまった。


蓮華寺本堂。定期的に中からテープらしいお経の声が流れる。


蓮華寺を出て用水路沿いに方向を変える。四国のみち標識が立つが、これに頼るとろくなことがないのは学習済みである。

 

さて、今回の区切り打ちだが、数えて8回目となる。前の週にいきなり20℃を超える暑い日があったりまた最高気温が一桁になったりしていたため、出発前に鼻風邪をひいてしまった。

この時期は花粉症もあるので体調万全という訳にはいかないことは分かっていたが、鼻がぐずぐずしたままで連日歩くのは厳しい。短期間なので何とかがまんして歩く他にないが、案の定、ティッシュを手放せないままの歩きとなり、とりあえず気がかりなことであった。

蓮華寺からしばらく西向きに歩き、用水路に沿って北に方向を変える。まだこのあたりはJR松山から駅2つも来ていないはずだが、あたりはほぼ水田で、見渡す限りの田園風景である。

その田園風景の中で今回、軍人墓石とともにたいへん多く感じたのは、外側を焼き杉で作った家であった。焼き杉というとビフォーアフターでおしゃれな外壁として紹介されていたが、実際には防水・防腐を主たる目的としていて、費用対効果のすぐれた伝統工法である。

大規模な農家が家全体を焼き杉で囲っている風景は壮観で、塗料を何度も塗り替える手間もかからない。とはいえ長い年月で地面に近いところは色が薄くなってしまっている家も多い。

炭化しているとはいえもとは木材であるから、湿気が多い場所では傷むのも早い。だから、雨の少ない瀬戸内ではたいへん多い造りだったのだが、時代の流れに押されていまではサイディングの家が主流派である。それでも、特に規模の大きい農家では焼き杉が残っていて、遠くからでもよく目立つ。

ため池のような干潟のような池を過ぎたあたりで、用水路の向きが右斜めに変わっている。特に行先表示はないけれども、「四国のみち」の行先表示が当てにならないことは学習済みであるので、用水路を離れ、山の見える左側に方向を変える。

行く手には稜線が2つ見えている。遍路シールも現れたので、道は合っている。やっぱりどこかで、四国のみちと遍路道は分かれたようだ。遍路地図で確認すると、手前の稜線を回り込んで向こう側の山の中腹に太山寺があるはずだ。

ところが、手前の稜線まで達すると、遍路シールの道は登り坂を指示する。このまま登ると山の中である。とはいえ下ると資材置き場で私有地のように見える。困ったなあとうろうろしていると、ちょうど軽トラで通りかかった地元の方から、

「太山寺?このまままっすぐが遍路道だよ」

と教えていただいた。進んでみると資材置場の横から山裾に道が続いていた。民家の裏の細い道を抜けて行くと太い道に突き当たり、そこに太山寺の山門があった。


用水路に突き当たって再び北に方向を変える。太山寺があるのは向こう側に見える峰のはずである。


山の中腹に入り、遍路シールもまばらになって行き先に迷う。ここは間違ったかと思い、引き返して地元の人に教えていただいた。遍路道は資材置き場の奥へつながっている。


太山寺はまず山門があり、住宅街を進んでようやく写真の仁王門がある。本堂はここから600m先にあり、そこまでずっと登り坂なのだ。

 

遍路地図に「山門」と書いてあるのは実は仁王門で、山門はもっとずっと前にある。山門の奥まで民家が続いているのは大宝寺など例があるが、太山寺の場合はバス停すら山門の奥にある。そして、仁王門の奥にも、お寺の施設でない民家があるのであった。

普通は山門・仁王門とくぐれば本堂エリアはすぐ先のはずだが、太山寺の場合はここからがまたひと苦労である。仁王門のところに、「納経所まで350m、本堂まで550m」と書いてあるので心の準備はできるのだが、ただの300m、500mではなく急傾斜の坂道である。

本堂エリアまでさらに急坂を登らなければならないので、申し訳ないが、お手洗いをお借りするついでに先に納経所でご朱印をいただく。あの石手寺以来ひさびさのご朱印である。石手寺では、あまりのワンダーランドで頭に電波が飛び込んでくるような気がしたが、太山寺はそのようなことはない。ありがたいことである。

「のぼれば汗の太山寺」とご詠歌を口ずさみながら、かなりの急傾斜がある坂道を登る。本堂エリアのすぐ下まで、何軒かの家が建っている。最初はお寺の施設かと思ったのだが、軽トラとか普通の車が止まっていて、玄関先ではみかん(いよかん?)の産直販売をしているところをみると、普通の民家なのだろう。なんだか不思議な気がした。

午後2時前、ようやく本堂エリア着。蓮華寺からは1時間半かかった。ご詠歌の通り、ハードなお参りであった。とはいえ、山をずいぶん登ってきて、しばらくぶりで札所の引き締まった空気に触れることができたような気がした。

龍雲山太山寺(りゅううんざん・たいさんじ)、「霊場記」には、聖武天皇の創建であり境内には孝謙天皇(聖武天皇の娘)が建てた石塔があると書かれている。「霊場記」にも、後冷泉院から後白河院まで平安後期の天皇が観音像を奉納したとある。

寺伝によると、豊後の富豪である真野長者が松山沖で難破しそうになり、観音様に祈願して助かったことから建立されたものという。現在の本堂・仁王門は鎌倉時代に河野氏が寄進したもので、古くから栄えていた寺院であることは間違いないようだ。本堂は国宝であると大々的に看板がある。

蓮華寺から休むところもなく、また仁王門から登り坂を登ってきたため、ベンチのある広い東屋でひと休みさせていただく。ずいぶんと山を登って来たのに、広い境内である。参道正面に横に広く本堂があり、中には歴代の天皇陛下が納められた観音像があるそうだが、外からは分からない。

左に階段を登って大師堂。右側は鐘楼と厄除け大師の幟が立っている。東屋で座っていると、静かで落ち着くお寺である。境内の雰囲気に心と体を一体化させる。札所をお参りするのは、こういうことをしたかったからなのだ。石手寺のように集団的自衛権だの仏陀の嘆きだのと書かれた立て看板を見るためではないのだ。

息も整ってきたので、重い腰をあげる。時刻は午後2時をすでに回った。午前4時前から起きているので、ちょっと足が重たい。

参拝者が本堂の前で何か見ているので私も行ってみると、般若心経の文言が刻まれた摩尼車だった。チベットのお寺にあるのをときどきTVで見るが、日本では珍しいのではないだろうか。金銅製の立派なもので、重くて回すには力がいる。

[ 行 程 ]
道後公園駅 10:10 →
[2.2km] 10:40 山頭火一草庵 10:15 →
[2.8km] 11:30 和食どんと(昼食)11:50 →
[1.7km] 12:15 蓮華寺 12:30 →
[6.1km] 13:55 太山寺 14:15 →


仁王門から坂を登り、300m先に納経所、さらに300m先に本堂エリアがある。この坂の奥にも何軒かの民家がある。


大山寺本堂。鎌倉時代の創建、国宝である。重機もない時代、山の上にこれだけのお堂を作るのは大変だっただろう。


般若心経が刻まれた摩尼車。回すとお経を読んだと同じ功徳があるという。本堂前にあるのは珍しい。