006 資格試験完結編(危険物甲種) [Dec 13, 2017]

1.最後の難関、危険物取扱者甲種

ポリテクセンターに通って、この歳になって資格をいくつか取った。残念ながら再就職の役には立たなかったが、脳の使わなかった部分を活性化できたと思っている。これからの生活において、おカネよりも重要なのは心身の健康を保つことで、そのためには有形無形のメリットがあったものと確信している。 “006 資格試験完結編(危険物甲種) [Dec 13, 2017]” の続きを読む

058 新聞もTVもニュースはストレスの元になるだけ [Nov 29, 2017]

今月初旬のブログで新聞をとるのをやめたことを書いたのだけれど、これには予想しなかった意外な効果があった。余計なストレスが少なくなったことである。費用対効果とか節約志向が新聞をやめた主たる動機なのだけれど、実際やめてみると、新聞から入ってくる情報は99%雑音でありストレス源であったことがたいへんよく分かった。ありがたいことである。 “058 新聞もTVもニュースはストレスの元になるだけ [Nov 29, 2017]” の続きを読む

005 新聞をとるのをやめた [Nov 13, 2017]

先月一杯で契約が切れるのを機に、新聞をとるのをやめた。

社会人になってからずっと続けて来た新聞の宅配だけれども、このところ紙面の半分以上が広告だし、記事もほとんど読まなくなっていた。奥さんからも、「○○さんも△△さんも新聞やめたよ。その分食費に回してくれたらうれしいな」ということだったので、半年前から解約は既定方針だった。もちろん、やめたからといってすぐに困ることはない。

最近までとっていたのは読売新聞だが、例の事務次官歌舞伎町通いの記事にみられるように官邸発表の垂れ流しなのでたいへん不愉快だし、巨人の記事にもフィギュアスケートの記事にも興味はない。アメフトとボクシング、朝のテレビ体操と天気予報くらいしか見ないからテレビ欄もいらない。もともと朝刊だけとっていたのだけれど、それすら苦痛になるくらいの体たらくだった。
 
最近では、人生相談とスーパーの折込チラシしか見ていなかった。その人生相談もマンネリだし、久田恵を除いて読む前からどう回答したのか分かるくらい底が浅い。昔、朝日に載せていた車谷長吉とまでは言わないが、少しは刺激がないと読む価値がない。安売りチラシだってネットで入手できるし、そもそもチラシを見ないことでスーパーに行かなければ最大の節約効果がある。 
  
振り返ってみると、サラリーマン生活の初期には一般紙と日本経済新聞、日経金融新聞の3紙をとっていたから、新聞代だけで月に1万円を超えていた。当時はネットなどないから、株価を知るには証券会社の店頭に行くか1日に2、3回しかないテレビ・ラジオの株価情報、あとは短波放送しか手段がなかった。1日遅れの情報だってそれなりに価値はあったのである。

ところがいまや、昔であれば証券会社の店頭で得られた以上の情報がネットから入ってくるし、個別銘柄の動きはもちろん、オプションや先物といったデリバティブの情報だってリアルタイムに入手できる。わざわざ1日遅れの情報を新聞で見る必要はない(それ以前に、その業界からリタイアして久しい)。

一時期、競馬や公営競技に関心があった頃はスポーツ新聞もとっていた。その当時は、わずかな間でも情報から離れると挽回不能になってしまうという恐怖感があったが、いまとなってはどうということはない。ジャパンカップだって日本馬がなかなか勝てない頃が一番面白かった。いつも日本馬が勝つのでは天皇賞や有馬記念と同じである。

そんなこんなで、長らく見続けてきた新聞だが、もう宅配でとることはないだろう。家は老夫婦だけだが、奥さんいうところの新聞をやめた家の中にはまだ子供が同居している家もある。それでも、いまの若い人達はネットとスマホで用は足りるようで、新聞をやめることにそれほどの抵抗はないようだ。

おそらく、こうした動きは加速することはあっても、とどまることはない。そもそもネットと新聞では情報の早い遅いに決定的な差があり、しかも古新聞が残るので環境にも優しくない。昔は新聞配達というとおカネが必要な若い人の最後の手段だったが(山口百恵だったか、子供の頃に新聞配達をしていたはずである)、そういう時代でもなくなった。

ここ数年ということはないだろうが、いずれ新聞宅配というマーケットは消滅してしまうだろう。現在、多くの雑誌が廃刊あるいはネット化されているが、新聞もいずれ同じことになる。新聞社の多くは民放テレビ局と系列化されているが、テレビ局だっていつまで続くか分からない。そもそも人口がどんどん減るのに、売上増などと言っている方がどうかしているのだ。

[Nov 13, 2017]

370 三十七番岩本寺 [Mar 30, 2017]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

第六次お遍路2日目の朝になった。移動翌日の朝は、これから一日中歩きになるため、若干の緊張感がある。そして、この日の行程は岩本寺までで、大坂遍路道が工事中で通れないという情報もあったのでそれも気になっていた。

そもそも真念「道指南」による久礼から床鍋までのルートは「そえみみず坂」である。久礼から少し戻り、北を流れている長沢川を遡る。ただ、現在ではあまり使われないルートで、道がやや荒れているとの情報もある。大坂遍路道は一本南を流れる大坂川を遡るルートで、山の中を歩く距離が最短で済む。ただし、森林組合の作業をしているため通行できないという情報もあった。

その場合は途中で国道に迂回しなければならないが、見たところ特に注意書きもないので谷川に沿ってゆるやかに登って行く。道は舗装道路だし人家はほとんど見当たらないのに、三相三線の電線(この区切り打ちの時期ちょうど職業訓練中で、そのあたりを習っていたのだ)が2組頭上の電柱に続いているので、この先それなりの施設があるのだろうと思って進む。

土佐久礼から30分歩くと、集落が現われた。コミュニティバスの時刻表も貼ってある。こちらの集落を奥大坂というのだが、へんろ道を歩いているとこうした集落を通ることがよくある。学校はどうしたのだろうとか、買い物はどうするのだろう、自分だったらどう生活するだろうと考える。

おそらく実際に住んでいる人達はさほどの不便もないのだろうし(それこそネット通販を使えば都会と同じである)、かえってごみごみした都会の生活など送りたくはないだろうが、毎日をここで暮らすとなるといろいろな意味でのタフさが必要となるのではないだろうか。例えば私なら虫がダメである。

しばらく進むと、集落の真ん中に空高く橋脚が立ち上がり、その上を高速道路が通っている。近くまで行くと橋脚に、「この橋は四国で一番高い橋です」と書いてある。ビル10階分では足りないくらいの高さで、よくあんな空中に作ったものである。その高速道路とは別に、山の中腹を迂回しつつ国道が左上にずっと登り勾配で続いている。

最後の民家のあたり、前日「ゲストハウス恵」で隣の部屋に泊まった若者に抜かれた。「どこまで登るんでしょうか」「向こうに見える橋のあたりですかね」などと話をする。彼方に見える橋までさらに標高差200mほどありそうに見えたので、あそこまでは登らないだろうと思ったのだが、実際そこまで登ることになった。ここまではたいして登っていなかったのである。

さて、最後の民家を過ぎても三相三線2組の電線は続いていたのだが、高速道路橋の方向に分かれて行き、電柱も何もない登山道になった。心配していた登山道の補修は終わったようで、通行止めの注意書きもないし迂回の指示もない。しばらく前から砂利道だ。最後の民家から15分ほど歩いたところの川沿いに休憩小屋が現われた。

中を覗くと、リサイクルの応接椅子やテーブルが置いてあって、建設会社や地元有志の協力で作られたことが書かれている。小屋の向こう側にトイレもあった。ありがたく休ませていただく。

小屋の中には人生訓がワープロ打ちで掲示されている。「年をとったら出しゃばらず」「知ってる事でも知らんふり」「勝ったらあかん負けなはれ」「お金の欲は捨てなはれ。いくら銭金あったとて死んだら持っていけません」「山ほど徳を積みなはれ」おそらく土地のお年寄りが書いたのだろうけれど、勉強になる。勝ったらあかん、のか。ワープロ打ちというのがまたいい。

小屋のすぐ先から、いよいよ本格的な登山道が始まる。傾斜も格段にきつくなり、ここまで軽とか4WDならなんとか通れる道だったのが、馬でも無理な細い道である。それでも、最近の工事で整備したようで、真新しいピンクテープが道端に等間隔で続いている。スイッチバックの急坂が4つ5つと続き、しばらく川に沿って登ると、再び急坂になる。

登山道入口には「七子峠まで1.0km」と案内があるので標高差を考えても1時間はかからないと思っていたが、40分ほど歩くと予想通り最後の階段が現われて、峠まで登り詰めることができた。七子峠到着は8時55分。宿を出発して2時間半ほどで、久礼八幡宮や休憩小屋に寄ったことを勘案すれば、正味2時間ほどで到着した。


奥大坂から七子峠に向かう。山の中に見えているのは高速道。四国で一番高い橋とのことです。


峠道の奥まったところに遍路休憩所。小屋の奥にトイレもある。


いよいよ急勾配の峠道に向かう。最近まで整備が行われていたため、ピンクテープも真新しい。

七子峠まで登ってしまえば、あと岩本寺までの道にはそれほどの起伏はない。関東に住んでいると、峠の先には登ると同じくらいの下りがあるはずと思うのだが、七子峠は峠まできつい登りなのに、その先は平坦なのである。室戸の金剛頂寺もそうだったが、四国特有の地形ではないかと思う。

峠まで登山道そのものの険しい道が数十分続いたのに、峠から先は水田の続く平坦な道というのは、すごく違和感がある。JRの線路もこの間トンネル続きで標高を上げるのだが、歩くと余計に不思議に感じる。峠からは国道と合流し、休憩所・展望台がある。展望台からは、いま登ってきた谷間の道を久礼の街まで見下ろすことができる。

ここでしばらくゆっくりしたかったのだが、変なじいさんが近づいて来て話しかけてきた。世間一般では「和顔施」といって遍路はあいそよくするものだそうで、普通に対応するしていると、甘く見られたのかずっと話しかけてきて煩わしい。仕方がないのでリュックを背に早々に出発する(どうやら、この先で接待しているので来いということのようだった)。

改めて今回の荷物はというと、10kgのリュックを最初から最後まで背負い続けての歩きである。前回のようにリュックをホテルに預けて身軽にという訳にはいかないので、なかなかハードなのであった。中でもこの大坂峠越えは難所とされているので、クリアしてほっとしたことは確かである。もちろん、ここから先さらにつらい道のりが待っていたのであるが。

さて、七子峠から五社まではほぼ国道沿いの一本道である。12km先の道の駅「あぐり窪川」で岩本寺への道と分かれて四万十川に出る。とりあえず目指すのは道の駅である。国道は時折トラックが通るのでへんろ道の表示のある田舎道に入ったのだけれど、家並みの間を曲がりくねっていてかなり距離をロスするような気がして、早々に国道に戻った。

国道に戻って間もなく、「甦る仁井田米の里」の石碑が建っている。平成十八年建立と比較的新しいもので、1997~2004年に区画整理した結果、全国コンクールで優勝するくらいおいしい米ができるようになったという内容が記されている。四国の米というとそれほど味はよくないという印象があるが、よく考えるとこのあたりは四万十川の上流であり、水は間違いなくおいしい。であれば、米もおいしいはずである。

平坦な道はゆるやかなカーブを描きながら続く。山並みは意外と近くまできているが、川に沿っているので大きな起伏はない。大きな荷物を持つ身には、ありがたいことである。国道の表示板に「気温16℃」と出ている。前回(2016年秋の牟岐~須崎)とは打って変わって涼しい気候で、これもありがたい。

七子峠から約1時間、JR駅のある影野近くの休憩小屋「雪椿」でひと休み。トイレはないが、東屋があって木のテーブルと椅子が置かれている。テーブルの上には、この先にお接待の休憩所があって、トイレも飲み物もありますなんてことが書かれている。もしかすると、峠のじいさんが言っていたのはここのことかもしれない。

「雪椿」休憩所からも、時折左右に山が迫る間を、ほぼ平坦な道が続く。JRの駅でいうと影野から六反地、仁井田と進み、窪川の手前に道の駅「あぐり窪川」がある。遍路地図でみると7kmほどあるのだが、「雪椿」から約1時間半、意外に早く11時半に「あぐり窪川」に到着した。

さて、大善寺のところで書いたように、今回の区切り打ちはしっかり昼食をとる方針である。「あぐり窪川」はかなり規模が大きくてレストランも広かったが、それでもテーブルはほぼ満席であった。1人だったので合席用の大きなテーブルに案内されて、とんかつ定食をオーダーする。同じテーブルにほぼ同年輩のお遍路姿の人がいて、今日は岩本寺ですかなどと話をした。

食事の後はアイスクリーム屋さんに行き、ベンチに座って食べる。このあたりにこういう施設が少ないのか、ひっきりなしに車が入ってくる。観光客というよりも、地元の人とか工事関係者のように見える。道の駅には結局1時間ほどいた。あとは五社に行って岩本寺だけであり、あまり早く着いても宿坊に入れてもらえないかもしれないから少しゆっくりしたのだ。


七子峠を登りつめると、その先は広々とした平地。四国でよく見る地形だが、登ったのに下りがないのは何だか違和感がある。


七子峠から1時間、影野にある雪椿休憩所。東屋・ベンチのみ。


道の駅あぐり窪川。売店・レストランはじめ、施設が充実している。五社方面へのハイキングコース案内あり。

仁井田五社は江戸時代の札所である。岩本寺からは四万十川を渡った山側にあり、霊場記の絵図を見ると五つの嶺がご神体だったようで、それぞれに鳥居がある。

この仁井田五社、もともとは古墳だったともいわれ、 社伝によると伊予の豪族・越智玉澄の創建という。越智氏は後に河野水軍となる一族であるが、例の「遍路の元祖」右衛門三郎も河野氏ゆかりとされるように、四国遍路との関わりが深い。五十五番札所三嶋宮(南光坊)も河野氏の氏神である。

遍路地図だけでは心許ないので、道の駅入口近くにあるハイキングコースマップを見る。五社にお参りするにはここから国道を離れて南西に向かうようだ(例によって遍路地図は、このあたり北が上でないのでたいへん分かりにくい)。時間的には1時間かからずに着けるようなので、あまり急がなくてもよさそうだ。12時半、道の駅を出発する。

しばらく平和な田舎道が続く。ところが5分ほど歩くと道は登り坂となり、林の中に入って行く。左側は川に向かって斜面となっており「ゴミ捨て禁止」の立札が何回か現れる。こうした立札は人通りのない道によく立てられているので、ちょっと心配だ。そういえば道の駅からこちら、誰ともすれ違わない。

資材置き場のような広場で右に折れると、下り坂となる。どうやら低い山をひとつ越えたようだ。遍路地図だとよく分からないような山だが、七子峠からここまで平坦な道が続いてきたのでちょっときつかった。ここからは四万十川に沿って五社まで下り坂となる。ちなみに、遍路地図等では四万十川と書いてあるが、橋の表示をみると地元では渡川というらしい。

眺めが開けて、前方に斜めの稜線が立ちはだかる。妙な稜線で、鋸の歯のような凸凹が5つある。あるいは、あれが五社のもともとの発祥だったのかもしれない。きっとあの山の麓が五社に違いないと想像しながら歩くと、まさにそのとおりだった。山裾を回り込んで、最後は橋を渡った直線道路が五社まで続く。1時10分着。

五社は高岡神社、仁井田明神とも呼ばれ、5つのお社の総称である。中央にある中ノ宮は大山祇尊(おおやまつみのみこと)をお祀りしており、これは五十五番三嶋宮と同じである。このあたりの民家の門には三嶋宮のお札が貼られているが、あるいはその関係かもしれない。正面の鳥居に「高岡神社中ノ宮」の扁額があり、拝殿と社務所が置かれている。

小さいながら休憩ベンチも置かれているが、私がお参りした時には誰もいなかった。手水場のところに「元三十七番札所福円満寺の跡」と彫られた石碑が立てられているが、四国遍礼霊場記によると江戸時代の別当寺はすでに岩本寺であり、福円満寺は寺伝によると弘法大師が五社に置いた寺である。明治までは神仏混淆なのだから「元三十七番札所五社の跡」でいいと思うが。

高岡神社中ノ宮を真ん中に、左に2つ、右に2つ大きな鳥居が置かれている。高岡神社のすぐ脇に、もう一つやや小さめの鳥居があるが、神様のお名前をみると五社とは別の神様のようで、あるいはこれは村の鎮守かもしれない。まず中ノ宮にお参りする。神様だから、読経はせずに柏手を打つ。続いて高岡神社の脇から左の二社にお参りする。

いちばん左のお宮は丘のいちばん上に建てられていて、石段も一番長い。扁額には「森ノ宮」と彫られていて、頂上に建てられた拝殿はかなり古くなっているけれども、それでも江戸時代からずっとあるものではなく、戦後間もなくくらいに建てられたもののように見えた。二つ目のお宮「今宮」は、森ノ宮よりは低い位置にある。拝殿の古さは森ノ宮と同じくらいだろうか。

続けて右の二つのお宮にお参りする。「今大神宮」は道沿いの鳥居からずいぶんと奥の方にあり、よくある古いお宮である。拝殿までの参道には民家や納屋が並んでいて、霊場記挿絵のように鳥居、拝殿、本殿がすぐ近くにある訳ではない。一番右が「東大宮」、こちらは鳥居からすぐに石段そして拝殿があり、霊場記挿絵の雰囲気に近い。それぞれお参りしてから中ノ宮に戻った。


あぐり窪川から約1時間。仁井田五社はあの奇妙な形の山の麓にある。


道路際に鳥居が並ぶ風景は、「四国遍礼霊場記」のさし絵のとおり。


仁井田五社中ノ宮。江戸時代はここが札所だった。

さて、中ノ宮まで戻ったものの、依然として社務所には人の気配がない。ベンチとトイレがあるのはありがたいものの、自販機が置かれていないのでペットボトルを補充できない。有名な五社だから売店か自販機くらいあるだろうと考えていたのだが、迂闊なことであった。

よく探すと、社務所の窓の横に「ご朱印は○○様宅でお受けします」と書いてあり、地図も描かれている。せっかくだからお伺いすることにした。いったん鳥居をくぐって道路に出て、往きに通った橋の方向に少し戻ったお宅である。庭に入らせていただき玄関のドアホンを押すと、奥様が現われた。

「神職がおられれば筆で書いていただけるんですが、いまはこれだけなんですよ」とすでに半紙に書かれたご朱印を示される。東洋大師のところで述べたように出来合いのご朱印はいまひとつ歓迎しないのだが、 わざわざ玄関まで呼び出しておいて我儘は言えないのでありがたく頒けていただく。

ご朱印をいただくとちょうど午後2時、こちらには50分ほどお参りしたことになる。往きに通った直線道路を戻ろうとすると、「こんにちは」と声をかけられた。五社でははじめて自分以外の参拝客とお会いしたなと思ったら、前日に久礼の「ゲストハウス恵」で隣の部屋に泊った単独行の男性であった。

彼もまた私と同様の区切り打ちで、この日は大坂遍路道を登る前に抜かれている。岩本寺にお参りして帰ると言っていたが、早く着いてしまったので五社にもお参りしてみたということであった。五つお宮があるので小一時間かかりますよ、ご朱印はこちらのお宅で、などと話をして別れる。

再び橋を渡って、岩本寺へ向かう。遍路地図では窪川駅方向に丘をひとつ越えるのだが、現地の案内板では岩本寺は窪川駅とは別方向に、丘を回り込む川沿いの道を指示している。峠越えの坂道は結構大変だったので、案内板にしたがって川沿いの道を進む。

このあたり、四万十川は中流といっていいくらいの川幅があり、傾斜もなだらかになっている。とはいえ川面はごつごつした岩であり、その間を水が流れていく。川の流れもゆったりしていて、清流四万十川という雰囲気ではない。やがて道は川と離れて畑と農家が続く農道となる。依然として自販機はなく、道の駅で仕入れたペットボトルも残り少なくなってきた。

丘をぐるっと回り込んで窪川の街が見えてきたあたりで、ようやく自販機がみつかった。コカコーラではなくダイドーの自販機というあたりがローカルである。それでも150円でペットボトルが買えることに感謝しなくてはならない。道の駅を出てから五社経由ここまで5km以上、お店も自販機もない地域が続いたのであった。

自販機の少し先で、これまでの農道から車の通る太い道路に出た。ここから岩本寺までは大きな道案内があるのでその通りに進む。太い通りをずっと進んで右折し、また少し先で右折する。これじゃ戻ることになるなと思ったら、同じ郵便局の正面と裏口を両方通っていた。どうやら車用の案内だったようで、少し遠回りしてしまったようだ。

みかん販売店の角を左に折れると、岩本寺の山門が見えてきた。時刻は午後3時少し前。これからお参りすれば、おそらく宿坊に入れてもらえる時間になるはずである。この日の歩数は44,927歩、歩いた距離は24.9kmだった。


五社参拝の後は、四万十川に沿って岩本寺に向かう。橋の表示は「渡川」となっていた。


窪川の市街。ここがJR土讃線の終着駅で、この先中村までは土佐くろしお鉄道になる。


みかん屋さんの角を曲がると、岩本寺の山門がすぐそこに。

 

この日の泊まりは岩本寺である。宿坊に泊まるのは、十楽寺、鯖大師、金剛頂寺に次いで4寺目になる。通りを曲って奥まったところにある山門はそれほど大きいものではないが、山門をくぐった境内の懐は広い。

入ってすぐ右手に鐘楼と大師堂、左手に納経所がある。奥に進んで右の本堂は白・赤・黄・緑・青五色の幔幕で囲われており、左奥が宿坊である。突き当たりは土手になっていて、その上を線路が走っている。JR土讃線は窪川までなので、ここは土佐くろしお鉄道になる。

まず、本堂と大師堂で読経しご朱印をいただく。こちらの本堂は天井画が有名だが、翌朝のお勤めで見ることができるはずである。八十八札所用の納経帳を使うのは半年ぶりになる。ご朱印係のおばあさまと、「さっきの人は北海道から来て暑いと言っていたけれど、こんなのは寒いくらいですよ」なんて話をする。その時は言わなかったが、私もむし暑いと思っていたのだった。

宿坊の受付をお伺いすると、「宿坊でしたら売店の方に誰かいるはずですよ」と言われて宿坊入口にある売店で待つと、ほどなく受付の人が現われた。まだ3時半過ぎだけれど、問題なく入ることができた。すぐ後から何人か続けて受付したので、今回はひとりということはなさそうである。

部屋は和室の6畳。すでに布団が置かれていて、その上に浴衣まで用意されている。浴衣があれば全部着替えることができるのでありがたい。早速着替えて、何はともあれコインランドリーに向かう。前日のゲストハウス恵で洗濯できなかったので、2日分の洗濯物がたまっていた。洗濯機・乾燥機とも3台で、一番乗りだった。

洗濯物を洗濯機に放り込み、部屋に戻って改めて荷物の片付けをしてから、午後4時開始のお風呂に向かう。この遠征はじめての大きなお風呂でゆっくりする。汗を流してさっぱりする頃には、洗濯物を乾燥機に移す時間になる。ちょうど洗濯機・乾燥機が女湯の入口にあるものだから、この時間に到着した女性が入ってきた。

「すみません。すぐに移し終わりますから」「いいですよ」なんて立ち話をした人が、この区切り打ちでは何回も会うことになる「自称時速3kmの彼女」なのであった。もちろん、この時にはそんなことは知らなかったのであるが。

食事は午後6時から。川魚のおさしみ(鱒かな?)があって、鶏のフライとコロッケがあって、かぼちゃの煮つけ、切干大根、ほうれん草のおひたし、酢の物がある。個室で浴衣も付いて、これだけの食事が出て1泊2食6,800円だから、格安である。前後の行程から考えて窪川で宿をとらないと厳しいから、ありがたいことである。

ビールは瓶で、日本酒も「土佐鶴」を1升瓶から注いでくれる。前の日ゲストハウスではアルコール抜きだったので、最初にビール、続いて土佐鶴をお願いする。食堂に集まったこの日の宿泊客は8名。これまで経験した宿坊で最多の同宿者であった。

アメリカから帰省中のご夫婦(奥さんがイリノイ出身とのこと)がいて、一緒に歩いている年配のグループがいて、単独の男性が何名かいる中に、さきほど浴室前ですれ違った女性がいた。単独行の若い女性で、通し打ちでここまで来ているらしい。「私は時速3kmでしか歩けないから」と話しているのが印象的であった。

アメリカから来ているご夫婦は、八十八の順序にこだわらず歩いているそうで、今回は高知を選んだそうである。奥さんは、われわれと話すときは日本語で、旦那さんと話す時は英語というのがおもしろかった。

そしてグループの人達は、「いやしの宿八丁坂」を何とか予約できたと話をしていた。この宿は四十五番岩屋寺の前にあり、まだこれから10日前後かかるはずなのだが、そのくらい前に予約しないと厳しいのだそうだ(区切り打ちで時期は異なるが、私がこの後八丁坂に泊まったのは11泊後になる)。

うれしいことにこの岩本寺ではwifiが使えたので、夕食後は部屋に戻って情報収集。これから先、いよいよ足摺岬まで約70kmの今回の正念場が待っている。そして、予報では翌日、降水確率80%の雨予想なのであった。

[ 行 程 ]
土佐久礼 6:00 →
[4.4km]8:05 奥大坂休憩小屋 8:15 →
[1.0km]8:55 七子峠 9:05 →
[4.5km]10:00 雪椿休憩小屋 10:10 →
[7.0km]11:35 道の駅あぐり窪川 12:30 →
[3.5km]13:10 高岡神社 14:00 →
[2.5km]14:40 三十七番岩本寺(泊)

[Nov 4, 2017]

岩本寺本堂。中の天井には、有名な天井画がある。土手の上を時折、土佐くろしお鉄道が走る。


岩本寺宿坊。整った施設です。1泊2食6,800円はお値打ち。


朝のお勤めを終えると雨。この雨は一日激しく降り続いたのでした。

078 山中TKO負け、ネリのドーピング陽性はうやむやに [Nov 6, 2017]

WBC世界バンタム級タイトルマッチ(2017/8/15、京都)
ルイス・ネリ O TKO4R X 山中慎介

世界的にほとんど無名の挑戦者で、技術的にも負ける相手ではなかったように思われるが、それ以上に山中の衰えの方が大きかった。内山に続いて長きにわたって日本ボクシング界を支えてきたチャンピオンが敗れるのは寂しいが、ともあれお疲れ様でしたの言葉を送りたい。 “078 山中TKO負け、ネリのドーピング陽性はうやむやに [Nov 6, 2017]” の続きを読む

063 浅間嶺 [Oct 1, 2017]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

さて、この秋2度目の山である。お遍路の13泊14日が控えているので日帰り圏で考えたいところだが、前回の本仁田山で朝の電車乗り継ぎが難航するのには懲りた。前泊することも考えたが、それよりも最短経路で現地入りした方が安いし手間もかからないし、荷物も少なくて済む。天気がよくなりそうな週末だったけれども、休日パスは使わずに北総線と武蔵野線で西に向かう。

すると、南浦和あたりで車内放送が言うことには、今しがた西日暮里で人身事故が起こり山手線・京浜東北線は運転見合わせ中らしい。休日パスで都心に向かっていたら、またもや乗り継ぎがうまくいかないところであった。おカネの多寡よりもストレスの多い少ないの方が大切である。

武蔵野線は特に影響なく西国分寺へ。立川から拝島を通って武蔵五日市に着いたのは2017年10月1日日曜日の午前7時40分。すぐに来た藤倉行き西東京バスに乗り、8時過ぎには登山口である払沢の滝バス停に到着した。

歩き始めたのは8時15分で、前回とはほぼ1時間違う。そのせいか電車疲れもほとんどなく、快調に歩を進めることができた。移動時間が3時間と4時間ではえらい違いだと実感する。天候は晴れ、風もほとんどない。朝、家を出る時には肌寒かったけれど、日が昇って暑いくらいになった。

バス停からは払沢の滝方向の標示に沿って進み、途中で右手に分かれて浅間尾根方向に折れる。車も問題なく通れる舗装道路だが、傾斜がかなりきつい。昨年歩いた陣馬高原下から和田峠とよく似ている。違うのは30分ほど歩いたところに集落があり、洗濯物も干してあって人がいることは間違いないことであった。ずっと鳴らしていたクマ除け鈴を握って、静かに通り過ぎる。

集落を過ぎると、道はさらに傾斜を強める。依然として舗装道路であり、電柱もずっと続いている。しかも3相3線の電線とNTTの電話線のフルセットである。この先に何か大きな施設があるのだろうか。1/25000図を見ると車の通り抜けはできないようなのだが。

40分、50分と林道を登って行く。だんだん、向こうの山並みが見通せる高さまで上がってきた。方向からいって、これから向かう浅間嶺かその前の松生山か、いずれにしても平らな山頂が特徴的な山である。あそこまで行けば、待望のなだらかな尾根歩きが楽しめそうである。

林道を峠まで登ると、右から道が合わさってきた。標識によるとそちらが「関東ふれあいの道」で、林道からふれあいの道への分岐を見逃したようである。合流点の少し先に「峠の茶屋」というお店があり、3相3線の電線と電話線はここまで続いていた。しかし残念ながらこの日は営業しておらず、見たところしばらく開いた形跡はない。

峠の茶屋から少し林道を歩くと、水車のあるそば店がある。ここも「本日休業」の札が下がっていたが、この本日というのはいつからの本日なのだろうと思うくらいひと気がなかった。閉じられた門の奥にはテーブルや椅子が寂しく置かれていて、水車だけが山から引いてきた水で動き続けている。断続的に「ぎいっっ」と音がするのがもの悲しげに響いた。

そば店から先、道はいよいよ谷沿いの登山道になる。かつてこの浅間尾根は江戸・甲州間の物資運搬に使われたといわれるが、確かに足下はずっと石が敷いてあって長年使われた道であることが窺われる。ただ、大きな荷車とかが通れる道幅ではなく、傾斜もけっこう急だ。

この道は払沢の滝上流の谷川を詰めていく道なので、かなり上まで水流があってじめじめしているし、深い谷なのでうす暗い。こういうところはやばいなと思っていたら、道の真ん中を蛇が横切って行く。その先には信じられないくらい太いみみずがいる。一休みしたいくらい急傾斜が続いたのだけれど、とても立ち止まれるような場所ではなかった。

相当長い時間緊張して登ったような気がしたが、帰ってからGPSを調べると30分ほどのようだった。ようやく峠の地形が見えてきて明るくなり、尾根上に出た。正直なところほっとした。ひとまずリュックを下してひと息つく。座るところこそないけれども、蛇やみみずがいないだけでもありがたい。


時坂集落から時坂峠の方向を見上げる。陣馬高原下から和田峠への登りを思い出した。


関東ふれあいの道の標示を見逃したらしく、ずっと林道を登って行く。峠の茶屋までもうすぐ。


峠の茶屋まで電線は通っていますが、残念ながら営業していません。

後から1/25000図を見てみると、尾根に出たのは750mの等高線のあたりのようだ。標高650mくらいまでは川の表示はないものの結構な水流があって、蛇やみみずの出現する危険地帯となっていたのである。こわかったからとはいえ、時坂峠550mくらいから休みなしに200mの標高差を登ったのだから大したものである。

ここからは浅間尾根の尾根道なのだが、実際は中腹のトラバース道である。谷から登ってきて次第に進路を西から南に変えるので、明るくなってきた。そして、さほどの標高差を感じさせない。なだらかな坂を歩いていくと、浅間嶺まで400mの標識が現れた。まだ10時半にもなっていない。

今回は人里峠から人里バス停に下る予定にしていて、このルートの所要時間がガイドブックに書いていない。おそらく1時間ほどだろうから、人里峠を12時ちょうどに通過すれば1時半のバスに十分間に合うと計算していた。しかしその1本前は1時間半前なので、いくらなんでもそれには間に合わない。これは、相当のんびりできそうだ。

浅間嶺の休憩広場に到着したのは10時半。払沢の滝バス停からは休憩時間を含んで2時間15分で到着した。これはガイドブックのコースタイムより早いくらいで、前回本仁田山で大苦戦して途中で撤退したことを考えると大成功である。

休憩広場は百人くらい座ってもまだ余裕があるくらい広くて、東屋とベンチ、トイレもある。その時間にはまだ誰もいなかった。きれいそうなベンチを選んで座り、久しぶりにEPIガスでお湯を沸かす。時間があったらお湯を沸かすのも今回のミッションの一つで、実はこのボンベを使うのも2年振りである。無事お湯も沸いて、インスタントコーヒーを淹れる。

コーヒークリーム入りコッペパンを食べながら、温かいコーヒーをいただく。風もなく、天気もよく、言うことのない山日和である。それにしても、こんなに広い土地が必要なほど、かつては人が来たのだろうかと思った。

お昼を食べ終えて、背後にある浅間嶺頂上に向かう。こちらには先客がいた。私と同年配のご夫婦である。こちらにもテーブルとベンチが備え付けてあるが、広さは下の広場よりかなり小さい。しかし展望はまさに雄大という他にない。

右手に大きくそびえるのは、大岳山である。そこから右に下りてきている尾根が馬頭刈尾根、逆方向の尾根は最後に突起のようなピークがある。鋸山である。ついこの春に大岳山から鋸山まで歩いたが、なるほどなかなか着かなかったのも道理で、相当の距離があるように見える。

鋸山のすぐ左手前に小高いピークがあり、そのピークから尾根続きに大岳山と同じくらいの高さの山につながっている。御前山と湯久保尾根である。御前山の向こう側に奥多摩湖があるはずで、御前山のさらに向こうに薄く見えている山並みが、石尾根のはずである。

そして、御前山の手前の谷間や山腹のあちこちの森の切れ間に、小さな集落がいくつか見える。藤原や倉掛といった集落だろうか。ずいぶん山の中にも人家のようなものが見える。今回は時間に余裕があったので、山頂でずいぶんゆっくりすることができた。


尾根に出てからはなだらかな登りが続く。このくらいの道だとすごく安心する。


浅間嶺頂上から北は展望が開けて見事。左奥が御前山、手前に湯久保山と湯久保尾根、右奥にちらっと鋸山。

浅間嶺下の休憩園地。東屋とトイレもある。奥の斜面を左に登ると浅間嶺頂上。

結局、浅間嶺で小一時間ゆっくりして、先に進む。浅間嶺から関東のみちは上川乗に下りて行くが、今回選んだのは人里峠から人里へのルートである。 人里と書いて「へんぼり」と読む。立地的には人里というよりは山里といった方がしっくりくる山の中の集落である。

浅間嶺から人里峠への尾根道は、まさにこれがなだらかな尾根道という感じであった。急傾斜もなく、右手には御前山に続く雄大な山並みを望み、こういう尾根道ならいつまでも歩いていたいと思うような道だった。途中、ひときわ景色の開けているあたりで、巨大な望遠レンズをセットしてカメラを構えているグループがいた。

聞くとはなしに話を聞いていると、向こうの山からパラグライダーか何かで下りてくるところを撮影したかったようで、「しばらく前に下りました」「全然気が付かなかった。見逃したかな」などと話していた。その少し先が人里峠である。この先尾根道は数馬分岐を経て風張峠というところまで続いているのだが、そちらに進むと1時間半くらい下りる道がなさそうなのだ。

人里峠から下る道はガイドブックにあまり記載がないルートなので心配したのだが、最近下草を刈ったようで歩きやすい。そんなことを思っていると林業標識が出て来て、平成28年度というから昨年度に間伐等の作業をしたようである。どうりで道がよく整備されている。

15分ほど進むと雑草が道をふさいでいる状況となり、さすがにここまでは草刈りできなかったのかな、と思った。さらにスイッチバックで標高をどんどん下げていくと、意外に早く人工物、納屋の屋根のようなものが見えてきた。人里峠からまだ30分も下りていない。ここから集落か、これは早く着きすぎるかなと思って下りて行くと、確かに民家である。

民家なのだが、門注のところに注意書きがしてあって「平成29年8月13日、ポツンと一軒家で放送された一軒家です」とある。ポツンと一軒家は見たことがある。私が見た回は、キャンプ場の近くの山の中にアトリエ兼の別荘を建てている芸術家だったが、Googleマップで一軒家を探して訪ねて行くという番組である。ここも放送されたようである。

様子をみるとこの日は誰もいないようだったが、「ご自由にお休みください」と書いてある。なんと急勾配の林の中を電線がつながっていて、東京電力のメーターはデジタルのスマートメーターになっていたから、つい最近も人がいるということである。よく見るとすぐ下まで車も通れる幅の道がつながってきているが、もちろん舗装はされておらず雑草が伸びている。

庭にはレジャー用のベンチが置かれていて、目の前は笹尾根と説明書きがある。標高は700mほどなので、人里峠844mから150mほどしか下りてきていない。庭の奥には400年前から引いているという水場からの水が盛大に出ている。前回の鳩ノ巣林道に引き続き、ありがたく顔を洗わせていただく。

建物の庭に面した側は長さ10mほどはあり、小屋というよりも立派な家である。築100年ほど建っているということで、かつてはここで一家族が暮らしていたのかもしれない。ただ、おそらくは住民はお年寄りで(ポツンと一軒家の住民はみんなそうだ)、食糧を調達するにも病院へ行くにもこの山中では無理だ。急に駆けつけようにも救急車では無理な道である。

時間もあるので、庭のベンチに座らせていただき、笹尾根を望みながら考えた。奥多摩でいうと、丹波天平の高畑集落もそうだし、石尾根の絹笠集落もそうだけれど、かつて林業が盛んだった時期には山に近いところに住まないと仕事にならなかったはずだ。ところが現在では、こういう場所に住むこと自体が難しくなっている。

百年前のように、薪を焚いて燃料にし、排水は畑で有効利用という訳にもいかない。水は自己責任で湧水を利用するとしても、雑排水はどうするのか。奥多摩のように山の下に水源があるような地域では、合併処理槽という訳にもいないだろう。となると、人々が昔の生活に戻らない限り、こうした一軒家はいつかは使われなくなるのである。

しばらくゆっくりした後、再び山を下る。太い道はかなり迂回しているようだったので、標識にしたがって登山道を下る。それでもかなり標高の高いところから人家があって、急な坂道を人里バス停のある谷沿いまで下りて行ったのでした。

浅間嶺から人里峠は気持ちのいい尾根道。右手の植林は多く伐採されていて、谷を挟んで御前山を望みながら歩く。

標高700mほどにポツンと一軒家。林の中から電線が上がってきている。所さんの番組で紹介されたそうだ。

ポツンと一軒家奥の水場は、400年前から引かれているという。この日は水量豊富で、前回に引き続き顔を洗わせていただく。

この日の経過
払沢の滝入口バス停 8:15
9:05 時坂峠 9:15
9:50 750mの尾根 10:00
10:30 浅間嶺 11:15
11:35 人里峠 11:35
12:05 ポツンと一軒家 12:25
12:50 人里バス停
(GPS測定距離 9.3km)

[Oct 23, 2017]

019 ギリヤーク2017新宿公演 [Oct 9, 2017]

今年も体育の日がやってきた。体育の日といえば、ギリヤーク尼ヶ崎師匠の新宿公演である。

4、5年前に「50周年目指してがんばります」と言っていた時には、80過ぎてそんなにできないだろうと思っていたものだが、気がついてみるとあと1年である。NHKの番組以来観客が増えてしまったのは見る側にとってあまりありがたいことではないが、ギリヤーク師にとっては当然うれしいことであろう。

ともかくも、お遍路の日程を遅らせて新宿に向かうことにした。2017年10月9日、体育の日らしく快晴無風絶好のコンディションである。おそらくNHKや新聞の影響で人が増えているだろうから、少し早めに着いたつもりなのだが、開始45分前にはすでに三井ビル55広場は人でいっぱいだった。

昨年確保した前列ブルーシート桟敷席は、すでに三重くらいに列ができてみんな座っている。その外側に55広場の椅子を使って座っている人が二、三列で、師匠が踊る付近から15メートルくらいすでに埋まっている。驚くべきは、会場の後ろにあるベンチやレンガに座って待っている人がいるし、階段や歩道橋上にも観客がいたことである。すでに200人以上になっていたのではないだろうか。45分前に。

こういう場合、考えている間にも場所を取られてしまう。まだ誰も座っていない数少ない椅子を確保した。誰も「そこは私の椅子です」と言わないので、早い者勝ちで私の席である。そうこうしている間にもどんどん人が増える。私の横にも後ろにも人が立った。椅子を確保できたのはラッキーだった。

さて、落ち着いて周囲を見回すと、例の近藤正臣寄贈の幟は、いつものように会場右手に風になびいている。ただ、幟の周囲にいる人はいつも見る人達ではない。どうやらマスコミ関係の人のようだった。集音マイクやテレビカメラのようなものも見える。前回の新宿公演から、急に増えたようである。

さて、昨年のギリヤーク師は、春の関西・横浜六角橋を中止、夏の函館・札幌も直前キャンセルで、新宿が一年振りのぶっつけ本番であった。それに対して今年は、すでに横浜六角橋と、函館・札幌公演を済ませている。昨年は初めての車椅子使用で師匠も慣れなくて苦労したと思うけれど、今年はもう何回か踊っている。安心して見ていられるとは言わないが、そう冷や冷やしなくてもすみそうだ。

その分、アシスタントのキノさんのご苦労は大変なものと想像する。キノさんはもともと師匠の公演を何年も追いかけたカメラの専門家で、師の写真集「ギリヤーク尼ヶ崎への手紙」(ISBN978-4-9908-3410-4 C0720)を出版された他、写真展等も開催している。新宿公演2017で宣伝していたのは別の北海道新聞の写真集。こちらにもキノさんの写真は載っている。

だから以前は最前列でカメラを向けていたのだが、師匠の故郷である函館市の観光大使(だったかな)という縁もあってアシスタント的な役割を果たすようになり、このところの公演はキノさんの助けなしで行うことができない。一方、いまやアシスタントの役割が大変なものだから、キノさん自身が公演の様子をカメラに収めることができない。

これはご本人にとってかなり精神的につらいことだろう。撮影について快く引き受けてくれた師匠への恩返しの意味はあるとしても、キノさんのしたいことはあくまでカメラのはずだからである。いろいろ行きがかりがあってやらない訳にはいかないのだろう。がんばってほしい。

開演15分前、そのキノさんが黒衣姿で登場、以前だったら師匠が自分で運んできたトランクやテープレコーダー、茣蓙などを舞台中央へ運び込む。10分前、オサムさんが登場。舞台右手の前列に位置を占める。2時のチャイムが鳴る。会場は後ろまで一杯だ。400名か500名は来ているはずだ。人の影になって見えないが、誰かが「待ってました」と声を上げ、続いて拍手が巻き起こった。

昨年同様に丸亀製麺の前から、車椅子に乗っての登場である。すでに顔を白く塗り、赤い襦袢・白い羽織、叩きすぎて表が破れてしまった三味線を持ってギリヤーク尼ヶ崎師匠が現れた。黒衣のキノさんがゆっくり車椅子を進め、拍手とシャッターの音、そしてみんながスマホを向けた。2017新宿公演の始まりである。


今年の新宿公演もキノさんの押す車椅子で登場。すでにお化粧済。


舞台に登場すると車椅子から立ち上がり、「じょんがら一代」。片足立ちのポーズも披露。


「じょんがら一代」が終わると早速トーク。ただ、何をしゃべっているのかよく分からない。

車椅子から立ち上がったギリヤーク師は、人垣の中を三味線と撥を手に踊る。距離があるせいで足下までは見ることができないが、動きは昨年よりもよくなっているようだ。片足立ちのポーズも決めて、大きな拍手を受けた。

「じょんがら一代」が終わった後、さっそくトークが始まった。しかし、何を言っているのかよく聞き取れない。「こんな病気になってしまって・・・」と腰に手を当てていることから、病気で満足のいく動きができないという意味のようだ。題目を準備したキノさんがいったん下がって待機するほどトークは続く。

さて、その話の時はいつもの公演の時より離れているので、それで声が聞こえないのかと思っていた。ところが、念仏の後のトークでキノさんがマイクを準備してスピーカー音声で聞いたのだけれど、それでもよく分からなかった。触れの声も以前より小さくなっているので、声量そのものが小さくなっているのかもしれない。

周知のとおりギリヤーク師は心臓にペースメーカーが入っていて、膝は半月板がない。その上パーキンソン病で手足の震えが止まらず、脊柱管狭窄症で背中も曲がったままコルセットが必要になってしまった。パーキンソン病は薬で抑えているということで震えは以前に比べると目立たなくなったけれど、満身創痍に違いはない。出て来れるだけでも大したものである。

かなり話した後、ようやく次の踊りに移る気になったようで、「よされー、よされー、よされ節ー」とよされ節を触れた。最初にオサムさんのところに行ってオサムさん登場。もうひと方、おそらく運営か報道の男性が中央に進んだ後、ギリヤーク師は最前列の女性を次から次へと引っ張り出すので、狭いスペースが人だらけになってしまった。

2、3年前まではギリヤーク師の動くスペースが必要なので、ブルーシートの桟敷席まで距離があったので「よされ節」が多人数でも大丈夫だったが、いまでは横浜六角橋くらいのスペースしかない。あんまり引っ張り出すと収拾がつかないのであった。でも、きっとたくさん集まってうれしかったのだろう。

よされ節が終わると再び盛大な拍手。今度は師匠トークをする暇もなく、念仏への衣装替えである。残念ながらこれもキノさんの手を借りなくてはならない。思えば、荷物運び、化粧、着替え、テープ、すべてキノさんの助けが必要である。それでもなんとしても50周年まではがんばりたいのだろう。キノさんお疲れ様。

かつては、縞のランニングシャツ(というのかどうか)、黒のズボン、革靴から器用に踊りの衣装に着替えたものだが、いまではコルセット姿が痛々しい。赤の頭巾を被った後、例のよだれかけを持って観客の方へと進む。ちょっとざわついたのは、「もっときつく。それじゃ苦しい」のギャグを会場でも期待したせいだろう。さすがにその余裕はなく、おとなしく結んでもらう。

「念仏じょんがらを」「・・・のため」「精魂込めて踊らせていただきます」とぎれとぎれでよく聞き取れない。今年はどの災害の犠牲者のためだったのだろう。「ねんぶつー、ねんぶつー、ねんぶつじょんがーらー!」ギリヤーク師精一杯の触れである。「いいぞ!」「がんばれ!」「日本一!」会場の方々から掛け声がかかる。

ギリヤーク師は茣蓙を脇に、杖を突いて、念仏じょんがらの準備。キノさんがテープのスイッチを入れる。キノさんの年齢だと、テープレコーダーはもちろん、カセットテープだってほとんど見たことがないはずである。私が就職した頃CDが出始めて、ハードディスクなどいろいろな媒体を経ていまやネットで音楽を聴く時代。私も引退する歳になった。

例によって、ご詠歌、風の音、三味線が交差する。「念仏じょんがら」のスタートである。


やっと始まった「よされ節」。例によってオサムさん登場。コルセット姿でがんばる師匠。


残念ながら、着替えやテープの準備はキノさんの手を借りなくてはなりませんでした。


「念仏じょんがら」を精一杯踊らせていただきます。

「念仏じょんがら」が始まった。以前ギリヤーク師は、「体が動かなかったら顔で踊る」と言っていたが、まさにこの日は顔で踊っていた。体の方も、以前のような大暴れという訳にはいかないものの、きちんとステップも踏めていたし、リズムも取れていた。数珠を手繰りながら、一生懸命に肩を揺らし、体を屈伸させ、顔を伸ばしたり縮めたりしている。

中盤に入ると数珠を振り回し、頭巾もよだれかけも脱ぎ捨てる。まさか階段まで行くつもりでは、と思ったがさすがにそれはなく、螺旋階段とは逆側に走って用意してあった例のバケツから水をかぶる。会場からは拍手、大歓声である。

このあたりから、ギリヤーク師に向けて色とりどりの紙に包まれた投げ銭が舞う。ところが、いつもより相当に距離があるものだから、なかなか踊るスペースまでは届かない。ブルーシートに座っていた人達は、頭の上から投げ銭が降ってきたことだろうと思う。私の近くの人も、ティッシュに包んだおそらくお札を投げたものだから、舞台のかなり前に落下してしまっていた。

水をかぶった後、念仏のラストでギリヤーク師は寝転んでのた打ち回る。おそらくそうしていたのだろうと思うが、人垣にはばまれて何をしているか全く見えない。きっと「かーさーん。来年は50周年、がんばるよー」と言っていたのだろう(100%私の想像)。

一度寝てしまったら起き上がるのが大変だと思っていたのだが、何とか立ち上がってお母様の写真を手に、再びトークが始まった。今度はキノさんがマイクを用意してスピーカーで流してくれたのだが、これがまたよく聞き取れないのである。

「来年はもっと踊れるように・・・」「みなさんも・・・」距離があるせいもあるが、いつもよりも滑舌がよくないようでもある。報道の集音マイクも向けられていたが、果たして音が取れたかどうか。それでも観衆はそのまま動かず、ギリヤーク師が話す言葉に耳を傾けている。

岩波の雑誌「図書」にギリヤーク師の原稿が載っているという話と、写真集(北海道新聞の)を買ってくださいという話は、キノさんがアシストしたのとモノが見えるので意味がよく分かった。岩波の雑誌は紹介だけの予定だったと思うが、ギリヤーク師は朗読を始めてしまい、これもしばらく続いた。

内容としては、「私が小さい頃、大道芸人の親子を見て云々」といういつもの話なのだが、後日、図書館に行ってその雑誌を読んだところ、「じょんがら一代」の話、妹さんの話、お母様の話などいつものトークでおなじみの話題の他、伊丹監督の映画に出た時の話もちらっと書いてあって興味深かった。

ギリヤーク師の生家が函館の菓子屋ということは知っていたが、その菓子屋がうまくいかず秋田の大館に移ってホームラン焼をヒットさせたこと、その菓子屋を売ったおカネで師が再び東京に出たことなど、はじめて聞いた話もあった。「おかあさーん」は、後に東京に出て来て、ギリヤーク師と一緒の会社で清掃員の仕事をしていたそうだ。

私も歳をとるとともに思うようになったのだが、人がみんな同じような生活をして同じような人生を送る必要はない。ギリヤーク師はある日青空をみてインスピレーションが下りてきたというようなことが書いてあったけれど、人それぞれ、自分のやりたいことをして好きな人生を送る権利がある。他人に大きな迷惑をかけない限りにおいて。
  
いつものように、トーク途中で会場を離れた。振り返ると、人が多い時でも後ろの方で下の煉瓦が見えるくらいなのだが、そこも人で埋め尽くされ、階段も歩道橋も人人人であった。おそらくピークで500人来ていただろう。ギリヤーク師にとっては喜ばしいことだが、個人的には数年前、大雨の中、30人くらいの観客で身近に見た時がなつかしかった。

いまなら、仮に雨になっても相当の人数が集まるだろう。そうしたことを考えると、時間は逆に戻せない、あの時の公演を見ておいてよかったとしみじみ思うのである。


三味線と風の音、ご詠歌が流れる中、ゴザを手に踊り始めた師匠。暴れ回ることはなくなったが、懸命に踊る。体が動かなければ顔で踊る。


お母様の写真を手に、目線は、今年は登れなかった螺旋階段の方を向いているようだ。


例によって抜け出した後の会場。今年はピークで500人以上いたと思います。階段も歩道橋も満員。ギリヤーク師の周りに見えるのは投げ銭の包み。

106 苦闘の第7次四国札所歩き遍路 ~せいうち日記106 [Oct 30, 2017]

ギリヤーク尼ヶ崎師匠の新宿公園を観戦した後、7回目となる四国札所歩き遍路に挑戦した。今回の区切り打ちは当初は13泊の予定だったのだけれど、これまでとは全く違って本当に苦しいお遍路歩きとなったのでした。 “106 苦闘の第7次四国札所歩き遍路 ~せいうち日記106 [Oct 30, 2017]” の続きを読む

361 番外霊場大善寺 [Mar 29, 2017]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

お遍路区切り打ちも、第6次となる。前回は「発心の道場」阿波を抜けて、「修業の道場」土佐に入った。最終日には高知市街を抜けて須崎の手前まで歩いたが、これから次の難関である足摺岬に向かうことになる。 “361 番外霊場大善寺 [Mar 29, 2017]” の続きを読む