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211 備中高松城 [Feb 13, 2006]

昨日の日曜日は、岡山ポーカーオフ参戦のため日帰りで岡山遠征してきたのだが、午前中は近くの史跡めぐりをした。その際、最初に行ったのが空港から下りてきてすぐの備中高松城なのだが、ここがかなりおもしろくて予想外の長居をしてしまった。

備中高松城とは、安土桃山時代、織田信長が明智光秀の謀反に遭った本能寺の変が起きたときに、羽柴秀吉(もちろん、後の太閤豊臣秀吉)が中国進出のため攻撃していた城である。

秀吉は、沼地にあるこの城を落とすにはやみくもに攻撃するのではなく、補給を断って持久戦に持ち込むべきだと考えた。そして、付近に高さ7m長さ3kmにわたる堤防をたった12日間で築き、足守川の水を城側に誘導することによってあたり一面を湖にしてしまった。城主清水宗治は自分ひとりが腹を切ればすむならばと舟の上で切腹、それを見届けた秀吉はその日のうちに退却して明智光秀との決戦に向かったという「中国大返し」の舞台である。

この備中高松城の跡地は現在公園として整備されており、当時の資料を展示した「備中高松城資料館」が無料開放されている。そこに行ってみると、おそらく地元の歴史愛好家のボランティアであろう年配の方々がストーブを囲んで談笑されており、私が行くと親切にいろいろ教えてくださった。そこでまず最初に目を奪われたのは、昭和60年の豪雨の時にこの辺り一面が水没してまさに湖のようになっていた写真である。

現在は、もちろん堤防やダムが整備されており、秀吉が築いたとされる長さ3kmの堤もない。それでも、豪雨が来れば水没してしまうのである。そして、「中国大返し」当時の地面は、いまよりさらに2mほど低かったという。ならば、手間ひまかけてそんな堤防など築く必要があったのかどうか。

説明してくれた方の意見では、現在の土木技術(つまりブルドーザーとか重機をふんだんに使える)をもってしても、秀吉が行ったとされる12日間で高さ7m長さ3kmの堤防工事は無理だということである。上流の堤防をこわして水を流したり、あるいは水の引け口に堤を築く程度はやったとしても、3kmの堤防を築いたというのは嘘だろうとおっしゃっていたが、私も全く同感である。

そして、足守川というのは天井川だそうである。天井川というのは、普段は水量が少なく、流れてきた土砂が沈んでしまって水面が高くなっているのだが、こうした川でひとたび大水が出ると、水害が起こりやすい。つまり、秀吉がこの城を落とせたのは知略とか土木技術ではなくて、たまたま豪雨があって水害が起こり、あたりが水没してしまい城が孤立してしまった、つまり運が良かっただけということになる。

もう一つ気になったのは、本能寺で信長を討った明智勢の使者が、毛利方に第一報を知らせようとして(もちろん、秀吉をここに釘付けにするためである)間違って秀吉側の陣地に行ってしまったという話である。感覚的には、ここより東は秀吉の、西は毛利の勢力圏であり、敵中突破できなかったのは仕方がないと考えていたのだが、実は秀吉と毛利方は足守川を挟んで対峙していて、旧山陽道、つまり昔の主要道はもっと南側、備中国分寺とかに近いところを通っており、そこは毛利の勢力圏だったのである。

だとすれば、この使者はちょっと南に迂回すれば問題なく使命を果たすことができたはずであり、なぜそんな凡ミスを犯したのかよく分からない。単に密書を取られるだけならモラールが低かったのだろうで済むのだが、戦国の世のことだから、当然この使者は首をはねられているのだ。そんなことを考えながら資料を見ていたら、あっという間に時間が経ってしまったのでありました。


備中高松城跡。現在は公園として整備されている。


備中国分寺。田園地帯に突然五重塔が姿を現わす。

[Feb 13, 2006]