カテゴリー
その他国内紀行

016 読谷・座喜味城 [Mar 11, 2015]

今回の沖縄では、はじめて読谷(よみたん)村に行った。読谷のグスクを座喜味(ざきみ)城といい、首里城、勝連城、今帰仁城などとともに世界遺産として登録されている。本州の城の石垣は基本的にまっすぐ建てられているのに対し、沖縄のグスクの石垣はなめらかな曲線となっているが、中でもこちら座喜味グスクは、エレガントな曲線と内郭と外郭をつなぐアーチに特色がある。

座喜味グスクを築城したのは、第一尚氏時代の有力按司(あじ=地方の豪族)である護佐丸とされている。護佐丸のライバルが勝連城のアマワリ(阿麻和利)で、この両者の攻防はいってみれば川中島の戦いのような実力伯仲の戦いであったらしい。結果的には第一尚氏の中山王・尚泰久により両者とも滅ぼされ、第二尚氏成立までの内戦につながるのであった。

他の多くのグスクと同様、かつてあったであろう建物は残されていない。なにしろ台風で秒速50mなどという暴風が吹く土地柄だから、やむを得ないことである。そういえば、こちらで神域とされる場所の多くは、洞穴であったり、石で囲まれた場所だったりする。かつて暴風で建物も食べ物も根こそぎ持って行かれた時に、そうした場所で命拾いしたことが起源なのかもしれない。

グスクの多くには、御嶽(うたき)と呼ばれる霊場がある。座喜味グスクもそうした霊場の名残があるのだろうか、私と奥さんが行った時に、外郭外側の石垣に向かって、何やら唱えながら母娘と思われる二人組が礼拝をしていたのである。黒い炭のようなものを何本かずつまとめて袋に入れたものを、何十袋も石垣の前に並べている。

その後、四角く切った紙に、お櫃からまぜご飯(ジューシイ?)、煮付けのようなものを乗せて石垣に供え、再び何やら唱え始めたのである。最初は黒い炭の袋を売っているのかと思ったのだけれど、一心に壁の方を向いて唱えているのでそうでもなさそうだ。母親の方はかなり年配のおばあさんで、娘の方も中年の上の方になりつつある年齢と思われた。

沖縄の墓地では、こうした年恰好の女性が法事を主催しているのをときどき見かける。現地ではノロとかユタとか呼ばれていて、ノロが坊さんや神主、ユタが祈祷師・占い師にあたるらしいが、微妙なニュアンスの違いはよく分からない。ともかく、私自身沖縄を歩いていて、破風墓や亀甲墓の前で坊さんがお経を唱えている場面には出会ったことはない。

坊さんを見ないのも道理、沖縄には寺自体少ない。もちろん有力宗派の寺は市内を歩くといくつか見かけるのだが、本土によくある禅宗様式の木造のお堂ではなくて、いかにも最近になって作られたような、言ってみれば香港・マカオの道教寺院のような雰囲気なのである。つまり、われわれが葬式といえばお寺さんでお経と思うのは江戸時代の寺請制度の名残りであって、本来その土地ごとに葬送の仕方が違っていたということなのである。

他のグスクと比べるとそれほど規模は大きくない。読谷のすぐ先は残波岬であり、物資輸送上の戦略的な位置づけとしてそれほど重要ではなかったのかもしれない。このグスクを築いたとされる護佐丸も、のちに拠点を首里・勝連間に位置する中城(なかぐすく)に移している。

石垣の一部には階段が付けられていて登ることができる。北西に読谷市街、南東に見えるのは嘉手納米軍基地の施設だろうか。石垣には手すりがないので、行き過ぎると十数メートルまっさかさまである。そのため石垣の上には、「いっちぇーならんどー」と書かれた標識が立っている。

20分くらい内郭を見学して再びアーチのところに戻ってくると、お祈りが終わったのだろう、段ボール箱に荷物を片付けている最中であった。そして、さきほどお祈りをしていたのは母娘二人だったが、一人加わって3人になっていた。年恰好からすると、おばあさんの孫のように見える若い子であった。

「あの子、さっきまであっちの方でスマホやってた子だ」と奥さんが言う。
「お祈りは参加しなかったけど、片付けは手伝うんだね」

ノロもユタも、女性司祭者は女系で世襲されると聞いたことがある。スマホやってた若い子も、もしあのおばあさんの孫なのだとすれば、いつかはお母さんと一緒に石垣に向かって祈ることもあるのだろうか。

[Mar 11, 2015]


本丸の石垣上からみた外郭と門。微妙な曲線に特徴がある。背後に読谷町の市街地が見える。写真のアーチの外に石垣を拝んでいる母娘がいた。


立入禁止の標示。すぐ奥は高さ10mの石垣の上。手すりなし。意味が分からないと、行っちゃいそうだ。