京都のこの時期は祇園祭である。昔は京都市内に使い勝手のいいホテルが少なかったし、祇園祭ともなると満室かバカ高いのでほとんど行ったことがない。関西に転勤していた頃2度ほどあるはずだが、もう40年近く前なのでほとんど覚えていない。
京都に出かけたのは圧倒的に冬が多い。「京の冬の旅」という国鉄と京都市のタイアップ企画があり、普段見せてくれない国宝の特別観覧などがあったのである。以下は2012年9月の記事。出張があったので珍しく夏に行った。
その頃になると、全国チェーンのビジネスホテルが京都市内にもかなり目立つようになり、予約も取りやすくなった。そして季節柄、「百鬼夜行展」が高台寺で開かれていたのである。
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先週は京都に出張だった。若干の自由時間ができたので、近場のお寺さんでもお参りしてこようと思っていたら、宿泊したホテルに「百鬼夜行展」のポスターがあった。8月31日までとあるので最終日だし、高山寺は短時間では無理だが高台寺なら駅からそれほど遠くはないので、行ってみることにした。
高台寺は、豊臣秀吉の正妻である北政所ねねが晩年を過ごした寺として知られている。祇園・八坂神社と清水寺の間、東山の中ほどにあたる。受付で拝観券を買ったときに、「百鬼夜行の屏風絵か何かを展示してあるのですか」と尋ねたところ、「巻物を展示してあります」とのお答え。境内には、妖怪の提灯が下げられている。なるほど、そういうことですか。
考えてみれば、百鬼夜行といえば今昔物語の安倍晴明に代表されるように平安時代。高台寺は安土桃山から江戸時代だから時代が6~700年ほど違う。名前の似ている栂尾・高山寺が鳥獣戯画で有名だから、早合点してしまったようだ。ともあれせっかく来たのだから、ねね様の時代に思いをはせることにしよう。
メインの百鬼夜行絵巻物は、受付を入ってすぐの庫裏を仕切って展示してある。古いものもあるが現代に作られたものもある。古いものはおそらく江戸時代の製作なのであろう、紙が黄ばんで絵の具も薄くなってしまっている。銘が書かれていないのは著名人の作でないためだろうか。一方で現代作は色鮮やかであるが、今風の妖怪のようでもある。
そも百鬼夜行とは何だったのか考えるに、もとは暗闇を光る虫とか燐の発光による自然現象、夜行性の獣を擬人化したものだったと思われる。いまと違って、大都市・平安京といっても街灯があったり高層ビルの灯かりがあったりした訳ではなく、日が暮れると月明かりだけである。猪やオオカミ、鹿、ときには熊も出ただろうから、現代で言うなら日没後の山の中にいるようなものであっただろう。
だから、平安京に百鬼が夜行したのは人通りが少なかった平安時代が主であって、応仁の乱から戦国時代になるとそういった話はなくなる。この時代には夜討ち朝駆けが普通であったから、百鬼ではなく人間が夜行していたということである。
展示の説明では「百鬼とは付喪神(つくもがみ)のこと」と書いてあったのだが、付喪神とは器物が魂を持ったものだから、時代的には平安時代より後になる。私が思うに、これはオリジナルの百鬼夜行に、物は大事に使わないといけないよという精神訓話的な要素が加わったものではないだろうか。ある意味、十王信仰(閻魔大王とか地獄の発想)と共通したものがあるように思う。
24時間光のない時間はない現代に百鬼夜行はなく、あるのは都市伝説だけである。逆に考えると、百鬼夜行は1000年前の都市伝説であったのかもしれない。
これを見て来てしまった百鬼夜行展ポスター。
こんな感じで百鬼が夜行しているのですが。
さて、高台寺のメインは北政所である。折しもコリアンの観光客の団体が見学中であったが、秀吉ゆかりの寺を見学するというのはいかがなものだろうか。もしかしたら由来を調べてなかったのだろうか。何しろこの寺には、秀吉ご渡海のために製作された船の天井から移築したという建物もあるのである。
下の写真の石庭は、住職がお勤めする方丈の前庭である。見えている門は勅使門であり、天皇の勅使しか使えないものである。左上にちらっと写っているのは霊山観音(りょうぜんかんのん)。こちらは第二次大戦後(京都で戦後というと応仁の乱の後という意味になるそうだ)に建立されたもので、高台寺とは直接の関係はない。
庫裏・方丈を出て少し高い場所に、霊屋(たまや)がある。ここには秀吉と北政所の像が安置され、北政所は像の真下に埋葬されているそうである。最近、北政所ねねの注目度がそれほどでもないのは、大塚寧々と神田うのの差だろうか、それとも太閤記のような出世物語に世間の関心が向かなくなったせいだろうかなどと考えつつ参拝する。
(ちなみに、神田うのの「うの」は持統天皇の本名。他に歴史上有名な女傑といえば北条政子であるが、やんごとなき方と読み方が同じため昨今は敬遠されているようである。)
豊臣氏滅亡後も北政所が徳川幕府から丁重な扱いを受けたのは、北政所が淀殿・秀頼と一線を画し、どちらかというと家康寄りであったからとされている。もともと北政所は秀吉より身分的にはずっと上であり、秀吉が出世の足掛かりとしたという見方もあるくらいだから、秀吉の妻だから豊臣家に味方するとは限らなかったのであろう。
あるいは、当時においては、天下統一は家康も含めた織田グループの成果であって、秀吉の個人的功績だけによるものではないというのが暗黙の了解だったような気もする。日本人の傾向として血縁カリスマの重視があげられるが、信長から秀吉、家康に至る権力継承においては血縁が必ずしも重視されなかった。
霊屋は少し高くなっているので、高台寺の全体が見渡せる。結構歩いたような気もするのだが、よく見ると敷地全体としてそれほど広い訳ではない。それでも、池があったり木々を植えて見通しを効かなくすることで、敷地以上に広く感じさせるというのも、日本建築・日本庭園の特質である。
いずれにしても、平清盛から足利家、秀吉・家康に至る数百年の歴史が共存している京都は、非常に奥が深い。できれば庭でも見ながらゆっくりしたいのだが、何しろ暑いのが京都の難点である。吹き出す汗をふきながら冷房の効いたバスへと急いだのでありました。
高台寺方丈の前庭。季節が良ければじっくり見たい所なのですが、京都の夏は暑いのです。
重要文化財・霊屋(たまや)には秀吉と北政所ねねの木像がある。その地下には北政所が埋葬されている。
社寺古墳の探訪記、ご興味のある方はこちら。