ブログを始めた頃さかんに書いていた記事のひとつが、日本古代史に関することであった。
当時(いまもそうだが)日本史の研究レベルはひじょうに低くて、普通に考えてもおかしいだろうということを教科書に書いていた。20年経っていくぶんかは変わってきたけれど、証拠が出ない限りそのままなのがこの業界の前近代的なところである。
以下の記事は2008年9月に書いた。いまでも考えはかわらない。いつまで、アマ・タリシヒコは聖徳太子のことだと教え続けるんだろうと思う。
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4.1.1 隋王朝と隋書
さて、ふたたび中国の史書に戻って、隋書である。隋書は中国の王朝「隋」の歴史を記録したものであるが、およそ400年前の「魏志倭人伝」に比べてとりあげられることが少ない。なぜかというと、隋書の方が製作年代が新しく歴史上の事実である可能性が大きいにもかかわらず、日本史の通説にとって都合の悪いことが書いてあるからである。
隋は、589年に約300年ぶりとなる中国統一を果たした王朝であるが、618年には早くも滅亡した。2代皇帝である煬帝(ようだい)の失政によるものとされる。その歴史について記録した隋書は、次の王朝である唐の時代に入って、魏徴(ぎちょう)、長孫無忌(ちょうそんむき)などが皇帝の指示により編纂にあたり、650年に完成した。
魏が存続したのが220年から265年、魏志を含む三国志が陳寿により完成したのが280年だから、書かれている時代も、製作された時代も、350年以上の開きがある。新しい時代の方が必ずしも信用がおけるとはいいきれないが、少なくともその間に情報は積み上がっているはずで、経験や伝聞による確認作業を経ているものと考えられる。
そして隋書の有名な一節は、ほとんどの歴史教科書に掲載されている。
大業三年(607年)、(倭国の)王タリシヒコが朝貢してきた。その国書はこのように書いてあった。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」云々。皇帝はご覧になり、不快になられた。鴻臚卿(役名・王の側近)は言った。「野蛮人の国書は無礼である。以後取り次がないように」
大国である隋と、対等なもの言いをしたということで有名なこの国書であるが、日本史の通説では、これは聖徳太子が送ったということになっている。しかし、考えるまでもなくこれはおかしな話である。第一に、聖徳太子がタリシヒコ(アマ・タリシヒコ)となぜ名乗ったのかということ、第二に、そもそも聖徳太子は皇太子であって王ではないのである。
4.1.2 阿毎多利思比孤(アマ・タリシヒコ)は国書に書かれていた名前
この点について、井沢元彦氏は著書「逆説の日本史」において、以下の主旨で説明している。
いまでもそうだが、古代において貴人の実名を口にすることはできなかった。そのため、使者は隋の役人に王の名前を聞かれて、「われわれはアマノタリシヒコとお呼びしています。あるいは、オオキミと呼びます」と答えた。それを聞いた隋の役人が姓名をアマ・タリシヒコ、王を指す言葉をオオキミと記録したのであろう。
確かに、古代の中国文化圏において、皇帝の実名を呼ぶことが不敬とされたことは事実である。例えば、日本でも広く信仰されている「観音さま」の本当の名前は「観世音菩薩」である。この「世」がなぜ消えたのかというと、唐の二代皇帝の実名が「李世民」であったため、ちょうど日本に仏教が広まるころ「世」の字が使えなかったからなのである。
しかし、使者が実名を呼ぶことが不敬だから、倭国王の名前が不明であるという説明はおかしい。使者が口頭で説明をするだけならば成り立つかもしれないが、倭国から隋には例の「日出づる処の天子」の国書が送られているのである。確かに、最初の朝貢である開皇20年(西暦600年)の時には国書を送ったとは書いていない。だが、大業3年(607年)の時には国書が送られていると記録されている。
国書である以上、差出人の名前と肩書きが書かれていないことは考えられない。差出人の肩書きとして「阿輩○弥(オオキミ)」、名前が「阿毎 多利思比孤」と書かれていたから、姓はアマ(阿毎)、名はタリシヒコ(多利思比孤)、オオキミ(阿輩○弥)と号す、と隋書に記録されたと考えるのが自然である。
いまでも、天皇陛下の署名・捺印は「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」と呼ばれており、あからさまに陛下のお名前をお呼びすることはない。しかし、国事行為として行われる際の御名(ぎょめい)、つまり天皇陛下の署名には、当然のことながら陛下のお名前が書かれている。それと同じことである。
さて、隋の前に倭国が中国に朝貢したのは、5世紀の中頃、南朝の時代である。その時代にもいわゆる「倭の五王」が国書を送った。その際の差出人名は、例えば「自ら倭国王と称し、正式な任命を求めた」とあるくらいだから、肩書きとしては「倭国王」、名前は「讃」とか「武」であったと考えられる。
それに対して約150年後の隋の時代には、「倭国王」に任命してくれとも言わないし、中国風の名前も名乗っていない。このことは、国家意識の芽生えという観点から説明されることが多いが、当時としてはかなり勇気のいることであったのは間違いない。
おそらく、アマ・タリシヒコの目には、「大国とはいっても、隋はつい最近できた国だ。わが国の方が歴史は古い。それに、いつまた征服されて違う王朝になるか分からない」と映っていたのではないかと思う。それが、対等な国同士のような国書を送る背景にあったのだろう。
さて、そのアマ・タリシヒコが聖徳太子であるという通説は納得できるものなのだろうか。
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