先週、福島原発の処理水を海に投棄する作業が始まった。
薄めたとはいえ、地中に投棄するとどこから井戸水に流れるか分からないから、1km先の海中に捨てるしか方法はない。延々とタンクを増設する場所もないのである。
だったら日本の海産物は買わないという国が当然出てくることになり、その経済的損失も原発被害のうちである。そもそも、最初に防波堤をちゃんと作っておけば何の問題もなかったのだ。
以下は大震災直後の記事。もちろん、2011年3月である。
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一昨日(3月11日)発生した大地震は、成田空港近隣のわが家でもまだ余震が続いている(いまも)。昨晩も携帯で受信した緊急地震速報のブザーで、何度も起こされた。今回の地震では、東北地区を中心に相当の被害があり、また首都圏でも帰宅できないなどかなり影響を受けられた方もいらっしゃったはずで、深くお見舞い申し上げます。
ようやく体力的にも落ち着いてきたし、今日はあまり外に出ない方がよさそうなので、忘れないうちに今回あったことを書いておこうと思う。
さて、3月11日は、たまたま何ヶ月に1度しかない夜勤の日で、なんとこの日はホテルを予約していた。一方で、午前中は免許の書き換えに行く予定にしており、何時にホテルに入れるかは不確定であった。
結果的には午後2時にはチェックインできて、午後2時46分頃の地震発生時には部屋でのんびりしていた。もし、免許センターで時間がかかっていたら移動中の電車の中で地震に遭っていたし、いつものように東横インを予約していたら、会員でもチェックインは3時からなので部屋にはいられなかったので、考えてみればかなり危ない橋を渡っていたことになる。
出社は4時過ぎなので、スーツを脱いで下着姿で仮眠していた。そこに、ぐらっと第一波が来た。あっ地震だと思ったが、そのまま横になっていた。ところが、次に来た第二波は尋常ではない。さすがに起きて窓を開けるが、その間も揺れ続けていた。揺れの強さはそれほどではないように思ったが、こんなに長く揺れ続けるのは初めてのことである。
ホテルの部屋は9階。目の前に坂があるのと、隣のビルの屋上が見えるので、それほど高くは感じられない。地震直後に外を見ても、特に普段と変わったところは見られなかった。JRの駅の方向も見たが、こちらも普通に人が歩いている。耐震ビルだと揺れが長く大きく感じられるので、そのせいかと思った。この頃になって、館内放送で「大きな地震がありましたが、心配ありません」とアナウンスが入った。
私の経験した中で最も衝撃が強かったのは24年前、1987年の千葉県東方沖地震で、公称で最大震度6、東京の震度は4と記録されているが、体感的にはそんなものではなかった。当時の勤務先は日比谷公園に面していたのだが、地震の瞬間公園中の鳥が一度に飛び立ってすごい光景だったのを覚えている。
家でもまともに立てないし歩けないほどの震度だったそうで、この頃開業したての東京ディズニーランドをはじめとする東京湾岸地域では「液状化現象」というのが話題になった。幸い人的被害がほとんどなかったため、災害史上ではあまり有名でない地震ではあるものの、私にとっては最も印象に残る地震であった。
NHKをつけてみる。震源は宮城県の東方海上で、午後3時には3mから6mの津波が来ると大津波警報が発令されている。震源が東北だから、第一波と第二波の間に時間があって、しかも長く続いたように感じられたのだろうと納得。ただ、3時を過ぎても入ってくる情報は50cmとかそんなもので、津波の大きさはそれほどではないようだ。いつものことと思ったが、実際はそんなものではなかったことが徐々に明らかになる。
それにしても、余震ではしつこいくらいに鳴り続ける携帯の地震速報が、最初の地震の時は鳴らなかった。首都圏から遠く離れていて、ということはP波とS波の間隔が開いていて、観測史上最大のマグニチュードでも予報できなかったら、一体どういう地震で速報できるのだろうか。全く、予算の無駄遣いでありこういうものこそ仕訳けすべきであろう。
震災翌朝のコンビニ。おにぎり、パン等の棚は何もなくなってしまいました。牛乳と野菜ジュースはなぜかありました。
エレベーターが止まっているので、非常階段を歩いて下りて、時間よりも早めに職場へ。こちらもエレベータが止まっているので、10階までなんとか歩いて上がる。途中、JRの駅を通ったら、吹き抜けの天井に取り付けられているライトの部品か何かが外れていて、その下が立ち入り禁止になっていたものの、びっくりするほど人があふれている訳ではなかった(後から、帰宅時間の混雑がNHKで映ったときは、そんなもんじゃなかった)。
真夜中まで仕事で、地震で起こった通信障害やスケジュール変更への対応。その間、NHKで最新情報が逐次入ってきて、津波は、50cmとか3mとかいうレベルではないことが判明した。また、首都圏の交通機関は当日中の復旧が絶望的で、TVでは無理に帰宅しないようアナウンスしている。意外だったのは、携帯電話が通じにくかったのに、バソコンでのインターネットにはほとんどストレスがなかったこと。日本のインフラ環境はすばらしい。
仕事を上がった真夜中には、人どおりはさほどではなかったものの、駅近くのビルには新聞紙を敷いて座り込んでいる人がたくさんいる。ホテルに帰ると、ロビーにもたくさんの人で、臨時に出された椅子に座っている人だけでなく、床にそのまま座っている人もいた。自分だけ部屋があるのは申し訳なかったけれど、キーを借りて部屋へ。
部屋へ戻ってまもなく、「ただいまから、暖房とお湯が使えます」という館内放送が入る。なんと、この時間までシャワーが使えなかったらしい。ますます申し訳ないと思いつつ、シャワーを浴びてベッドへ。東京で働いている家の息子は、途中まで歩いたものの夜遅くなってしまい、どこかの学校が開放されたところに泊まったということで、エアマットと水、ビスケットが用意されていたそうだ。
余震と緊急地震速報のブザーであまり眠れなかったけれど、5時にはホテルを出て再び職場へ。夜中より多くの人がロビーにいたのは、おそらく隣のファミレスに閉店までいた人達であろう。3、4時間とはいえベッドに横になれたので、かなりリフレッシュできた。それに、どこに泊まるかという不安がなかった分、そうでない場合とは全然疲れは違うはずである。
びっくりしたのは、朝食を調達しようと寄ったコンビニに、パンやおにぎり類が全くなかったこと(前回の写真)。吉野家も他の牛丼屋、そば屋も、「品切れにつき閉店とさせていただきます」の張り紙が張られている。とりあえず、コンビニに残っていた水関係を多めに調達する。
職場にいる間に、朝にはあまり本数が動いていなかった交通機関も、午後までには少しずつ動き出した。私の通勤経路は北総線・京成線・都営地下鉄・京浜急行が相互乗入れしているのだが、北総+京成以外は細切れ運転であるため、帰りはいつもより1時間以上多くかかったものの、さほどの問題なく家に帰ることができた。
とはいえ、多くの人達が帰宅難民になっているのに、短時間とはいえホテルで休めたのはたいへん恵まれていた。私の職場には、金曜日は午後半休なので地震前に家に帰ったというすばらしいタイミングの方もいらっしゃったのだが、それはそれとしてもう若くはないので、あまり体力的に負担になることはできないのである(実際、土曜の夜から日曜日は寝っぱなしであった)。
改めて、被災された方々、金曜日帰れずに難儀された方々にお見舞いを申し上げたい。
ご興味がある方、当時の記事はこちら。