570 五十七番栄福寺 [Mar 14, 2018]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

泰山寺を11時10分前に出て、蒼社川に向かって下りて行く。蒼社川と並行して、国道317号が通っている。この国道は松山から海沿いを走る国道196号と直交して、山の中を松山に向かい、石手寺の前に出る。道路工事中の箇所を抜けて15分ほど歩き、11時過ぎに国道317号に出た。

さて、ここで片付けたい用事が二つあった。一つは昼食をすませること、もう一つはこの日の宿である佐礼山に備えて食糧の補充をしておくことである。遍路地図を見る限り、そうしたことが可能なのはこの国道沿いである。ただ、地方都市とはいえ、今治駅から1時間、約4kmしか離れていない。いくらなんでもこの先何もない訳ではあるまい。

昼食については、ちょうど国道に出たところにラーメン屋があったが、やっていない。この時間だから開いていないのか、すでに営業していないのかは分からない。100mほど先にサークルKの看板があるが、ファミマでなくサークルKではイートインコーナーがあるかどうか。ふと見ると、サークルKへの途中に喫茶店のようなものが見える。

店舗兼の住宅で、営業中と書いてある。店の前に幟りが立てられていて、そこには「ハンバーグ」と書いてある。昨晩カップラーメンのみ、今朝はロールパンだから、ボリュームのあるハンバーグでエネルギーを補充できればありがたい。何せ、この後1泊2食の精進料理なのである。

ドアを開けると、気難しそうなマスターと奥さんのやっている喫茶店であった。「ハンバーグはありますか」と尋ねると、メニューにあるハンバーグランチ1000円を「これだね」と示される。待つことしばし、ハンバーグ、ライス、サラダ、スープのランチであった。

爆弾ハンバーグやココスの方がおいしいと思ったけれど、値段もそれなりなので文句は言えない。11時半出発。国道をそのまま進んでもいずれ合流するが、遍路シールに沿って脇道を川の方に進む。10分も歩かないうちに、「四国遍路無縁墓地」の大きな石碑の立つ場所に出た。

大きな石碑の周りには大小さまざまの古い石が置かれ、かつて遍路中にここで亡くなった人達を葬った跡のようであった。江戸時代、遍路の道中手形は「捨手形」と呼ばれ、もし遍路中に亡くなったらその土地のやり方で葬っていただいて差し支えないと書かれていた。まさに、そういう無縁仏が埋められている場所なのであった。

現在、無縁墓地の裏には遍路休憩所が置かれ、東屋が建っている。そして、その休憩所が建っている敷地には、高齢者福祉施設の大きなビルが建っているのである。かつての遍路無縁墓地と現代の高齢者福祉施設、なんだか新旧の対比になっているようでシュールであった。

そのすぐ先が堤防で、蒼社川の河川敷である。遍路地図によると、「渇水期には川の中を歩いた」ということである。四国のこのあたりは雨の少ないところだし、いまでは上流にダムがあるのでますます水量は少なくなっている。歩いて渡れなくはなさそうだが、せっかく橋があるのにわざわざ川に入ることはない。川に沿って橋まで歩く。

橋を渡った先に、高さ100mくらいの山が見える。昔、樟葉(くずは)に住んでいた時に見た男山によく似ている。すると、あれが八幡宮に違いない。遍路シールが示す曲がり角の先にスーパーらしい建物がある。ここを逃すと、あるいは佐礼山まで補給できないかもしれないと心配になるが、わずかの遠回りができないで通り過ぎてしまった。

山の右手に出た後、遍路シールは用水路に沿った細い道を指示している。しかしそこには、「全面通行止」の看板が大々的に置かれている。普通、こういう場合には「こちらに迂回してください」と地図が貼られているものだが、それがない。車両通行止なのだろうかと首をひねりつつ、ガードを乗り越えて中に入る。迂回ルートが分からないのでは仕方がない。

用水路沿いの道は真新しくコンクリで舗装されているが、すでに固まっているし資材等も置かれていない。いまのところは車両通行止でいいのだろうが、つい最近まで歩行者も含めて通行止だったのだろう。看板を外すか、迂回路を指示してほしいものである。

そのまま民家の間をぬう道になり、左手に坂を登ると、駐車場と大きな建物が見えてきた。12時15分、府頭山栄福寺(ふとうざん・えいふくじ)到着。府頭山は栄福寺の建つ山の名前で、今治の札所は近見山、金輪山、府頭山とすべて実際の山名である(佐礼山もそうだ)。

もともとの札所は「八幡宮」で、府頭山頂上に建つ。こちらも神仏混淆の霊場で、別当寺として霊場記には長福寺・浄寂寺の名前があるが、栄福寺の名はみられない。明治の神仏分離で栄福寺が札所となった。

霊場記HPには、弘法大師が海難事故を防ぐため護摩を焚いたという由来が書かれているが、おそらく大師以前から灯台の役割として火を焚いていたのだろう。霊場記には大師起源のその話は載っておらず、「神が海から上がって、濡れた衣を干した場所」と書かれている。

遍路道の傍らに遍路無縁墓地が現れた。江戸時代は「捨て手形」といって、急病死した場合はその土地のやり方で葬うよう道中手形に記されていた。いまでは後方に高齢者福祉施設が建つ。


水路沿いの道は「全面通行止」とあったが、他に進むべき道も指示されていないので仕方なく進む。特に問題はなかった。


水路沿いのコンクリ道から道なりに進み、山側に曲がるとほどなく栄福寺となる。参道がU字型になっていて、石垣の上が本堂になる。

 

栄福寺の境内はコンパクトで、参道がUの字型になっている。だから、石碑のある入口の真横、石垣の裏が本堂となる。本堂の前、山側に大師堂、Uの字の底辺のところに売店と納経所がある。駐車場の奥に見えた大きな建物は、庫裏兼ご住職一家の自宅のようだ。

こちらのご住職は先代のお孫さんにあたり、大卒後すぐにこの寺を継いだ。納経所前の本堂に向かうところに掲示板があり、ご住職の著書「ボクは坊さん」のポスターが貼られている。

この本は、ご住職が連載されていた「ほぼ日」こと「ほぼ日刊イトイ新聞」の記事をまとめたものである。ほぼ日は、吉田戦車のエハイクくらいしか見なかったので読んだことはない。

本堂も小ぶりなので、葬儀とか法事をする時には多人数入れる大きな部屋が必要と思われ、駐車場から見える大きな建物にはこうした施設も含まれるのかもしれない。ご住職のお父上は現役の教師とのことなので、ダブルインカムで大きな家も建てられるのだろうなどと世知辛いことを考えてしまった。

ちょうどお昼時なのでご朱印をいついただこうかと思っていたら、私の後にお参りしたおばさん2人連れが納経所に入って行ったので、終わった頃合いを見計らって納経所に入る。窓口に待機されていたのはまだ若い女性で、あるいはご住職の若奥様なのかもしれない。昼休み時間にいていただけるとたいへん助かる。

ご朱印をいただくついでに、八幡宮の場所を聞いてみる。「登って来られた坂道をそのまま上がっていただくと、山の上にあります。ちょっと道が荒れているかもしれません」とのことであった。

一休みして、八幡宮まで登る。少し距離がありそうなニュアンスだったので、重いけれどもリュックを背負って行く。坂道はすぐに石段となり、上の方まで続いている。石段はところどころ崩れていて、なるほど荒れている。頭の上に電線が通っているので上に建物か少なくとも電灯があると思われる。木々が電線を覆い、昼なのに暗い。

10分ほど登ると、頂上に達する。広くなっていて、いきなり社務所と自販機が見えたのにはびっくりした。電柱は栄福寺経由であるが、表参道は逆側の集落から上がってきているし、もう一本車道も通っている。栄福寺経由はあまり使われない裏参道といった趣きであった。

本殿は栄福寺の本堂よりも大きく、真新しい犬の絵が貼られていたので初詣客も多かったのだろう。さすがにかつての札所である。二礼二柏手一礼でお参りする。残念ながら、社務所は無人で自動販売機だけが動いていた。

本殿から一段下がったところに、昭和五十四年建立の「一千百年式年祭」の石碑がある。1979年から1100年を引くと869年、清和天皇の御代である。つまり、空海よりも新しいが、清和源氏よりも古いということになる。

この八幡宮で特筆すべきは、本堂前からの瀬戸内海の眺めである。標高100mなので眼下に今治市街がはっきり見え、しまなみ海道まで一望の下にある。なるほどここに火を焚けば闇夜であっても目印となることは間違いなく、海上安全の神のいる場所というのもうなずける。佐礼山では高すぎて雲や霧に隠れる可能性があるし、ここより低いと遠くから見通しが利かないだろう。

[ 行 程 ]
泰山寺 10:50 →
[1.0km] 11:10 喫茶デリシャス(昼食) 11:30 →
[0.4km] 11:40 日高荘前休憩所 11:45 →
[2.2km] 12:15 栄福寺 12:40 →
[0.2km] 12:50 石清水八幡神社 13:00 →

[Feb 9, 2019]


本堂と右側に大師堂。石清水八幡宮の別当寺であったためかコンパクトだ。


栄福寺から5分ほど石段を登ると、石清水八幡神社がある。寺からの参道はだいぶ荒れているが、逆側から車道と参道が昇ってきている。そちらが表参道だろうか。


石清水八幡神社から瀬戸内海の眺めはたいへんにすばらしい。この日は風もなく暖かで、花粉が飛んでなければ言うことなしでした。