912 三毛別ヒグマ事件跡地 [Aug 6, 2014]

昨年、留萌の近くを走っていて行きそびれたのが、三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件の跡地であった。この事件は、史上最大の熊害(ゆうがい)事件とされるもので、調べるとたいへん興味深いものである。今年の夏は旭川を中心に回ったのだけれど、旭川と留萌はそれほど遠い訳ではないので、道央道と留萌道を乗り継いで行ってみることにした。

三毛別は三毛別川に沿って開かれた開拓地で、小学校の名前が「三渓小学校」というから、もともとはアイヌ語(サン・ケ・ペッ)から付けられた地名と思われる。ちなみにアイヌ語の「ペッ」は川という意味で、北海道の地名に「・・・別」が多いのはアイヌ語の地名に「・・・ペッ」が多いことによる。

WEB情報によると、実際に事件があった跡地に行く前に、苫前町(とままえまち)郷土資料館で予備知識を得てから行くのが正解らしい。苫前町は、昨年訪問した道の駅・鰊(にしん)番屋から10kmほど北上したところにある。この先食事をするところはないかもしれないので、道の駅で早いお昼を食べて行く。1年振りだけれど、ほぼ記憶に残っている道である。

郷土資料館の入口にさっそく、「熊害事件再現地周辺では、熊が出没しています。また、アブ・ハチ等が発生していますのでご注意ください」と書いてある。受付のおばさんに聞いたところ、「クマは札幌の方に出かけていて今はいない。アブとかハチはまだこの時期(7月初め)だからそれほどでない」ということであった。

(ちなみにこのおばさん、おそらく歳は私より10くらい上だと思うのだが、おじいさんが三毛別の人で、昔の実家がかつての対策本部だったらしい。)

この資料館には、下の写真のように事件再現展示がある。この展示だけみるとユーモラスなのだが、実際は冬眠しそこねた巨大熊が何度も人里を襲うという凄惨なもので、7人が死亡、3人が重傷を負った。最近の映画「デンデラ」の熊は、この事件をイメージして作られたものだと個人的に確信している。

応接室にはソファと椅子が置かれていて、事件をもとに作られた三国連太郎主演の映画「羆嵐(くまあらし)」が流されている。平日の昼間だというのに先客が6、7人いたから、意外と知名度のある施設のようだ。もっとも、映画では熊の大きさが実感できなくて(中に人間が入っているのだろうから仕方ないが)、それを実感するためには史上最大の熊「北海太郎」のはく製が役に立つ。

北海太郎のはく製は再現展示の対面にあり、400kgといわれる巨体で来館者を威嚇している。ただし、この北海太郎は人を襲った訳ではなく、家畜や農作物だったらしい。この展示を見て以来、私はなぜか「北海太郎」と呼ばれている。

資料館を出て海岸沿いを少し戻った後、内陸部に向けて車を走らせる。左右は水田と牧草地が主で、人家が点々と続いている。10kmほどで古丹別(こたんべつ。また「別」だ)の街で、ガソリンスタンドや商店、学校、病院があるそこそこ大きい街である。ここから進路を南にとって、事件跡地に向かう。何とその名が「ベアーロード」、ところどころに熊のイラストが描かれている。

ベアーロードを進むこと10km、いまは廃校となった三渓小学校跡に着く。校門と校庭、記念碑が残されており、校舎は農家の倉庫か作業場に使われているようだ。記念碑をみると、昭和終わり頃の日付で、開校90周年と書かれている。この碑が建てられて間もなく閉校となり、百周年は迎えられなかったものであろう。

それより驚くのは、この小学校が開校されたのが明治時代ということである。ヒグマ事件当時(大正4年)も、この小学校があったということである。こんな山奥に、なぜ多くの入植者がいたのだろうか、また、寒い北海道でこんな家(下写真)に住んでいるのに、子供達は何kmも歩いて学校に行っていたのだろうかと考えると、興味が尽きない。

小学校からさらに5kmほどで、射止橋(うちどめばし)という橋がある。ここで例のヒグマを銃撃し、手傷を負わせたという場所である。撃たれた後も熊は逃げ続け、最後にとどめをさしたのは映画では三国連太郎が演じた熊撃ち猟師である。

さて、明治時代はかなり多くの開拓農家があったこの地にも、現在はまばらに家が残るくらいである。そしてその人家も、射止橋を過ぎるとさらに減っていき、いよいよ舗装道路がなくなってしまうとその先人家はない。事件跡地までは狭い未舗装の道を進まなければならない。

 


苫前町郷土資料館の三毛別熊害事件再現展示。昭和終わり頃に地元老人会が製作したものだそうです。


最寄の市街地である古丹別から15kmほど奥に進むと、「射止橋(うちどめばし)」に到着。この橋で巨大熊に手傷を負わせたことから名付けられた。


現地に向かう残り1kmほどは未舗装。つまりここから先には現在、人家がないということですが、事件当時はもっと奥まで開拓農民達が入植していたとのことです。

 

未舗装道路を進むこと1km弱、いよいよヒグマ事件跡地に到着した。車の周囲には、さっそく虻やら蜂やらが寄ってくるので、まずは車の中から観察する。大正時代とはとても思えない粗末な小屋に、巨大な熊が襲いかかっている(写真)。

ヒグマは北海道に生息していて、本州のツキノワグマに比べて気性が荒く、人間にも平気で襲いかかってくるといわれている。だが実際にはツキノワグマと同様、ヒグマも基本的には人間を避けたいという気持ちは持っているようだ。でなければ、クマが人間を襲うという事件はもっと多いだろう。

ヒグマの本拠地である日高山脈でも、登山者をヒグマが襲った大事件は1970年の福岡大学事件などがあるものの、それほど多い訳ではない。最近でもヒグマ目撃情報は山ほどあり、実際に写真に撮った人も多くいるにもかかわらず、ヒグマの方が逃げているので大事に至っていない。やはりヒグマにも個体差があり、あまり無謀なのは遺伝子を残せないのかもしれない。

思うに、ヒグマ以上に現実の脅威なのは蜂である。熊はニュースになるが蜂はニュースにならないためあまり知られていないが、熊に襲われて死ぬ人はほとんどいないのに対し、蜂に刺されてアナフィラキシー・ショックによって命を落とす人はけっこういる。北海道の山道を通ると、こうして蜂がぶんぶん飛んでいるのに出くわすことがある。とても車の外には出られない。

資料館のおばさんはまだ大丈夫と言っていたけれど、やっぱり蜂はいるのであった。洞爺湖の近くに虻田という地名が残るように、北海道は虻だの蜂だのが多い土地なのだ。もっとも、雪解けからそれほど経っていない7月初めなのでよく見ると1、2匹しか飛び回っていないようなので、隙を見て車の外に出てみる。

再現展示のヒグマは、資料館の展示熊よりかなり大きい。実際に巨大熊だったのは確かなようである。それより驚いたのは小屋の中で、ほとんど倉庫と変わらない。白老や阿寒湖のポロトコタンにあるアイヌのチセは江戸時代のものを再現しているのだが、そのくらいの時期に作られたように感じる。でも実際は大正時代なのである。開拓農民の生活はそれほど厳しかったのだろう。

現在は舗装道路より奥に人は住んでいないようであるが、事件当時ここよりさらに奥まで人家はあったらしい。なぜこんな山奥に入植したのか考えてみると、当時は鉄道網も高速道路網もない。あまり豊かでない開拓農民が移動してきた手段は、おそらく海路である。だとすると、鰊御殿が建つほどニシン漁が盛んだったこのあたりは、いま考えるほど山奥ではなく、上陸した港から近かったのかもしれない。

草むらの中に、さりげなく熊のオブジェが置かれている。最初から藪の中に置いたのか、それとも作ってから周囲に草が進出してきたのだろうか。「熊出没注意」と書かれているので、ちょっとびっくりする。

再び蜂が寄ってきたので、何枚か写真を撮って早々に車の中に戻る。よく見ると建物わきにはヒグマ事件の概要が書かれている案内板があり、周辺には遊歩道やトイレも整備されているらしい。とはいえ、これだけ虻蜂が多いと外を歩くのは難しいだろう。地域おこしのためがんばって作った施設だろうけれど、歩いて見れるのは雪解けからわずかの間なのかもしれない。


ついに出た!冬眠しそこねた巨大熊が開拓農民の家を襲う!それにしても、大正時代の開拓農民の家が、江戸時代のアイヌのチセとそれほど変わらないのにはちょっと驚く。


さりげなく薮に置かれた熊のオブジェ。「付近に熊が出没します」と書かれているが、これは本物ではない。熊はともかく、虫が多いのであまり長居はできない。

[Aug 6, 2014]

911 月形樺戸博物館 [Aug 14, 2013]

今年の北海道は、これまで行ったことのない石狩から留萌にかけて走ってみようという計画である。新千歳空港に下りて札幌に1泊し、翌朝レンタカーを借りて出発した。

札幌市内を出るまではちょっと渋滞する。私が最初に来た38年前にはすでに札幌は百万都市だったが、いまや百九十万都市である。当時より倍近く人口が増えた結果、市街地も様変わりしていて、昔何もなかったところ(例えば、札幌競馬場周辺とか)にもマンションが建ち、イオンやヨーカドーが並んでいる。サッポロビール園の周りも、再開発されて当時の面影はほとんどない。 “911 月形樺戸博物館 [Aug 14, 2013]” の続きを読む

910 国際館の恐怖 [Mar 8, 2011]

(昔、豊水すすきの東にありましたが、現在はありません。というか、普通の東横インになってます。)

さて、先日まで北の方の地方都市に出張してきたのだけれど、その時あった恐ろしい話をひとつ。営業妨害になるといけないので、とあるビジネスホテルチェーンの国際館とだけ書いておく。 “910 国際館の恐怖 [Mar 8, 2011]” の続きを読む

810 大潟村干拓博物館 [Sep 1, 2009]

かつて、琵琶湖に次ぐ日本で二番目に大きい湖は、秋田県の八郎潟であった。

この八郎潟が干拓されたのは昭和30~40年代にかけて、今から40年ほど昔のことである。小学校の社会科で、この干拓により諸外国並みの大規模農業が可能になり、食糧増産にも大きく寄与すると習ったのだけれど、その直後から減反政策が始まったのはまさに皮肉なことであった。 “810 大潟村干拓博物館 [Sep 1, 2009]” の続きを読む

412 熱海赤線地帯跡 [Jun 20, 2014]

その昔、赤線という風俗地帯があったらしい。らしい、というのは売春防止法によって赤線が廃止されたのが1958年であるから、まだ私が生まれてすぐくらいのことで確かにはわからない。 その赤線の遺構が熱海にあるということを知ったのは、B級スポット情報に詳しい雑誌「ワンダーJAPAN」の2012年1月号である。 “412 熱海赤線地帯跡 [Jun 20, 2014]” の続きを読む

510 三条競馬場跡 [Aug 11, 2014]

私が社会人になった頃まだ現役だった競馬場で、いまでは廃止されたところが結構ある。北海道では、ばんえい帯広・道営門別に集約されて旭川や岩見沢がなくなってしまったし、上山競馬、紀三井寺競馬、益田競馬も廃止されてしまった。最近では、荒尾競馬も廃止された。おそらく近い将来、JRA以外の競馬場は大都市近郊以外では生き残りが難しくなるだろう。 “510 三条競馬場跡 [Aug 11, 2014]” の続きを読む

411 大仁金山跡 [May 20, 2016]

伊豆は、江戸時代には佐渡と並ぶ産金地だったそうである。

有名なのは土肥金山で、テーマパークのようになっているそうであるが、現在、私の住んでいる狩野川流域の大仁(おおひと)にも金山があった。実はこの金山、採掘時よりも閉山後の方がむしろ有名で、廃墟マニアにはよく知られた廃鉱施設として、比較的最近までいろいろな機械設備類が野ざらしになっていたということである。 “411 大仁金山跡 [May 20, 2016]” の続きを読む

410 関ヶ原ウォーランド [Jul 15, 2009]

出張といえば、昔は交通費を概算で渡して後はよきに計らえというスタイルだったが、最近は早割り切符を会社で取ったりするので自由がきかない。そのうえ、「東京駅or羽田空港を7時に出て目的地に着く場合は日帰り」というルールで、理屈の上では日本全国日帰り圏になった。成田空港近くのわが家にとっては体力的に間に合わない。

というわけで、中部地区の出張は自費で前泊にしてしまう。今回は、以前から行ってみたかった関ヶ原に出かけてみることにした。 “410 関ヶ原ウォーランド [Jul 15, 2009]” の続きを読む